第八章 砂盤演習(三)
離れの回廊で、陸清禾は屋敷の小者たちが二人、慌ただしく走っていくのを耳にした。
「急げ急げ。演武場のほう、えらい騒ぎだぞ」
「誰か殴り合いでもしたのか?」
「違う違う。呉参軍が、焼き物職人の若造と砂盤を打ってるんだ」
「焼き物職人の若造?」
「ああ。今日、沈家窯の寿瓶を届けに来た、あいつだよ」
陸清禾は、血の跡がついた手拭いを握っていた。
その言葉を聞いた瞬間、指先にきゅっと力が入る。
焼き物職人の若造。
沈瓷。
陸清禾は、ほとんど迷わなかった。
身を返し、そのまま演武場へ向かう。
だが、数歩進んだところで、足を止めた。
演武場の正面には、親兵と男客が詰めているはずだ。
観戦用の小楼には、陸家の将たちが集まっているだろう。
陸清禾は陸家の娘ではある。
けれど、ああいう場所へ自由に出入りできる立場ではなかった。
まして、誰かが取り次いで楼へ上げてくれるはずもない。
陸清禾は回廊の下で、唇をきゅっと結んだ。
少しして、後園へ続く小道へ向きを変える。
その道は、とても奥まっていた。
普段、人はほとんど通らない。
けれど、陸清禾にはよく分かっている道だった。
将軍邸の中で、にぎやかな場所は、昔から陸清禾とあまり縁がなかった。
だからこそ、偏門。小径。壁際。誰も掃かないような隅。
そういう場所のほうを、陸清禾は他の誰よりよく知っていた。
築山の裏を回り、小径を抜ける。
やがて、観戦用の小楼の裏手へ出た。
そこには、さほど高くない低い塀があった。
塀のそばには、古い槐の木が一本。
壁際には、修繕に使った残りらしい青い煉瓦がいくつか積まれている。
陸清禾は顔を上げた。
小楼の反対側から、押し殺したようなどよめきが何度も聞こえてくる。
陸清禾は唇を噛んだ。
そして裾を持ち上げ、煉瓦に足をかける。
古い槐のざらついた樹皮を支えにして、少しずつ上へ登った。
こういうことには慣れていない。
動きはぎこちなかった。
何度か足を滑らせ、危うく落ちそうになる。
塀の半ばまで登ったところで、袖が枝に引っかかった。
陸清禾は力を入れて引いた。
その拍子に、袖口が少しずり落ちる。
左の小腕の内側が、あらわになった。
そこには、淡い暗紅色の痣が一つあった。
縁は整っていない。
濃淡もばらばらで、長い年月を経てもなお消えきらなかった噛み跡のようだった。
陸清禾は、そこに深く気を取られなかった。
楼の上から、また低いどよめきが聞こえたからだ。
陸清禾は急いで塀の縁をつかみ、どうにか上へ体を引き上げた。
顔を出すのは、半分だけ。
この角度からでは、砂盤全体は見えない。
欄干と人影の隙間から、演武場の一角が見えるだけだった。
けれど、その一角からは、ちょうど沈瓷の姿が見えた。
沈瓷は黒軍の陣の後ろに立っている。
手には竹竿。
うつむいて、砂盤を見ていた。
ほんの少し前まで、割れた磁器を拾い、ぶっきらぼうな言い方で陸清禾を助けてくれた少年だった。
それなのに今は。
女たちが簡単には近づけない陸家の演武場の中央に立ち、父の配下で第一の参軍と、軍の推演をしている。
「いったい、何者なの……? どうして呉参軍と……」
陸清禾は呆然と見つめた。
その瞬間。
目の前が、ふっと揺れた。
風雪。
灯火。
広げられた軍議机。
黒い甲をまとった男が、机の前に立っている。
その指が、辺境の地図を押さえていた。
帳の外では風が唸り、遠くで戦鼓が低く響いている。
その人は振り返らない。
それなのに、陸清禾の胸は、何かに強く打たれたように震えた。
唇から、無意識に二文字がこぼれる。
「阿満……」
ほとんど聞こえないほど、小さな声だった。
言った本人が、そこで固まった。
阿満?
誰のこと?
