第六章 砂盤演習(一)
演武場には、四人の親兵が刀を手に、沈瓷の背後へ立っていた。
沈瓷は目の端で、半ば抜かれた刀身をちらりと見る。
刃に宿る冷たい光。
それだけで、背筋がぞくりとした。
砂盤の前に立つ沈瓷の手のひらは、もう汗でぐっしょり濡れている。
一方、砂盤の向こう側に立つ呉猛は、落ち着き払っていた。
呉猛は片手を上げる。
「遮蔽旗を立てろ」
その声が落ちるや否や、四人の兵士がすぐに前へ出た。
それぞれ砂盤の両側から、巨大な黒い長旗を持ち上げる。
黒旗は、人の背ほどもあった。
厚い旗布が広がると、まるで二枚の黒い壁のように、砂盤の中央を遮った。
これで黒軍と白軍の陣地は、完全に隔てられる。
沈瓷は一瞬、呆気に取られた。
呉猛は沈瓷を一瞥し、淡々と言う。
「本当の戦場で、敵が兵の配置をすべて見せてくれることなどない」
「砂盤推演で最初から全局が見えているなら、それは推演ではない。子どもの駒遊びだ」
「初手は互いに布陣。中央は黒旗で遮る」
「双方が見られるのは、自陣と、すでに接触した戦線のみ」
「兵鋒がぶつかってから、初めて黒旗を外す」
沈瓷は、ごくりと喉を鳴らした。
二人は砂盤を挟んで向かい合う。
手には、それぞれ一本の細い竹竿。
そして、それぞれのそばに二人ずつ兵士がつく。
一人は点位を確認する役。
もう一人は、駒と旗を置く役。
この兵士たちは、陸家軍から選ばれた手練れだった。
普段から参軍たちの軍務推演に付き、手は安定し、目も早い。
沈瓷側についた二人の兵士の胸中には、疑問が山ほどあった。
彼らはこれまで、呉猛たち将校の推演手を何度も務めてきた。
相手はどれほど低くても、校尉以上の階級だった。
それが今回に限って、窯で焼き物を作る若造の推演手である。
不満がないはずもない。
だが、軍法は山より重い。
どれほど不本意でも、言葉は胸の内へしまうしかなかった。
推演が始まれば、一つ一つの指示は軍令と同じ。
主将に問われない限り、実行する兵士は勝手に声を出してはならない。
勝手に動いてもならない。
破れば軍法により処罰される。
軽ければ軍杖三十。
重ければ、軍機攪乱として扱われる。
演武場の外側には、二階建ての小楼があった。
普段、陸炎が家将たちの推演を検分するときは、その楼上に立って盤を見る。
今日は寿宴で客も多く、小楼はもともと空いていた。
しかし、呉猛が一人の焼き物職人の少年と砂盤推演をする、という話が伝わると。
前の広間にいた将たちは、酒も飲まず、肉も食わず、こぞってこちらへ押し寄せてきた。
ほどなく、小楼の上は人でいっぱいになった。
甲をまとった偏将。
腰に短刀を下げた校尉。
まだ酒気の抜けない古参兵までいて、手には酒壺をぶら下げたままだ。
楼へ上がってきたばかりの頃は、まるで酔っ払いのように、がなり立てていた。
だが黒旗が立った瞬間。
ぴたり。
小楼の上は、鴉が鳴く声すらしないほど静まり返った。
骨の髄に刻み込まれた軍人の感覚が、一瞬で彼らを戦場を見る目に切り替えたのだ。
小楼から見下ろすと、黒旗の両側に、それぞれ半分ずつ砂盤が見える。
沈瓷がどう布陣するかを見たければ、東側の手すりへ行くしかない。
呉猛がどう動かすかを見たければ、西側の手すりへ行くしかない。
普通なら、当然、呉猛側を見る者のほうが多いはずだった。
だが、人間というものは、どうしようもなく好奇心の強い生き物だ。
誰もが知りたかった。
軍の頂点にいるような呉猛が、わざわざ自分から推演を挑んだ相手が何者なのか。
そして、その相手がどんな手を使うのか。
そのせいで、小楼の上はすぐに騒がしくなった。
「どけどけ! 黒軍の布陣を見せろ!」
「押すな! 俺は今、白軍側から戻ってきたばかりだ!」
「呉参軍はどこへ置いた? 誰か見たか!」
「黒軍の小僧は今、どこを指した?」
「俺に聞くな! おまえらに押されて、後頭部しか見えなかったわ!」
東側へ走ったばかりの者が、まだ立ち位置を決めないうちに、西側から低いどよめきが起きる。
すると、また酒壺を抱えて戻っていく。
一人の校尉が慌てて走り、前にいた偏将の背に酒をこぼしかけた。
