表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生した俺の前に、八人の元妻が現れた  作者: BBTIGER


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/14

第四章 一目で勝敗

黒と白の駒は、まだ沙盤さばんの上をゆっくりと動いていた。


風が演武場の外から月門を抜ける。

細かな砂ぼこりを巻き上げ、沙盤さばんの端に立てられた小旗を、かすかに震わせた。


沈瓷シン・ツーは、案内役の小者について前の広間へ向かっていた。


それでも。


視界の端で、どうしても沙盤さばんをもう一度見てしまう。


たった一目。


それだけで、さっきまで頭の中で乱れていた推演すいえんが、霧を払われたように一本の線へまとまった。


黒方こくほうの前進は、見せかけ。


白方はくほうの劣勢は、本物ではない。


北側高地きたがわこうちを守っているように見せ、河湾部かわわんぶには兵を隠す。

東側の補給路ほきゅうろをわざと空けているのも、功を焦る黒旗の主将を釣るためだ。


このまま進めば——


黒方こくほうは、必ず負ける。


考えたわけではなかった。


その結論が、針のようにまっすぐ頭へ刺さる。


次の瞬間。


沈瓷シン・ツーは、思わず低く呟いていた。


白方はくほうの勝ちだ」


声は大きくない。


けれど、演武場はもともと静かだった。


しかも沈瓷シン・ツーは、ちょうど月門のそばを歩いている。


その一言は、背後にいた者たちの耳へ、はっきり届いた。


「ほう?」


いくらか面白がるような男の声が、ふいに背後から聞こえた。


「おまえも、沙盤さばんが読めるのか」


沈瓷シン・ツーの足が止まる。


案内役の小者は顔色を変えた。

雷に打たれたように、慌てて腰を折る。


「若様方にご挨拶申し上げます!」


沈瓷シン・ツーの胸が強張った。


すぐに振り返る。


月門の外に、いつの間にか二人の若い男が立っていた。


先頭の男は二十を少し過ぎたくらい。

背は高く、肩も背筋もまっすぐだった。


深い青の軽甲姿。

腰には長刀。


眉目は冷ややかだが、眼差しはひどく落ち着いている。

そこに立っているだけで、軍に身を置いてきた者特有の、沈んだ圧があった。


左肩の甲には、銀糸の雲虎。

胸元には校尉こういの紋章。


陸将軍ルーしょうぐんの嫡男、陸闕ルー・チュエだった。


その隣に立つ若い男は、少し年下に見える。


十七、八ほどだろう。


眉目は陸闕ルー・チュエとどこか似ている。

けれど、こちらのほうがずっと鋭く、気性の強さが外へ出ていた。


同じく甲衣をまとっているが、紋章は兄より一段低い。

腰には短刀を下げている。


明らかに、こちらも軍で鍛えられた者だ。


陸将軍ルーしょうぐんの次男、陸闥ルー・ター


沈瓷シン・ツーは二人を知らない。


だが、案内役の小者が身分を口にした以上、無礼はできなかった。


すぐに拳を合わせ、身をかがめる。


「民の者、沈瓷シン・ツーにございます。若将軍様、若君様にご挨拶申し上げます」


陸闕ルー・チュエの視線が、沈瓷シン・ツーの顔に落ちる。


すぐに咎める様子はなかった。


ただ、淡々と尋ねる。


「さっきの『白方はくほうの勝ちだ』という言葉。おまえが言ったのか」


「……はい」


「一目見ただけで、どうして白方はくほうが勝つと分かる」


沈瓷シン・ツーの胸が沈んだ。


さっきの一言は、頭の中をよぎったものがそのまま口から漏れただけだ。


自分でも、口に出したつもりはなかった。


それを、よりによって聞かれていた。


「私は……ただ、でたらめを申しただけです」


「でたらめ?」


陸闕ルー・チュエが口を開くより早く、隣の陸闥ルー・ターが冷たく笑った。


「でたらめじゃないだろ。知ったふうな口をきいただけだ」


陸闥ルー・ターは演武場の中へ目をやり、沙盤さばんを指さした。


「今の盤面を見ろ。どう見ても黒方こくほう白方はくほうを押している。河東平原かとうへいげんは黒旗が半分以上を取った。白方はくほう北側高地きたがわこうちの兵も薄い。退路も押さえられかけている」