どうして、その名前がこんなにも自然に口から出たのか。
演武場から、また慌ただしい足音が聞こえた。
陸清禾は慌てて身を低くし、もう一度中をのぞいた。
砂盤の上では、呉猛の白軍による旧駅道への封鎖が、すでに形になっていた。
枯林の弓騎は、旧駅道の出口をがっちり塞いでいる。
楼上では、かなりの将たちが勝負は決まったと見始めていた。
「これで黒軍の旧駅道は完全に死んだな」
「その通り。あの小僧があの歩兵で本営を突くつもりだったなら、もう機会はない」
「さすが呉参軍だ。どれだけ前で隠しても、いざ刃を見せようとした瞬間、一手で押さえ込む」
陸闥も、得意そうに目を輝かせていた。
「兄上。これでさすがに終わりでしょう?」
陸闕は答えなかった。
だが、その体は欄干に手をかけ、半身ほど前へ乗り出していた。
何かが、陸闕の視線を一気に釘づけにしたのだ。
陸闥がその視線を追う。
そこに見えたのは——
沈瓷が動いた姿だった。
沈瓷は竹竿で黒軍の前鋒を指す。
散って退いていた黒軍の前鋒が、さらに外へ散った。
そのうち二隊は、白軍の追撃騎兵に食いつかれている。
一見すれば、もう呑まれる運命から逃れられないように見えた。
続いて、竹竿は中軍へ向かう。
黒軍の中軍が、右へわずかに動いた。
旧駅道を助けに行くようにも見える。
後軍は左へ寄る。
敗退する残線を守ろうとしているように見えた。
最後に、沈瓷の竹竿は糧隊のそばで止まった。
補給路の側面を、軽く二度叩く。
黒軍側で旗を置く兵士が、すぐに二枚の黄色い小旗を差した。
それは、黒軍が一部の輜重を捨てたことを示している。
楼上で、すぐに声が上がった。
「輜重を捨てたぞ?」
「隊を軽くするつもりか? 旧駅道へ救援に出るために」
「だが正面はもうあそこまで圧されている。輜重を少し捨てて兵を回しても、旧駅道は救えんだろう」
「呉参軍を、糧に食いつかせるつもりか?」
「馬鹿を言え。そんな子どもだましに呉参軍が乗るものか」
見物人たちの声が、ざわざわと広がる。
実際、呉猛の視線も、二枚の黄色い小旗に一瞬だけ引かれた。
だが、それだけだった。
すぐに竹竿が軽く動く。
白軍の追撃騎兵は、なおも黒軍の前鋒を食いにかかる。
北側高地の主力は、前圧を維持。
やはり、沈瓷の捨てた輜重は、周囲の言うとおり呉猛を釣ることはできなかった。
呉猛は河湾部の騎兵を散らさず、旧駅道と中軍の連絡線をがっちり押さえた。
枯林の弓騎も、さらに半段、旧駅道の出口へ近づく。
白軍は、呉猛の指揮のもと、少しも乱れない。
一手一手が正しく、安定していた。
沈瓷に、突き込む隙をまるで与えない。
楼上の老将たちは、次々と頷いた。
「安定したな」
「あの小僧が旧駅道で何かしようとしているなら、自分から死にに行っただけだ」
「呉参軍はもう、この局を完全につかんでいる」
「確かに、ほぼ決まりだ」
周囲が軽く笑い、勝負を語り始める中で。
陸闕の顔色だけは、むしろさらに重くなっていた。
陸闕は、突然気づいた。
沈瓷の今の数手は、まるで全員へ証明して見せているようだった。
自分の狙いは旧駅道だ、と証明している。
正面ではもう力が足りない、と証明している。
旧駅道を救うためには、糧隊が輜重を捨てるしかない、と証明している。
後軍は必ず寄せなければならない、と証明している。
そして、白軍の回収、封鎖、圧迫。
その一つ一つが、すべて正しいのだと証明している。
そう。
正しすぎる。
戦場に、ここまで都合よく正解ばかりが並ぶものなのか。
たとえ沈瓷が、見るからに軍を知らない焼き物職人だったとしても。
たとえ相手が、あの呉猛だったとしても。
あまりにも、ぴたりと正しい判断が続きすぎている。
その正しさが、逆に背筋を冷やした。
——まさか。
——呉参軍に、正しい選択をさせ続けているのか?
その正しい対応が、白軍の兵力を少しずつ、元の位置から動かしている。
陸闕の目が、鋭く乱石灘へ落ちた。
あの小旗は、まだそこにある。
小さくて、ほとんど誰の目にも留まらない旗。
けれど、その位置は。
さっきより、さらに一寸だけ前へ出ていた。
陸闕の胸が、きゅっと締まった。