偏将が振り返り、にらむ。
「一滴でもこぼしてみろ。おまえを楼から投げ落とすぞ」
校尉は慌てて酒壺を胸に抱え込んだ。
「将軍、お怒りを。呉参軍の一手を見逃したくなかっただけです」
「なら、酒壺を持って走るな」
「いえ、もしこの後すごい手が出たら、一口飲んで気を落ち着けようかと」
そばの者が、吹き出しそうになった。
だが、どうにか飲み込む。
陸闕は二階中央のやや東寄りに立っていた。
表情は静かだ。
背後で将たちが市の雑踏のように走り回っていても、動かなかった。
陸闥は我慢できない。
真っ先に呉猛側へ走っていった。
呉猛は竹竿を手に、しばらく考えてから先に動いた。
言葉はない。
竹竿が、砂盤の北側高地の中腹を指す。
軽く、三度。
白軍の兵士が、すぐに三枚の白旗を置いた。
西側の小楼で、誰かが低く呟く。
「呉参軍、北側高地に兵を置いたが、頂は取らないのか?」
「高所を譲った?」
「譲るものか。中腹だからこそ戦いやすいんだ。敵を頂へ誘い、疲れたところを半ばで斬る」
呉猛の竹竿は、次に河湾部の下流へ滑った。
水線の内側を押さえる。
白軍の軽騎が一隊、河湾部の弧の裏へ置かれた。
楼の西側からでも、半分ほどの影しか見えない。
続いて、竹竿は西側の枯林へ入る。
二隊の弓騎が林に散り、前後にずれて配置された。
射界が重なる位置だ。
最後に、呉猛は白軍本営の後方を指した。
竹竿はそこで止まり、まだ押し込まれない。
兵士は一瞬止まり、呉猛を見る。
呉猛の唇が、わずかに動いた。
兵士はすぐに意味を汲み取る。
後軍を示す白旗を引き締める。
だが、本営の入口までは完全にふさがない。
一本の線を残した。
誘い込むための口だ。
楼の上にいた古参の将たちは、すぐに目を光らせた。
「呉参軍の陣、えげつないな」
「北側高地も餌。補給路も餌。本営の後ろ口まで餌だ」
「どこに食いつくか、見ものだな」
陸闥が西側から押し戻ってきた。
目を輝かせている。
「兄上、呉参軍は三つも口を開けました」
陸闕は静かに言う。
「口ではない」
陸闥は一瞬、固まった。
陸闕は下の白軍半陣を見つめていた。
「あれは、三本の刀の鞘だ」
ちょうど陸闥が陸闕へ白軍の布陣を報告しているとき。
少し離れた沈瓷側の見物人たちが、ざわりと動いた。
沈瓷は黒軍の陣の後ろに立っていた。
顔色は、まだ少し白い。
呉猛に締められた首筋には、うっすら赤い跡が残っている。
沈瓷は砂盤を見下ろし、不慣れな手つきで竹竿を握っていた。
その姿は、呉猛の余裕ある佇まいとはまるで違う。
見れば誰でも分かる。
緊張している。
だが、もう退路はない。
やるしかなかった。
沈瓷は深く息を吸い、そばの地勢図を一度見た。
それから目を閉じる。
瞬間。
戦場全体が、巨大な絵巻のように沈瓷の前へ広がった。
しばらくして。
沈瓷の口元に、ごくかすかな笑みが浮かぶ。
竹竿が、一点を指した。
河東平原の中段。
黒軍の兵士が、三隊の前鋒を置く。
続いて二点目。
黒石嶺の南側。
中軍が斜面の下に沿うように並ぶ。
高地へは上がらない。
三点目。
断馬坡の外、三百歩。
歩卒一隊が坡の前へ押し出される。
だが、坡口には入らない。
四点目。
補給路。
沈瓷の竹竿は、まず糧車の前方を指した。
それから、ほんの少し後ろへ滑る。
兵士は糧隊を後ろへ移した。
中軍へ近づけない。
五点目。
旧駅道の外側。
竹竿は曲がりくねった小道に沿い、三度に分けて軽く点を打つ。
三隊の軽歩兵が置かれた。
前後に間隔を取り、わざと隙間を残す。
最後の一点。
乱石灘の後縁。
竹竿が、軽く触れるだけですぐ戻る。
一枚の小旗が、主戦線から離れた場所へ置かれた。
それきり。
沈瓷は動かなかった。
東側の見物席では、誰もが首をひねった。
「何だ、この陣は?」
「前鋒は散ってる。中軍は低い。糧隊は後ろへ下がる。側翼も押さえない」
「あいつ、地名に合わせて旗を置いてるだけじゃないのか?」
「さっき呉参軍への反制策を言ったときは、あんなに流暢だったのにな。実際に布陣したらこの程度か?」
「殺気がまるでない。子どもが適当に並べたみたいだ」