「黒旗がさらに半歩押せば、白方はくほう補給路ほきゅうろは断たれる。そうなれば詰みだ」


陸闥ルー・ター沈瓷シン・ツーを見据えた。


「ただの民が、兵家へいか推演すいえんに何を分かる」


「口を開けば白方はくほうが勝つだと? 大口を叩くにもほどがある」


陸闥ルー・ターの言葉は速く、強かった。


若さ特有の鋭さがある。


沈瓷シン・ツーは頭を下げたまま、何も返さなかった。


だが。


陸闕ルー・チュエは、それに同調しなかった。


むしろ、小さく息を吐く。


ター


「……兄上?」


「本当に読めているなら、黒方こくほうが勝つとは言わない」


陸闥ルー・ターは一瞬、言葉を失った。


沈瓷シン・ツーも、思わずわずかに目を上げる。


陸闕ルー・チュエはそれ以上説明しなかった。


ただ片手で陸闥ルー・ターの肩を押さえ、沈瓷シン・ツーへ顔を向ける。


「おまえも来い」


白方はくほうが勝つと言ったのなら、一緒に見届けるといい」


そう言うと、陸闕ルー・チュエは先に演武場へ入っていった。


陸闥ルー・ターは疑わしげな顔をしていたが、結局ついていくしかない。


沈瓷シン・ツーも、この場では逃げられないと悟った。


腹をくくり、後に続く。


演武場の中では、沙盤さばんの周囲に数名の親兵と幕僚が立っていた。


その中で最も目を引いたのは、痩せた中年の男だった。


男は少し古びた青袍せいほうを着て、その上に軽甲を重ねている。

腰に刀はない。


革袋と地図筒だけを下げていた。


眉目は穏やかで、目元には書物を読む者のような気配すらある。


だが、そんな教書の先生に見える男がそこに立っているだけで、周囲の親兵たちは息を潜め、余計なことを言わなかった。


陸闕ルー・チュエ沙盤さばんの前まで進むと、きちんと拳を合わせ、わずかに身をかがめた。


呉参軍ウーさんぐん


陸闥ルー・ターも顔色を変え、慌てて続く。


呉参軍ウーさんぐん


後ろで聞いていた沈瓷シン・ツーの胸が跳ねた。


呉参軍ウーさんぐん


この人が、もしや呉猛ウー・モンなのか。


陸炎ルー・イエン麾下の第一参軍。

軍の中で、本当の知恵袋とされる人物。


沈瓷シン・ツーは会ったことこそない。


けれど、沈老三シン・ラオサンが酒の席で人に吹聴していたのを、何度か聞いたことがあった。


陸家軍ルーかぐんが北の境を守れているのは、陸炎ルー・イエンが刀で、呉猛ウー・モンが頭だからだ、と。


呉参軍ウーさんぐんは目を上げ、陸家ルーけの兄弟を淡く見た。


唇の端が、あるかないかというほどに曲がる。


「若様方」


「今日は寿宴ではありませんでしたか。お二人とも、どうしてこちらへ?」


陸闕ルー・チュエは軽く笑った。


声には、いくらか敬意があった。


「先ほど通りかかりまして。呉参軍ウーさんぐん周参軍ジョウさんぐん推演すいえんされているのを見たものですから、つい足を止めました」


そう言って、陸闕ルー・チュエ沙盤さばんを見る。


何気ないふうに尋ねた。


「今、白方はくほうを持っておられるのは、参軍ですか」


呉参軍ウーさんぐんは頷いた。


「ええ」


それを聞いた陸闥ルー・ターは、はっきりと固まった。


白方はくほうが……先生なのですか?」


ついさっき、陸闥ルー・ター白方はくほうは必敗だと言い切ったばかりだ。


それなのに、白方はくほうを動かしているのが呉参軍ウーさんぐんだと知り、その顔色は一気に複雑なものになった。


陸闥ルー・ター沙盤さばんをさらに二度ほど見た。


それでも、どうにも信じられないらしい。


「こ、これほど不利な白方はくほうが……先生の打たれた手なのですか?」


呉参軍ウーさんぐんは、ただ笑っただけだった。


説明はしない。


手にした細い竹の棒で、沙盤さばんの北側を軽く突く。


声は静かだった。


「若君は、このままご覧なさい」


そう言うと、呉参軍ウーさんぐんはもう周囲を気にしなかった。


向かい側の幕僚へ顔を向ける。


周参軍ジョウさんぐん、どうぞ」


対面の周参軍ジョウさんぐんは、明らかに黒方こくほうを持っている。


余計なことは言わず、手を上げると、黒旗を半寸ほど前へ進めた。


黒軍こくぐん主力、引き続き東へ圧をかける。白軍はくぐん北側高地きたがわこうちへ退かせる」


そばで記録していた文士が、すぐに低い声で復唱する。


黒軍こくぐん、東へ圧迫。白方はくほうの退路を断つ構え」


呉参軍ウーさんぐんの顔には、さざ波ひとつ立たなかった。


手にした竹の棒を返し、河西かせいを指す。


白軍はくぐん、東側の前鋒ぜんぽうを捨てる。半営、後退」


陸闥ルー・ターは眉をひそめた。


「また退くのか?」


周参軍ジョウさんぐんも、白方はくほうの退き方があまりに弱すぎると見たのだろう。


その場で短く笑い、さらに黒旗を置いた。


黒軍こくぐん、勢いに乗じて白方はくほう東側の残兵を呑む。騎兵は河東平原かとうへいげんに沿ってさらに南へ圧をかける。同時に軽騎けいき三百を分け、補給路ほきゅうろへ直進」


