第四章 一目で勝敗
黒と白の駒は、まだ沙盤の上をゆっくりと動いていた。
風が演武場の外から月門を抜ける。
細かな砂ぼこりを巻き上げ、沙盤の端に立てられた小旗を、かすかに震わせた。
沈瓷は、案内役の小者について前の広間へ向かっていた。
それでも。
視界の端で、どうしても沙盤をもう一度見てしまう。
たった一目。
それだけで、さっきまで頭の中で乱れていた推演が、霧を払われたように一本の線へまとまった。
黒方の前進は、見せかけ。
白方の劣勢は、本物ではない。
北側高地を守っているように見せ、河湾部には兵を隠す。
東側の補給路をわざと空けているのも、功を焦る黒旗の主将を釣るためだ。
このまま進めば——
黒方は、必ず負ける。
考えたわけではなかった。
その結論が、針のようにまっすぐ頭へ刺さる。
次の瞬間。
沈瓷は、思わず低く呟いていた。
「白方の勝ちだ」
声は大きくない。
けれど、演武場はもともと静かだった。
しかも沈瓷は、ちょうど月門のそばを歩いている。
その一言は、背後にいた者たちの耳へ、はっきり届いた。
「ほう?」
いくらか面白がるような男の声が、ふいに背後から聞こえた。
「おまえも、沙盤が読めるのか」
沈瓷の足が止まる。
案内役の小者は顔色を変えた。
雷に打たれたように、慌てて腰を折る。
「若様方にご挨拶申し上げます!」
沈瓷の胸が強張った。
すぐに振り返る。
月門の外に、いつの間にか二人の若い男が立っていた。
先頭の男は二十を少し過ぎたくらい。
背は高く、肩も背筋もまっすぐだった。
深い青の軽甲姿。
腰には長刀。
眉目は冷ややかだが、眼差しはひどく落ち着いている。
そこに立っているだけで、軍に身を置いてきた者特有の、沈んだ圧があった。
左肩の甲には、銀糸の雲虎。
胸元には校尉の紋章。
陸将軍の嫡男、陸闕だった。
その隣に立つ若い男は、少し年下に見える。
十七、八ほどだろう。
眉目は陸闕とどこか似ている。
けれど、こちらのほうがずっと鋭く、気性の強さが外へ出ていた。
同じく甲衣をまとっているが、紋章は兄より一段低い。
腰には短刀を下げている。
明らかに、こちらも軍で鍛えられた者だ。
陸将軍の次男、陸闥。
沈瓷は二人を知らない。
だが、案内役の小者が身分を口にした以上、無礼はできなかった。
すぐに拳を合わせ、身をかがめる。
「民の者、沈瓷にございます。若将軍様、若君様にご挨拶申し上げます」
陸闕の視線が、沈瓷の顔に落ちる。
すぐに咎める様子はなかった。
ただ、淡々と尋ねる。
「さっきの『白方の勝ちだ』という言葉。おまえが言ったのか」
「……はい」
「一目見ただけで、どうして白方が勝つと分かる」
沈瓷の胸が沈んだ。
さっきの一言は、頭の中をよぎったものがそのまま口から漏れただけだ。
自分でも、口に出したつもりはなかった。
それを、よりによって聞かれていた。
「私は……ただ、でたらめを申しただけです」
「でたらめ?」
陸闕が口を開くより早く、隣の陸闥が冷たく笑った。
「でたらめじゃないだろ。知ったふうな口をきいただけだ」
陸闥は演武場の中へ目をやり、沙盤を指さした。
「今の盤面を見ろ。どう見ても黒方が白方を押している。河東平原は黒旗が半分以上を取った。白方は北側高地の兵も薄い。退路も押さえられかけている」
「黒旗がさらに半歩押せば、白方の補給路は断たれる。そうなれば詰みだ」
陸闥は沈瓷を見据えた。
「ただの民が、兵家の推演に何を分かる」
「口を開けば白方が勝つだと? 大口を叩くにもほどがある」
陸闥の言葉は速く、強かった。
若さ特有の鋭さがある。
沈瓷は頭を下げたまま、何も返さなかった。
だが。
陸闕は、それに同調しなかった。
むしろ、小さく息を吐く。
「闥」
「……兄上?」
「本当に読めているなら、黒方が勝つとは言わない」
陸闥は一瞬、言葉を失った。
沈瓷も、思わずわずかに目を上げる。
陸闕はそれ以上説明しなかった。
ただ片手で陸闥の肩を押さえ、沈瓷へ顔を向ける。
「おまえも来い」
