第五章 口は災いの元
「そこの若いの。見ない顔だな」
「若将軍、あなたの連れか?」
呉参軍は沈瓷に気づき、陸闕へそう尋ねた。
陸闕は一瞬、言葉を詰まらせる。
そこでようやく思い出したようだった。
さっき勢いでここまで連れてきたものの、沈瓷が何者なのか、まだろくに聞いていなかったのだ。
陸闕は沈瓷へ顔を向ける。
「名は?」
「この屋敷で何をしている」
沈瓷の喉が、少し強張った。
割れた磁器を抱えたまま一歩前へ出て、きちんと礼を取る。
「民の者、沈瓷にございます」
「本日は沈家窯の者として、祝いの寿瓶を届けに参りました。先ほどここを通りかかっただけで、無礼を働くつもりはございません」
「沈家窯?」
陸闕の眉が、わずかに上がる。
目に、少し意外そうな色が浮かんだ。
「では、おまえは焼き物職人なのか」
「……はい」
陸闕は何も言わなかった。
ただ呉参軍へ視線を戻す。
その声には、少し意味ありげな響きが混じっていた。
「呉参軍。先ほど私と弟が月門の外を通ったとき、こいつは砂盤を一目見ただけで、白軍が勝つと言い切りました」
「それで、連れてきたのです」
その一言で。
呉参軍の目が、変わった。
それまであった穏やかな書生らしさが、すっと剥がれ落ちる。
代わりに現れたのは、薄いのに鋭い視線だった。
刃のように。
ゆっくりと、首筋へ当てられていく。
「ほう?」
呉参軍は沈瓷を見た。
声は、まだ穏やかだった。
「一目で、私の白軍が勝つと分かったのか」
沈瓷の頭皮が、ぞわりと痺れた。
「私は……ただ、口から出まかせを申しただけです」
「出まかせ?」
呉参軍は笑った。
「なら、もう一度その出まかせを聞かせてもらおう」
演武場の中で、数人の親兵が、音もなく位置を変えた。
さりげなく。
だが確実に。
沈瓷の退路をふさぐように。
沈瓷は内心、苦いものを噛んだ。
本当に、この面倒事に関わりたくなかった。
それなのに、頭の中の砂盤はどんどん鮮明になっていく。
鮮明すぎて、自分でも薄気味悪いほどだった。
沈瓷は腹をくくるしかなかった。
「私はただ……白軍の布陣が、罠に見えただけです」
「黒軍は追っているように見えて、実際には……誘われている」
呉参軍の目が、少し細くなる。
「では、おまえが黒軍を持つなら?」
沈瓷は一瞬、固まった。
けれど、口のほうが頭より先に動いた。
「私が黒軍なら、そこまで深追いはしません」
言った瞬間。
沈瓷自身の顔色が変わった。
しまった。
言いすぎた。
けれど、その一言は深い井戸へ落ちた石のように、その場の全員の視線を揺らした。
呉参軍の目元に残っていた笑みが、完全に消える。
「続けろ」
「……」
「続けろと言っている」
声は荒くない。
それなのに、沈瓷は背中の毛が逆立つような感覚を覚えた。
はっきり分かった。
呉参軍は、殺意を抱いた。
もしここで沈瓷が言い淀めば、次の瞬間には命を取られてもおかしくない。
沈瓷は喉を鳴らした。
頭の中で、砂盤が生き物のように動き出す。
黒と白の駒が、自分で動く。
河川地形。
荒野地帯。
北側高地。
補給路。
伏兵。
いくつもの線が、目の前で交差していく。
沈瓷は深く息を吸った。
もう、その光景に沿って話すしかなかった。
「私が黒軍なら……」
「一手目。東側の前鋒はそのまま押します。ただし、三割だけです。最後まで押し切らない」
「残りの主力は河東平原の中ほどに留めます。白軍の北側高地に深入りして、泥沼にはしない」
陸闥が、思わず眉をひそめた。
「それでは白軍に息をつかせることになるだろう」