「呉参軍相手に、殺気のない陣で勝てるわけがない」
若い校尉が、乱石灘の後ろに置かれた小旗をじっと見ていた。
「で、あの旗は何のためです?」
隣の古参兵が酒を一口飲む。
「知らん」
「あなたにも分からないんですか?」
「分からん」
陸闥も人波の中に混じって見ていたが、結局分からなかった。
そこでまた陸闕のところへ戻り、沈瓷の布陣を一つ一つ伝える。
「兄上、あの小僧、全部捨て手にしか見えません。やはり何も分かっていないのでは?」
陸闕は、それを聞いてわずかに笑った。
「戦場で、捨て手だと軽く見るのはよくない」
「なぜです?」
「骨も残らなくなる」
陸闥は、すぐ口を閉じた。
兄の目に宿った光が、もう見物人のものではないと気づいたからだ。
陸闥はまた東側の人混みに潜っていく。
陸闕が立っている場所は、父の陸炎がいつも立つ位置だった。
そこからは双方の全陣を見られるわけではない。
だが黒旗の動きは見える。
そして双方の兵線が接触したあとの変化も見える。
全局を俯瞰するには、最も良い場所だった。
陸家軍の若き主だからこそ、ここに立つ資格がある。
ここでは、他の者のように両側を全部見て回る必要はない。
本当の砂盤推演で重要なのは、どれだけ見たかではない。
見たあと、どこまで推し進められるかだ。
陸闕は、沈瓷が置いた黒軍を見る。
しばらくして、陸闥が戻ってきた。
沈瓷の布陣を、一つずつ陸闕へ伝える。
「前鋒は散らしてあります。一口に呑まれないように見えます」
「中軍は山脚に伏せるように置いていますが、高地を取る気はなさそうです」
「まさか、呉参軍の伏せ手を読んだのでしょうか」
「糧隊を下げたのは、呉参軍に補給路を餌にして陣を引っ張られるのを避けるためかもしれません」
「断馬坡外の歩卒を坡口に入れていないのも、伏兵に閉じ込められないために見えます」
「旧駅道の軽歩兵は、三段の間に隙間があります。接応のためにも見えますし、線を隠すためにも見えます」
陸闕は、沈瓷の一手一手を考えた。
そして、思わず額に手を当て、かすかに笑った。
「面白い」
この少年の布陣は、決して精妙とは言えない。
だが、兵法をまるで知らない者の置き方でもない。
「本当に、ただの窯職人なのか」
「それとも呉参軍が言ったとおり、敵の間者なのか」
陸闕は考えながら、無意識に沈瓷の側へ数歩寄っていた。
守りの色が濃い布陣だ。
だが、守りに寄りすぎれば主導権を失う。
陸闕の目は、最後に旧駅道へ落ちた。
あそこには、何かがある。
だが、まだ見えない。
どん、どん、どん、どん。
四つの太鼓が鳴った。
推演が始まる。
二人は同時に竹竿を上げ、砂盤を指した。
沈瓷は竹竿で前鋒を示す。
黒軍の三隊の前鋒が一里前進した。
間隔は、まだ詰めない。
中軍は続いて半里だけ前へ動く。
それでも黒石嶺の南側山脚に沿ったまま。
糧隊はさらに後退。
旧駅道の歩兵は一段前へ出た。
全体としては、ひたすら穏やかだった。
楼の東側で、誰かが首を振る。
「慎重すぎるな」
「粘るつもりか?」
「呉参軍相手に粘り勝ちできるものか」
西側。
呉猛が動く。
河湾部の軽騎から三割を分け、河川地形の外側に沿って前進させた。
狙いは、黒軍の補給路。
本営後軍は引き締める。
北側高地の主力は動かない。
情報は、すぐ西側から東側へ伝わった。
「白軍の騎兵が河湾部から出たぞ!」
「補給路を狙ってる!」
すると、楼上の人々はまた、ざざっと東側へ流れた。
だが沈瓷は、補給路の守りへ兵を出さなかった。
竹竿で糧隊を指し、後ろへ軽く滑らせる。
糧隊はさらに下がる。
黒軍の中軍は、分兵しない。
前鋒は、なおも戦線を押さえる。
楼の上で、低い声が漏れた。
「守らないのか?」
「糧隊が絡まれたら、中軍まで足を引っ張られるぞ」
「最初から、あの糧隊を餌にする気だったなら別だが」
陸闕の目が、わずかに動いた。
この一手は、冷静だ。
呉参軍の第一手は、空を切った。
沈瓷は最初から糧隊を深く置いていた。
糧隊が後退する時間を稼ぐためだ。
呉猛はすぐに手を変えた。