「白方が勝つと言ったのなら、一緒に見届けるといい」
そう言うと、陸闕は先に演武場へ入っていった。
陸闥は疑わしげな顔をしていたが、結局ついていくしかない。
沈瓷も、この場では逃げられないと悟った。
腹をくくり、後に続く。
演武場の中では、沙盤の周囲に数名の親兵と幕僚が立っていた。
その中で最も目を引いたのは、痩せた中年の男だった。
男は少し古びた青袍を着て、その上に軽甲を重ねている。
腰に刀はない。
革袋と地図筒だけを下げていた。
眉目は穏やかで、目元には書物を読む者のような気配すらある。
だが、そんな教書の先生に見える男がそこに立っているだけで、周囲の親兵たちは息を潜め、余計なことを言わなかった。
陸闕は沙盤の前まで進むと、きちんと拳を合わせ、わずかに身をかがめた。
「呉参軍」
陸闥も顔色を変え、慌てて続く。
「呉参軍」
後ろで聞いていた沈瓷の胸が跳ねた。
呉参軍。
この人が、もしや呉猛なのか。
陸炎麾下の第一参軍。
軍の中で、本当の知恵袋とされる人物。
沈瓷は会ったことこそない。
けれど、沈老三が酒の席で人に吹聴していたのを、何度か聞いたことがあった。
陸家軍が北の境を守れているのは、陸炎が刀で、呉猛が頭だからだ、と。
呉参軍は目を上げ、陸家の兄弟を淡く見た。
唇の端が、あるかないかというほどに曲がる。
「若様方」
「今日は寿宴ではありませんでしたか。お二人とも、どうしてこちらへ?」
陸闕は軽く笑った。
声には、いくらか敬意があった。
「先ほど通りかかりまして。呉参軍と周参軍が推演されているのを見たものですから、つい足を止めました」
そう言って、陸闕は沙盤を見る。
何気ないふうに尋ねた。
「今、白方を持っておられるのは、参軍ですか」
呉参軍は頷いた。
「ええ」
それを聞いた陸闥は、はっきりと固まった。
「白方が……先生なのですか?」
ついさっき、陸闥は白方は必敗だと言い切ったばかりだ。
それなのに、白方を動かしているのが呉参軍だと知り、その顔色は一気に複雑なものになった。
陸闥は沙盤をさらに二度ほど見た。
それでも、どうにも信じられないらしい。
「こ、これほど不利な白方が……先生の打たれた手なのですか?」
呉参軍は、ただ笑っただけだった。
説明はしない。
手にした細い竹の棒で、沙盤の北側を軽く突く。
声は静かだった。
「若君は、このままご覧なさい」
そう言うと、呉参軍はもう周囲を気にしなかった。
向かい側の幕僚へ顔を向ける。
「周参軍、どうぞ」
対面の周参軍は、明らかに黒方を持っている。
余計なことは言わず、手を上げると、黒旗を半寸ほど前へ進めた。
「黒軍主力、引き続き東へ圧をかける。白軍を北側高地へ退かせる」
そばで記録していた文士が、すぐに低い声で復唱する。
「黒軍、東へ圧迫。白方の退路を断つ構え」
呉参軍の顔には、さざ波ひとつ立たなかった。
手にした竹の棒を返し、河西を指す。
「白軍、東側の前鋒を捨てる。半営、後退」
陸闥は眉をひそめた。
「また退くのか?」
周参軍も、白方の退き方があまりに弱すぎると見たのだろう。
その場で短く笑い、さらに黒旗を置いた。
「黒軍、勢いに乗じて白方東側の残兵を呑む。騎兵は河東平原に沿ってさらに南へ圧をかける。同時に軽騎三百を分け、補給路へ直進」
黒旗が進む。
駒は、たちまち半包囲の形になった。
表から見れば、白方はすでに北側高地の隅へ追い詰められている。
ほとんど逃げ場がない。
陸闥は思わず低く呟いた。
「終わったな」
だが、呉参軍は聞こえていないかのようだった。
ただ落ち着いた手つきで、白方の北側高地にある主旗を、そっと後ろへずらす。
高地の奥へ退く形。
同時に、指先で青砂の河川地形の下流を軽く叩いた。
「河湾部下流の浅瀬に伏せた白軍軽騎、夜間渡河」
その一言で、陸闕の目がわずかに変わった。
周参軍も目を細める。
呉参軍は続けた。
「北側高地の残兵は動かさない。引き続き弱っているように見せる。河西の旧陣では竈に煙を上げ、主力がまだ残っているように偽装する」