沈瓷は陸闥を見なかった。
目は、砂盤に留まったままだ。
「白軍がいちばん欲しがっているのは、黒軍の前鋒が本隊から離れることです」
「だから黒軍の前鋒は、追っているように見えればいい。ただ……追いすぎてはいけない」
沈瓷は手を上げた。
少し迷ってから、結局、河湾部の下流を指す。
「二手目。遊騎を二隊出します。補給路へは行かせない。北側高地にも向けない」
「川沿いに、浅瀬だけを探らせます」
「特に、ここ」
沈瓷の指が一点で止まる。
「ここが、夜間渡河に最も向いている場所です。白軍が本当に軽騎を隠しているなら、十中八九ここから渡ります」
呉参軍の瞳が、ほんのわずかに縮んだ。
周参軍も、はっと顔を上げる。
だが沈瓷本人は、その二人の変化に気づいていなかった。
話せば話すほど、頭の中の光景は鮮明になっていく。
まるで、かつて数えきれないほど砂盤の前に立ち、人の局をこの手で崩してきたみたいに。
「三手目」
「黒軍は、わざと中軍に少し乱れが出たように見せます」
「白軍に、あの夜間渡河の軽騎なら差し込める、と思わせる」
「白軍の軽騎が浅瀬から渡り、荒野地帯の外縁を回って中軍を狙ってきたら……」
沈瓷の指が動く。
荒野地帯の北側。
一見すると目立たない、灰色の石がくぼんだ場所を、強く指した。
「ここに、あらかじめ弓騎を一隊伏せます」
「数はいりません。二百で十分です」
「この場所は低い。夜に白軍の軽騎が回り込んでくれば、荒れた斜面に視界を遮られる。前方にあるのは中軍の隙だと、必ず誤認します」
「そこへ頭から突っ込んできたところで……」
「弓騎が先に出口をふさぎ、盾歩兵が後から包囲する」
「この白軍の奇兵は、そこで潰せます」
演武場の中は、怖いほど静かだった。
それでも沈瓷は止まらない。
「白軍の夜間渡河の奇兵が消えても、北側高地のほうにはまだ伝わりません」
「黒軍の中軍はすぐに三つの狼煙を上げる。中軍が襲われたように見せるためです」
「それで白軍の北側高地の残兵を、予定どおり反撃へ引き出す」
「白軍の主旗が動いた瞬間——」
沈瓷の指が、ぐっと下へ押し込まれた。
「黒軍の河東平原にいる主力は退かない。逆に北側高地へ向きを変え、後隊と合わせて斜めに切り込む」
「同時に、浅瀬を探らせていた二隊の遊騎が河湾部を回り込み、側背から白軍の退路をふさぐ」
「黒軍の前鋒を釣るつもりだった白軍が、先に孤軍になります」
「その時点で、河西の伏兵が橋を渡っても、もう間に合いません」
最後の一言が落ちる。
沈瓷自身が、まず固まった。
自分でも思わなかった。
こんなにすらすらと言えるなんて。
今考えたのではない。
まるで、最初から骨に刻まれていたものを、そのまま口にしたみたいだった。
だが演武場にいる他の者たちは、すでに全員、顔色を変えていた。
陸闥は口を開けたまま、化け物でも見るような目で沈瓷を見ている。
周参軍は顔色が真っ白だった。
額には、うっすら汗まで浮かんでいる。
沈瓷の示したこの崩し方は、呉参軍の見事な逆転手を、根元からへし折っていた。
ただ潰しただけではない。
そのまま、逆に討ち取る。
白軍がその後どのように死ぬかまで、はっきり言い切っていた。
陸闕の顔も沈んでいた。
砂盤を見て、沈瓷を見る。
その目には初めて、本物の揺れがあった。
そして。
いつもどこか笑みを含んでいた呉参軍の顔は、今や青ざめるほど険しくなっていた。
次の瞬間。
誰も予想していなかった。
呉参軍が、いきなり一歩踏み込んだのだ。
速い。
獲物へ飛びかかる鷹のようだった。
がしっ——!