竹竿は河湾部から、黒軍の中軍の側背へ向かう。
白軍の騎兵は、ただちに進路を変えた。
北側高地の主力も、同時に半段下げるように圧をかけてくる。
目的は、沈瓷の糧を断つことではない。
中軍と前鋒の連絡を切ることだ。
楼上の者たちは、また西側へ走る。
白軍側を見て、また東側へ走る。
何人かは息を切らし始めた。
「くそ、推演を見るだけで、戦場に出るより疲れるぞ」
「小さな腰掛けでも持ってくるべきだったな」
「腰掛けを持ってきて、どっちに座るんだ?」
言われた者は少し考え、妙に納得してしまった。
陸闥も二、三度走り回ったところで、陸闕に肩を押さえられた。
「立っていろ」
「兄上、白軍側を見たいんです」
「さっき見た」
「では黒軍がどう応じるかを……」
「ここから見える」
陸闥は仕方なく、そこに立つ。
それでも目だけは、何度も左右へ動いていた。
陸闕の目は、すでに沈んでいた。
呉猛の第二手は早い。
騎兵は補給路を追わず、胴の中ほどを切りに来た。
北側高地の兵も下げる。
呉猛が狙っていることは明らかだった。
黒軍の前鋒と中軍を切り離す。
黒軍が救いに戻れば、北側高地の主力がそのまま圧をかける。
救わなければ、前鋒が切られる。
呉猛は、ついに殺し手を見せ始めた。
沈瓷の番。
竹竿が、前鋒の後ろ側へ走った。
黒軍の三隊の前鋒が、後退を始める。
退きながら、外へ散った。
左側の二隊は、河川地形の外へ広がる。
中央の一隊は速度を落とし、通路を押さえる。
右側の二隊は斜め後ろへ動き、白軍の騎兵が最も追いやすい進路をふさぐ位置についた。
黒軍側の兵士は旗を置くとき、指にわずかに力が入った。
沈瓷の意図は、まだ完全には分からない。
だが長年の兵の勘がある。
この位置に旗が落ちると、何となく分かった。
白軍が深く追えば、沈瓷の筋に入る。
東側の楼上では、さっきまでより明らかに声が小さくなった。
何人かが、何かに気づき始めたからだ。
「この小僧、前鋒を散らしてるのか?」
「散らし方が妙だな」
「隊ごと後退してるわけじゃない。呉参軍の一撃が、綿に当たったみたいになってる」
「だが、こんな退き方をすれば、前鋒は再結集しにくいぞ」
「前鋒を捨てる気か?」
沈瓷のその手を見て、陸闥は思わず笑った。
「兄上、あの小僧、怖じ気づいたのでは? 完全に前線の兵を見捨てていますよ」
陸闕は下を見つめていた。
沈瓷の前鋒は、ばらばらに退いている。
だが、各隊の退く位置は、ちょうど追撃路を切り分けていた。
これでは白軍が、どの道を追えばいいのか判断しにくい。
全て追えば、兵力が引き裂かれる。
追わなければ、黒軍の前鋒には再結集の余地が残る。
一部だけ追っても、得られる戦果は限られる。
陸闕も、ゆっくりと笑った。
「やるな」
「呉参軍を試している」
「試す?」
陸闥は耳を疑った。
推演とはいえ、戦場で呉参軍を試す者がいるというのか。
「兄上、あの焼き物職人が、呉参軍を試していると?」
「ああ」
陸闕は静かに言う。
「まるで年長者が若者に稽古をつけるように、前鋒を使って呉参軍に選ばせている」
陸闥は眉をひそめた。
「何を選ぶんです」
「追うか、追わないかだ」
呉猛は選んだ。
白軍の騎兵から三割を分け、散った黒軍の前鋒を追わせる。
残りの兵は収め、中軍と本営の連絡を守り直す。
最も安定した選択だった。
楼上の古参将たちは、そろって頷いた。
「さすが呉参軍。欲をかかない」
「三割で追撃、七割で守り直す」
「たとえ罠でも、根までは傷まない」
だが陸闕の胸には、かすかな違和感が生まれていた。
呉参軍の一手は、当然の選択だ。
だが、あまりにも慎重すぎる。
確かに、戦局だけを見れば、沈瓷の前鋒は散って退き、好機を差し出している。
けれど、この好機は大きすぎず、小さすぎもしない。
無視するには惜しい。
かといって、全軍で押すほどの価値はない。
だから呉猛は、分兵するしかなかった。
沈瓷は、呉猛に失敗を強いたのではない。
呉猛に、正しい選択をさせたのだ。
陸闕は砂盤を見つめたまま、袖の中でゆっくり指を握り込んだ。
「……まさか、これが狙いか?」