黒旗が進む。


駒は、たちまち半包囲はんほういの形になった。


表から見れば、白方はくほうはすでに北側高地きたがわこうちの隅へ追い詰められている。

ほとんど逃げ場がない。


陸闥ルー・ターは思わず低く呟いた。


「終わったな」


だが、呉参軍ウーさんぐんは聞こえていないかのようだった。


ただ落ち着いた手つきで、白方はくほう北側高地きたがわこうちにある主旗を、そっと後ろへずらす。


高地の奥へ退く形。


同時に、指先で青砂の河川地形かせんちけいの下流を軽く叩いた。


河湾部かわわんぶ下流の浅瀬あさせに伏せた白軍はくぐん軽騎けいき夜間渡河やかんとか


その一言で、陸闕ルー・チュエの目がわずかに変わった。


周参軍ジョウさんぐんも目を細める。


呉参軍ウーさんぐんは続けた。


北側高地きたがわこうちの残兵は動かさない。引き続き弱っているように見せる。河西かせいの旧陣ではかまどに煙を上げ、主力がまだ残っているように偽装する」


竹の棒がすっと走った。


河湾部かわわんぶ下流に隠されていた三枚の白旗が、ぱっと現れる。


「この三百の軽騎けいきは、浅瀬あさせから夜間渡河やかんとかした後、補給路ほきゅうろを救いに行かない。北側高地きたがわこうちの援護にも向かわない」


荒野地帯こうやちたいの外縁を回り、黒軍こくぐん中軍旗ちゅうぐんきへまっすぐ差し込む」


周参軍ジョウさんぐんの顔が引き締まった。


すぐに手を上げ、駒を置く。


黒軍こくぐん中軍ちゅうぐんへ救援!」


「遅い」


呉参軍ウーさんぐんの声は静かだった。


竹の棒が、黒軍こくぐんの東側——最も深く押し込んだ前鋒ぜんぽうの位置を強く指した。


「あなたは前へ出すぎた。主力は北側高地きたがわこうち河東平原かとうへいげんに引き伸ばされ、前鋒ぜんぽう中軍ちゅうぐん後隊こうたいの三つが切れている」


中軍ちゅうぐんが乱れれば、前鋒ぜんぽうはすぐには戻れない。後隊こうたい河湾部かわわんぶに阻まれ、身を返せない」


「この瞬間、私の北側高地きたがわこうちの残兵が半刻だけ反撃すれば、前鋒ぜんぽう中軍ちゅうぐんが持ち直したと誤認し、そのまま押し続ける」


「異変に気づいたときには——」


「退路はすでに、私の軽騎けいきに断たれている」


竹の棒が横へ走った。


白方はくほう北側高地きたがわこうちにあった主旗が、勢いよく前へ押し出される。


同時に、河西かせいの旧陣に隠されていた二隊の伏兵ふくへいも、呉参軍ウーさんぐんの手で現れた。


河西かせい伏兵ふくへい、橋を渡る。黒軍こくぐん後隊こうたい挟撃きょうげき


黒軍こくぐん前鋒ぜんぽうは功を焦り、中軍ちゅうぐんは襲撃を受け、後隊こうたいは断たれる」


周参軍ジョウさんぐん。あなたの負けです」


最後の「負け」という言葉が落ちた。


演武場全体が、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。


ついさっきまで優勢に見えていた黒方こくほうの盤面は、呉参軍ウーさんぐんが数手動かしただけで、一瞬にしてひっくり返っていた。