その手が、一瞬で沈瓷の喉をつかむ。
沈瓷の視界が暗くなった。
体ごと持っていかれ、背中が砂盤の縁へ激しく叩きつけられる。
抱えていた割れた磁器が、危うく手から落ちかけた。
「が……っ!」
喉が、鉄の鉗子で締め上げられたみたいだった。
息が途切れる。
呉参軍の顔から、穏やかさは完全に消えていた。
残っているのは、凍るような殺意だけ。
「言え」
「おまえは、どこの者だ」
「誰に差し向けられた」
「北戎か。西梁か。それとも、朝廷の中で陸家を狙う犬どもか」
沈瓷は顔を真っ赤にして、目の前が何度も暗くなった。
力を入れようにも、手足に力が入らない。
次の息が吸えなければ、本当にここで死ぬ。
そう思った。
「呉参軍!」
陸闕の顔色が変わった。
すぐに踏み込み、呉参軍の手首をつかむ。
「まず手をお離しください!」
「こいつが本当に間者だとしても、殺してしまえば何も聞き出せません!」
陸闥も驚いて、慌てて駆け寄った。
「呉参軍! ひとまずおやめください! 今日は父上の寿の日です。血を見るわけにはいきません!」
呉参軍は、氷のような目で沈瓷を二息ほど見つめた。
そして、ようやく乱暴に放り捨てる。
どんっ。
沈瓷はよろめき、そばの木枠にぶつかった。
喉を押さえ、腰を折って激しく咳き込む。
「げほっ! げほ、げほっ——!」
喉が焼けるように痛い。
涙までにじんだ。
呉参軍は冷たく沈瓷を見下ろした。
「ただの窯職人だと?」
「兵法を学んでいない。戦場にも立っていない」
「それなのに、私の局を一目で見抜き、さらに逆から崩してみせた」
「答えろ」
「おまえが間者でないなら、何だというのだ」
沈瓷は咳のせいで胸が痛かった。
声もかすれている。
「私は……本当に違います……」
「兵法なんて、学んだこともありません……」
「本当に……ただの、焼き物職人です……」
呉参軍は冷笑した。
「焼き物職人?」
「焼き物職人が、河湾部の浅瀬から夜間渡河すると読めるのか」
「焼き物職人が、荒野地帯のくぼみに弓騎を伏せる場所を知っているのか」
「焼き物職人が、主力、前鋒、中軍、後隊の分断を寸分違わず見抜けるのか」
「私、呉猛を愚か者だと思っているのか」
沈瓷は「呉猛」の名を聞いた瞬間、胸がさらに沈んだ。
この呉参軍は、やはり陸炎麾下で、最も冷酷に兵を動かすと噂される軍中の第二人物だった。
今日、ここでうまく説明できなければ、本当にこの演武場から出られないかもしれない。
「私……本当に分からないんです……」
「ただ……砂盤を見たら、勝手に頭に浮かんできて……」
「まるで……目の前に絵が見えるみたいに……」
最後まで言って、沈瓷は自分でも馬鹿げていると思った。
けれど、それが本当だった。
呉参軍は、明らかに一文字も信じていない。
「いいだろう」
「おまえが『見えた』と言うのなら——」
呉参軍は手を上げ、砂盤を指した。
その目には、冷たい光があった。
「私と一局、推演してみろ」
「勝てば、ここから出してやる」
「負ければ——」
呉参軍の声は、恐ろしいほど静かだった。
「私の手で牢へ送る。時間をかけて、ゆっくり調べる」
沈瓷の顔から血の気が引いた。
「呉参軍、私は……」
「本当にできません」
「先ほどは口から出まかせを言っただけです。私がどうしてあなたと——」
じゃきんっ!
じゃきん、じゃきん、じゃきんっ!
四つの刀音が、ほとんど同時に鳴った。
いつの間にか、四人の親兵が沈瓷の背後に立っている。
長刀は半ば抜かれ、刃は冷たく光っていた。
沈瓷が背を向けようものなら、次の瞬間には血を見るだろう。
沈瓷の背中が、一気に強張った。
額から冷や汗が流れる。
それを見て、陸闕がゆっくり沈瓷のそばへ歩いてきた。
声を低くする。
「沈瓷」
「まず落ち着け」
「呉参軍は軍中で副帥に等しい。私でさえ命を聞かねばならない」
「今の状況では、私にも止められない」
陸闕はそこで一度言葉を切った。
視線が、砂盤へ落ちる。
その目には、かすかな複雑さがあった。
「まずは、呉参軍と打て」
「もし本当に負けたなら……」
「そのときは、私が命だけはつなぐ手を考える」
慰めのような言葉だった。
けれど沈瓷には分かった。
陸闕は守ると言っている。
だが同時に、見たいのだ。
沈瓷に、本当にそれだけの力があるのかを。
沈瓷は喉をきつく締められるような感覚を覚えながら、ゆっくり顔を上げた。
砂盤の上では、黒と白の駒が静かに立っている。
小さな戦場のようだった。
周囲には、刀を持つ親兵。
陸闥はまだ驚きを隠せない顔をしている。
陸闕の目は沈んでいる。
呉参軍は砂盤の向こう側に立ち、獲物を見据える老狼のようだった。
「来い」
呉参軍は手にした細い竹の棒を、ゆっくりと砂盤の縁に置いた。
「おまえは黒軍を持て」
「私は白軍を持つ」
「見せてもらおう」
「おまえという焼き物職人の腕をな」
沈瓷はその場に立ち尽くしていた。
手のひらは、汗でびっしょりだった。
次の瞬間。
沈瓷はゆっくり顔を上げ、砂盤を見た。
そして、その視線が落ちた瞬間——
頭の奥で、轟、と音がした。
何かが、完全にひび割れて開いたようだった。
風砂が天を覆う。
軍旗が、ばさばさと鳴る。
目の前の小さな砂盤より、何百倍も何千倍も広い辺境の戦場が、沈瓷の意識の奥で、いきなり広がった。




