第十一章 陸炎(ルー・イエン)
陸炎は、寿宴用の暗い紅の常服をまとっていた。
それなのに、腰には変わらず刀がある。
甲を着ているわけではない。
けれど、そこに立っているだけで、庭中の甲兵よりもずっと強い圧を放っていた。
陸炎の目が、沈瓷の背後に立つ兵士たちの、半ば抜かれた刀をなぞる。
次に、砂盤と呉猛を見る。
最後に、その視線が沈瓷へ落ちた。
鉄の塊を押しつけられたような重さだった。
息が詰まる。
「将軍……」
沈瓷は、とっさに舌先を噛んだ。
そうしなければ、情けない声が漏れていたかもしれない。
陸炎は沈瓷を見たまま、ゆっくり口を開いた。
「顔を上げろ」
「見せてみろ」
「どんな焼き物職人が、陸家第一の参軍に勝ったのかをな」
沈瓷は、顔を上げるしかなかった。
陸炎の目が、その顔に留まる。
その目に、ごく薄い驚きが走った。
沈瓷の顔立ちに驚いたわけではない。
この少年は、顔色が白い。
首には、さっき締められた赤い痕まで残っている。
それでも、陸炎の視線を受けて崩れ落ちはしなかった。
怖がっているのは分かる。
だが、乱れてはいない。
十六歳の窯職人が、庭いっぱいの将と刀兵の間に立って、それでも心を失わない。
それだけで、すでに普通ではなかった。
陸炎は、呉猛へ顔を向ける。
「おまえは、推演でこの小僧に負けたのか」
「はい」
呉猛は言い訳をしなかった。
ただ一言。
それだけだった。
陸炎は呉猛を見た。
その一瞥だけで、演武場にいた全員の呼吸が浅くなる。
呉猛がどういう男か。
それは陸炎が誰よりよく知っている。
その呉猛が、人前で負けを認めた。
それだけで、この一件は十分に重い。
陸炎は細かい経緯を問わなかった。
砂盤の前へ進み、ただ一度、盤面を見下ろす。
最後に視線が止まったのは、白軍の本営側背に刺さった、あの黒旗だった。
しばらくして、陸炎は顔を上げ、沈瓷を見る。
「悪くない」
沈瓷の喉が強張った。
「私は……ただ、でたらめに動かしただけです」
陸炎は、その言葉を受けなかった。
呉猛を見る。
「でたらめで、おまえに勝てるか」
呉猛は淡々と答えた。
「勝てません」
沈瓷の頭皮が、ぞわりと痺れた。
陸炎は視線を戻す。
「小僧。名は」
沈瓷は慌てて頭を下げた。
「民の者、沈瓷にございます」
「沈瓷……」
陸炎は、その名を一度繰り返した。
「沈家窯の者か」
「はい」
「今日、屋敷へ来たのは、寿瓶を届けるためか」
「はい」
「父は沈老三だな」
「はい」
「よい。よい。実によい」
陸炎は三度そう言った。
そして、呉猛へ向き直る。
「今日から、こいつを陸家軍に入れる」
その言葉が落ちた瞬間。
沈瓷は、全身を固まらせた。
問いかけではない。
相談でもない。
前置きすらなかった。
沈瓷は思わず顔を上げる。
「将軍、私はただの焼き物職人です」
「知っている」
「刀も槍も習っておりません。馬にも乗れません」
「軍で教える」
「家には父がいます」
「陸家から人をやって知らせる」
「私は、軍へ入りたくありません」
その一言で、そばにいた将たちの顔色が変わった。
陸闥など、目を見開いている。
生まれてから今まで、平民が父に面と向かって拒むところなど見たことがなかったのだ。
けれど、陸炎は怒らなかった。
ただ沈瓷を見ていた。
「俺がおまえの意見を聞いていると思ったか」
沈瓷の胸が沈む。
陸炎の声は静かだった。
だが、そこには一分の逃げ道もなかった。
「おまえは今日、呉猛に勝った」
「庭中の将たちが、それを見ている」
「この演武場に足を踏み入れた瞬間から、おまえはもう、ただの沈家窯の若旦那ではいられない」
「ここは辺境だ」
「兵を動かせる焼き物職人など、まともに見えるか?」
その一言で、演武場は完全に静まり返った。
沈瓷は口を開きかける。
まともではない。
それは、沈瓷自身も分かっている。
だが、それと自分に何の関係があるのか。
沈瓷は、ただ寿瓶を届けに来ただけだ。
陸清禾の割れた小瓶がなければ。
砂盤を一目見なければ。
呉猛にあそこまで追い詰められなければ。
今頃は前の広間で寿酒を一杯飲み、割れた磁器を抱えて屋敷を出ていたはずだった。
けれど、そんなことは一つも口にできなかった。
陸炎は沈瓷を見据えたまま、なおも落ち着いた声で続ける。