黒旗の前鋒ぜんぽうは孤軍になった。


中軍ちゅうぐん夜間渡河やかんとかしてきた軽騎けいきに、一刀で腹を裂かれるように貫かれている。


後隊こうたいはまだ反応する前に、河西かせい伏兵ふくへいによって胴を断たれていた。


黒と白の駒が交錯する盤上。


そこにあったのは、盤石に見えた黒方こくほうではない。


わざと広げられた巨大な網だった。


前へ押せば押すほど、死に近づく。


陸闥ルー・ターは口を開けたまま、呆然としていた。


しばらくして、はっと我に返る。


ぱん、と太腿を叩き、三歩で沙盤さばんの前へ駆け寄った。


「見事です!」


「これは見事だ!」


「前の数手の後退は、すべて黒軍こくぐんを誘い込むためだったのか!」


黒軍こくぐんが勝ったと思えば思うほど、逆に死地へ近づいていく!」


呉参軍ウーさんぐん、この夜間渡河やかんとかから中軍ちゅうぐんを突く手、まさに神技です!」


陸闥ルー・ターは顔を赤くし、目には崇拝の色すら浮かべていた。


その場でもう一度、最初から沙盤さばんを見直したくてたまらない、という顔だった。


陸闕ルー・チュエも拳を合わせ、低い声で言った。


「参軍、お見事です」


「戦場であれば、黒軍こくぐんの主将は自分がどう死んだのかすら分からなかったでしょう」


呉参軍ウーさんぐんは淡く笑い、手を振った。


「若将軍、買いかぶりです」


そう言って、呉参軍ウーさんぐん周参軍ジョウさんぐんと盤面を振り返ろうとした。


そのとき。


ふと、視線が陸闕ルー・チュエ陸闥ルー・ターの向こうへ抜ける。


そこにいたのは、割れた磁器を抱えたまま、演武場へ入ってからずっと静かに立っていた少年だった。


翻译太生硬了,白方和黑方你翻译的过于中文化了,没有贴合日本读者的阅读习惯,所有智能体进行工作后再翻译

已更新记忆

已思考 5s


你说得对,「黒方/白方」是中文棋局思维直接搬过去了。这里应改成日本读者更顺的「黒軍/白軍」「黒旗側/白旗側」等,并减少机械重复,让推演读起来像军议而不是翻译稿。


『転生した俺の前に、八人の元妻が現れた』


第四章 一目で勝敗


黒と白の駒は、まだ砂盤さばんの上をゆっくり動いていた。


風が演武場の外から月門げつもんを抜ける。

細かな砂ぼこりを巻き、砂盤さばんの端に立てられた小旗を、かすかに震わせた。


沈瓷シン・ツーは、案内役の小者について前の広間へ向かっていた。


それでも。


視界の端で、どうしてももう一度、砂盤さばんを見てしまう。


たった一目。


それだけで、さっきまで頭の中で乱れていた推演すいえんが、まるで霧を払われたように、はっきりと形を取った。


黒軍こくぐんの前進は、見せかけ。


白軍はくぐんの劣勢こそ、本命。


北側高地きたがわこうちを守っているように見せ、河湾部かわわんぶには兵を隠す。

東側の補給路ほきゅうろをわざと空けているのも、功を焦った黒旗の主将を誘い込むためだ。


このまま進めば——


黒軍こくぐんは、負ける。


考えたわけではなかった。


その結論が、針のように沈瓷シン・ツーの頭へ突き刺さる。


次の瞬間。


沈瓷シン・ツーは、思わず低く呟いていた。


「……勝つのは、白軍はくぐんだ」


声は大きくない。


けれど、演武場はもともと静かだった。


しかも沈瓷シン・ツーは、ちょうど月門げつもんのそばを歩いている。


その一言は、背後にいた者たちの耳へ、はっきり届いた。


「ほう?」


面白がるような男の声が、ふいに背後から聞こえた。


「おまえも、砂盤さばんが読めるのか」


沈瓷シン・ツーの足が止まる。


案内役の小者は顔色を変えた。

雷に打たれたように、慌てて腰を折る。


「若様方にご挨拶申し上げます!」


沈瓷シン・ツーの胸が強張った。


すぐに振り返る。


月門げつもんの外に、いつの間にか二人の若い男が立っていた。


先頭の男は、二十を少し過ぎたくらい。


背は高く、肩も背筋もまっすぐだった。

深い青の軽甲姿。腰には長刀。


眉目は冷ややかだが、眼差しはひどく落ち着いている。


ただそこに立っているだけで、軍に身を置いてきた者だけが持つ、沈んだ圧があった。


左肩の甲には、銀糸の雲虎。

胸元には校尉こういの紋章。


陸将軍ルーしょうぐんの嫡男、陸闕ルー・チュエだった。


その隣に立つ若い男は、少し年下に見える。


十七、八ほどだろう。


眉目は陸闕ルー・チュエとどこか似ている。

けれど、こちらのほうがずっと鋭く、気性の強さがそのまま外へ出ていた。


同じく甲衣をまとっているが、紋章は兄より一段下。

腰には短刀を下げている。


明らかに、こちらも軍で鍛えられた者だ。


陸将軍ルーしょうぐんの次男、陸闥ルー・ター


沈瓷シン・ツーは二人を知らない。


だが、案内役の小者が身分を明かした以上、無礼はできなかった。


すぐに拳を合わせ、身をかがめる。


「民の者、沈瓷シン・ツーにございます。若将軍様、若君様にご挨拶申し上げます」


陸闕ルー・チュエの視線が、沈瓷シン・ツーの顔に落ちる。


すぐに咎める様子はなかった。


ただ、淡々と尋ねる。


「さっきの『勝つのは白軍はくぐんだ』という言葉。おまえが言ったのか」


「……はい」


「一目見ただけで、どうして白軍はくぐんが勝つと分かる」


沈瓷シン・ツーの胸が沈んだ。


さっきの一言は、頭の中をよぎったものがそのまま口から漏れただけだ。


自分でも、口に出したつもりはなかった。


それを、よりによって聞かれていた。


「私は……ただ、当てずっぽうを申しただけです」


「当てずっぽう?」


陸闕ルー・チュエが口を開くより早く、隣の陸闥ルー・ターが冷たく笑った。


「当てずっぽうじゃないだろ。分かったような口をきいただけだ」


陸闥ルー・ターは演武場の中へ目をやり、砂盤さばんを指さした。


「今の盤面を見ろ。どう見ても黒軍こくぐんが押している。河東平原かとうへいげんは黒旗側が半分以上を取った。白軍はくぐん北側高地きたがわこうちの兵も薄い。退路も押さえられかけている」