「沈瓷」
「今日、おまえが立派な瓶を焼いただけなら、俺は銀を取らせて終わりにした」
「だが、おまえは呉猛に勝った」
「しかも、庭中の将たちの前で勝った」
陸炎が一歩、前へ出る。
重い足音ではなかった。
それなのに、沈瓷は足元の地面ごと沈んだように感じた。
「この話が外へ漏れれば、陸家だけがおまえを調べるのではない」
「朝廷も調べる」
「北の連中も調べる」
沈瓷は、割れた磁器を包んだ布を抱く手に力を込めた。
陸炎は、沈瓷に口を挟む隙を与えない。
「沈家窯に残っても、おまえは自分を守れない。沈家窯の者たちまで巻き込む」
「陸家軍に入れば、俺がおまえと沈家窯を守れる」
その言葉は、沈瓷のためを思っているようにも聞こえた。
だが沈瓷には分かる。
これは相談ではない。
命令だ。
そして、鎖でもある。
そばに立つ呉猛の口元が、あるかないかほどに動いた。
陸炎が直接人を取ることに、少しも驚いていないらしい。
この少年は、あまりにも問題が大きい。
外へ放つより、目の届く場所へ置いたほうがいい。
沈瓷の喉はからからだった。
「将軍、私は本当に軍務などできません。私は……死ぬのが怖い」
陸炎は沈瓷を見る。
声が、少し沈んだ。
「死を恐れるのは悪いことではない」
「死を恐れるからこそ、人の命の重さが分かる」
その言葉に、沈瓷は一瞬、動きを止めた。
陸闕はそばに立ち、父が自分より年下の少年を追い詰めるのを見ていた。
止めたい気持ちはあった。
だが、できなかった。
目の前にいるのは陸炎。
父であり、陸家軍の総帥だ。
陸炎が決めたことを、誰も止められない。
今の陛下でさえ、容易には止められない。
沈瓷は割れた磁器の包みを抱き、指先にさらに力を込める。
そのとき。
陸炎の目が、ふと沈瓷の腕の中へ落ちた。
「抱えているものは何だ」
沈瓷は一瞬、固まる。
「割れた磁器です」
「どんな磁器だ」
「白釉に花を描いた小瓶です」
陸炎の落ち着いた目が、そこで止まった。
「白釉の花描き小瓶だと?」
沈瓷の胸が、どくりと鳴る。
陸炎が手を出した。
「見せろ」
沈瓷に逆らえるはずもない。
腕の中の布包みを差し出す。
そばの親兵が受け取り、布を広げた。
割れた磁器片が、姿を現す。
白釉。
薄い胎。
胴には、途中で途切れた花模様が残っていた。
陸炎は一目見ただけで、顔を沈めた。
演武場にいる者たちも、すぐ空気が変わったのを察した。
呉猛も目を細める。
陸炎は手を伸ばし、欠片の中から瓶腹の一片を拾い上げた。
半分だけ残った花枝は、すでに割れている。
それでも、陸炎には分かった。
これは、陸清禾の母が生前、最も大事にしていた小瓶だ。
病が重くなった年、彼女は自分の手で、この小瓶を陸清禾へ残した。
それから何年も、陸清禾はほとんど他人に触れさせなかった。
陸炎は手の中の欠片を見つめたまま、長いこと何も言わなかった。
沈瓷の額に冷や汗が浮かぶ。
この小瓶は、思っていた以上に重いものらしい。
陸炎が、ゆっくり目を上げた。
「この瓶が、なぜおまえの手にある」
沈瓷は頭を下げる。
「お嬢様が不注意で割ってしまわれました。損傷はそれほど重くなかったため、私が修復をお約束しました」
陸炎は沈瓷を見据える。
「本人が、おまえに渡したのか」
「はい」
「おまえは、直すと約束した」
「はい」
陸炎の手が、欠片を握ったまま、わずかに強くなる。
その後。
ふいに、陸炎は笑った。
とても軽い笑いだった。
けれど、それを聞いた呉猛の眉が、ごくわずかに動く。
呉猛は陸炎をよく知っている。
陸炎は、怒っているときならまだ読める。
だが、こういう笑い方をするときは、もう腹の中で決めている。
しかも、たいてい周囲が受け止めきれないような決定を。
案の定。
陸炎は欠片を布包みへ戻し、沈瓷を見た。
「軍へ入りたくないのだな」
沈瓷は一瞬ためらった。
「……はい。私は、入りたくありません」
「よし」
陸炎は言った。
「なら、軍へは入れない」
沈瓷は、はっと顔を上げた。
沈瓷だけではない。
陸闥も固まっていた。
陸闕の眉がわずかに動く。
ただ、呉猛だけは分かっていた。
陸炎が、そう簡単に手を引くはずがない。
次の瞬間。
陸炎の声が、静かに落ちた。
「なら、陸家に婿入りしろ」