「黒旗側がもう半歩押せば、白軍はくぐん補給路ほきゅうろは断たれる。そうなれば詰みだ」


陸闥ルー・ター沈瓷シン・ツーを見据えた。


「ただの民が、兵家へいか推演すいえんに何を分かる」


「口を開けば白軍はくぐんが勝つだと? 大口を叩くにもほどがある」


陸闥ルー・ターの言葉は速く、強かった。


若さ特有の鋭さがある。


沈瓷シン・ツーは頭を下げたまま、何も返さなかった。


だが。


陸闕ルー・チュエは、それに同調しなかった。


むしろ、小さく息を吐く。


ター


「……兄上?」


「本当に読めているなら、黒軍こくぐんの勝ちとは言わない」


陸闥ルー・ターは一瞬、言葉を失った。


沈瓷シン・ツーも、思わずわずかに目を上げる。


陸闕ルー・チュエはそれ以上説明しなかった。


ただ片手で陸闥ルー・ターの肩を押さえ、沈瓷シン・ツーへ顔を向ける。


「おまえも来い」


白軍はくぐんが勝つと言ったのなら、一緒に見届けるといい」


そう言うと、陸闕ルー・チュエは先に演武場へ入っていった。


陸闥ルー・ターは疑わしげな顔をしていたが、結局ついていくしかない。


沈瓷シン・ツーも、この場では逃げられないと悟った。


腹をくくり、後に続く。


演武場の中では、砂盤さばんの周囲に数名の親兵と幕僚が立っていた。


その中で最も目を引いたのは、痩せた中年の男だった。


男は少し古びた青袍せいほうを着て、その上に軽甲を重ねている。

腰に刀はない。


革袋と地図筒だけを下げていた。


眉目は穏やかで、目元には書物を読む者のような気配すらある。


だが、そんな教書の先生に見える男がそこに立っているだけで、周囲の親兵たちは息を潜め、余計なことを言わなかった。


陸闕ルー・チュエ砂盤さばんの前まで進むと、きちんと拳を合わせ、わずかに身をかがめた。


呉参軍ウーさんぐん


陸闥ルー・ターも顔色を変え、慌てて続く。


呉参軍ウーさんぐん


後ろで聞いていた沈瓷シン・ツーの胸が跳ねた。


呉参軍ウーさんぐん


この人が、もしや呉猛ウー・モンなのか。


陸炎ルー・イエン麾下の第一参軍。

軍の中で、本当の知恵袋とされる人物。


沈瓷シン・ツーは会ったことこそない。


けれど、沈老三シン・ラオサンが酒の席で人に吹聴していたのを、何度か聞いたことがあった。


陸家軍ルーかぐんが北の境を守れているのは、陸炎ルー・イエンが刀で、呉猛ウー・モンが頭だからだ、と。


呉参軍ウーさんぐんは目を上げ、陸家ルーけの兄弟を淡く見た。


唇の端が、あるかないかというほどに曲がる。


「若様方」


「今日は寿宴ではありませんでしたか。お二人とも、どうしてこちらへ?」


陸闕ルー・チュエは軽く笑った。


声には、いくらか敬意があった。


「先ほど通りかかりまして。呉参軍ウーさんぐん周参軍ジョウさんぐん推演すいえんされているのを見たものですから、つい足を止めました」


そう言って、陸闕ルー・チュエ砂盤さばんを見る。


何気ないふうに尋ねた。


「今、白軍はくぐんを動かしておられるのは、参軍ですか」


呉参軍ウーさんぐんは頷いた。


「ええ」


それを聞いた陸闥ルー・ターは、はっきりと固まった。


白軍はくぐんが……先生なのですか?」


ついさっき、陸闥ルー・ター白軍はくぐんは必敗だと言い切ったばかりだ。


それなのに、白軍はくぐんを動かしているのが呉参軍ウーさんぐんだと知り、その顔色は一気に複雑なものになった。


陸闥ルー・ター砂盤さばんをさらに二度ほど見た。


それでも、どうにも信じられないらしい。


「こ、これほど不利な白軍はくぐんが……先生の打たれた手なのですか?」


呉参軍ウーさんぐんは、ただ笑っただけだった。


説明はしない。


手にした細い竹の棒で、砂盤さばんの北側を軽く突く。


声は静かだった。


「若君は、このままご覧なさい」


そう言うと、呉参軍ウーさんぐんはもう周囲を気にしなかった。


向かい側の幕僚へ顔を向ける。


周参軍ジョウさんぐん、どうぞ」


対面の周参軍ジョウさんぐんは、黒軍こくぐんを動かす側だった。


余計なことは言わず、手を上げると、黒旗を半寸ほど前へ進めた。


黒軍こくぐん主力、引き続き東へ圧をかける。白軍はくぐん北側高地きたがわこうちへ退かせる」


そばで記録していた文士が、すぐに低い声で復唱する。


黒軍こくぐん、東へ圧迫。白軍はくぐんの後退路を断つ構え」


呉参軍ウーさんぐんの顔には、さざ波ひとつ立たなかった。


手にした竹の棒を返し、河西かせいを指す。


白軍はくぐん、東側の前鋒ぜんぽうを捨てる。半営、後退」


陸闥ルー・ターは眉をひそめた。


「また退くのか?」


周参軍ジョウさんぐんも、白軍はくぐんの退き方があまりに弱すぎると見たのだろう。


その場で短く笑い、さらに黒旗を置いた。


黒軍こくぐん、勢いに乗じて白軍はくぐん東側の残兵を呑む。騎兵は河東平原かとうへいげんに沿ってさらに南へ圧をかける。同時に軽騎けいき三百を分け、補給路ほきゅうろへ直進」


黒旗が進む。


駒は、たちまち半包囲はんほういの形になった。


表から見れば、白軍はくぐんはすでに北側高地きたがわこうちの隅へ追い詰められている。

ほとんど逃げ場がない。


陸闥ルー・ターは思わず低く呟いた。


「終わったな」


だが、呉参軍ウーさんぐんは聞こえていないかのようだった。


ただ落ち着いた手つきで、白軍はくぐん北側高地きたがわこうちにある主旗を、そっと後ろへずらす。


高地の奥へ退く形。


同時に、指先で青砂の河川地形かせんちけいの下流を軽く叩いた。


河湾部かわわんぶ下流の浅瀬あさせに伏せた白軍はくぐん軽騎けいき夜間渡河やかんとか


その一言で、陸闕ルー・チュエの目がわずかに変わった。


周参軍ジョウさんぐんも目を細める。


呉参軍ウーさんぐんは続けた。


北側高地きたがわこうちの残兵は動かさない。引き続き弱っているように見せる。河西かせいの旧陣ではかまどに煙を上げ、主力がまだ残っているように偽装する」


竹の棒がすっと走った。


河湾部かわわんぶ下流に隠されていた三枚の白旗が、ぱっと現れる。


「この三百の軽騎けいきは、浅瀬あさせから夜間渡河やかんとかした後、補給路ほきゅうろを救いに行かない。北側高地きたがわこうちの援護にも向かわない」


荒野地帯こうやちたいの外縁を回り、黒軍こくぐん中軍旗ちゅうぐんきへまっすぐ差し込む」


周参軍ジョウさんぐんの顔が引き締まった。


すぐに手を上げ、駒を置く。


黒軍こくぐん中軍ちゅうぐんへ救援!」


「遅い」


呉参軍ウーさんぐんの声は静かだった。


竹の棒が、黒軍こくぐんの東側——最も深く押し込んだ前鋒ぜんぽうの位置を強く指した。


「あなたは前へ出すぎた。主力は北側高地きたがわこうち河東平原かとうへいげんに引き伸ばされ、前鋒ぜんぽう中軍ちゅうぐん後隊こうたいの三つが切れている」


中軍ちゅうぐんが乱れれば、前鋒ぜんぽうはすぐには戻れない。後隊こうたい河湾部かわわんぶに阻まれ、身を返せない」


「この瞬間、北側高地きたがわこうちの残兵が半刻だけ反撃すれば、前鋒ぜんぽう中軍ちゅうぐんが持ち直したと誤認し、そのまま押し続ける」


「異変に気づいたときには——」


「退路はすでに、白軍はくぐん軽騎けいきに断たれている」


竹の棒が横へ走った。


白軍はくぐん北側高地きたがわこうちにあった主旗が、勢いよく前へ押し出される。


同時に、河西かせいの旧陣に隠されていた二隊の伏兵ふくへいも、呉参軍ウーさんぐんの手で現れた。


河西かせい伏兵ふくへい、橋を渡る。黒軍こくぐん後隊こうたい挟撃きょうげき


黒軍こくぐん前鋒ぜんぽうは功を焦り、中軍ちゅうぐんは襲撃を受け、後隊こうたいは断たれる」


周参軍ジョウさんぐん。あなたの負けです」


最後の「負け」という言葉が落ちた。


演武場全体が、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。


ついさっきまで優勢に見えていた黒軍こくぐんの盤面は、呉参軍ウーさんぐんが数手動かしただけで、一瞬にしてひっくり返っていた。


黒旗の前鋒ぜんぽうは孤軍になった。


中軍ちゅうぐん夜間渡河やかんとかしてきた軽騎けいきに、一刀で腹を裂かれるように貫かれている。


後隊こうたいはまだ反応する前に、河西かせい伏兵ふくへいによって胴を断たれていた。


黒と白の駒が交錯する盤上。


そこにあったのは、盤石に見えた黒軍こくぐんではない。


わざと広げられた巨大な網だった。


前へ押せば押すほど、死に近づく。


陸闥ルー・ターは口を開けたまま、呆然としていた。


しばらくして、はっと我に返る。


ぱん、と太腿を叩き、三歩で砂盤さばんの前へ駆け寄った。


「見事です!」


「これは見事だ!」


「前の数手の後退は、すべて黒軍こくぐんを誘い込むためだったのか!」


黒軍こくぐんが勝ったと思えば思うほど、逆に死地へ近づいていく!」


呉参軍ウーさんぐん、この夜間渡河やかんとかから中軍ちゅうぐんを突く手、まさに神技です!」


陸闥ルー・ターは顔を赤くし、目には崇拝の色すら浮かべていた。


その場でもう一度、最初から砂盤さばんを見直したくてたまらない、という顔だった。


陸闕ルー・チュエも拳を合わせ、低い声で言った。


「参軍、お見事です」


「戦場であれば、黒軍こくぐんの主将は自分がどう死んだのかすら分からなかったでしょう」


呉参軍ウーさんぐんは淡く笑い、手を振った。


「若将軍、買いかぶりです」


そう言って、呉参軍ウーさんぐん周参軍ジョウさんぐんと盤面を振り返ろうとした。


そのとき。


ふと、視線が陸闕ルー・チュエ陸闥ルー・ターの向こうへ抜ける。


そこにいたのは、割れた磁器を抱えたまま、演武場へ入ってからずっと静かに立っていた少年だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