竹の棒がすっと走った。
河湾部下流に隠されていた三枚の白旗が、ぱっと現れる。
「この三百の軽騎は、浅瀬から夜間渡河した後、補給路を救いに行かない。北側高地の援護にも向かわない」
「荒野地帯の外縁を回り、黒軍の中軍旗へまっすぐ差し込む」
周参軍の顔が引き締まった。
すぐに手を上げ、駒を置く。
「黒軍、中軍へ救援!」
「遅い」
呉参軍の声は静かだった。
竹の棒が、黒軍の東側——最も深く押し込んだ前鋒の位置を強く指した。
「あなたは前へ出すぎた。主力は北側高地と河東平原に引き伸ばされ、前鋒、中軍、後隊の三つが切れている」
「中軍が乱れれば、前鋒はすぐには戻れない。後隊も河湾部に阻まれ、身を返せない」
「この瞬間、私の北側高地の残兵が半刻だけ反撃すれば、前鋒は中軍が持ち直したと誤認し、そのまま押し続ける」
「異変に気づいたときには——」
「退路はすでに、私の軽騎に断たれている」
竹の棒が横へ走った。
白方の北側高地にあった主旗が、勢いよく前へ押し出される。
同時に、河西の旧陣に隠されていた二隊の伏兵も、呉参軍の手で現れた。
「河西の伏兵、橋を渡る。黒軍の後隊を挟撃」
「黒軍の前鋒は功を焦り、中軍は襲撃を受け、後隊は断たれる」
「周参軍。あなたの負けです」
最後の「負け」という言葉が落ちた。
演武場全体が、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。
ついさっきまで優勢に見えていた黒方の盤面は、呉参軍が数手動かしただけで、一瞬にしてひっくり返っていた。
黒旗の前鋒は孤軍になった。
中軍は夜間渡河してきた軽騎に、一刀で腹を裂かれるように貫かれている。
後隊はまだ反応する前に、河西の伏兵によって胴を断たれていた。
黒と白の駒が交錯する盤上。
そこにあったのは、盤石に見えた黒方ではない。
わざと広げられた巨大な網だった。
前へ押せば押すほど、死に近づく。
陸闥は口を開けたまま、呆然としていた。
しばらくして、はっと我に返る。
ぱん、と太腿を叩き、三歩で沙盤の前へ駆け寄った。
「見事です!」
「これは見事だ!」
「前の数手の後退は、すべて黒軍を誘い込むためだったのか!」
「黒軍が勝ったと思えば思うほど、逆に死地へ近づいていく!」
「呉参軍、この夜間渡河から中軍を突く手、まさに神技です!」
陸闥は顔を赤くし、目には崇拝の色すら浮かべていた。
その場でもう一度、最初から沙盤を見直したくてたまらない、という顔だった。
陸闕も拳を合わせ、低い声で言った。
「参軍、お見事です」
「戦場であれば、黒軍の主将は自分がどう死んだのかすら分からなかったでしょう」
呉参軍は淡く笑い、手を振った。
「若将軍、買いかぶりです」
そう言って、呉参軍は周参軍と盤面を振り返ろうとした。
そのとき。
ふと、視線が陸闕と陸闥の向こうへ抜ける。
そこにいたのは、割れた磁器を抱えたまま、演武場へ入ってからずっと静かに立っていた少年だった。
翻译太生硬了,白方和黑方你翻译的过于中文化了,没有贴合日本读者的阅读习惯,所有智能体进行工作后再翻译
已更新记忆
已思考 5s
你说得对,「黒方/白方」是中文棋局思维直接搬过去了。这里应改成日本读者更顺的「黒軍/白軍」「黒旗側/白旗側」等,并减少机械重复,让推演读起来像军议而不是翻译稿。
『転生した俺の前に、八人の元妻が現れた』
第四章 一目で勝敗
黒と白の駒は、まだ砂盤の上をゆっくり動いていた。
風が演武場の外から月門を抜ける。
細かな砂ぼこりを巻き、砂盤の端に立てられた小旗を、かすかに震わせた。
沈瓷は、案内役の小者について前の広間へ向かっていた。
それでも。
視界の端で、どうしてももう一度、砂盤を見てしまう。
たった一目。
それだけで、さっきまで頭の中で乱れていた推演が、まるで霧を払われたように、はっきりと形を取った。
黒軍の前進は、見せかけ。
白軍の劣勢こそ、本命。
北側高地を守っているように見せ、河湾部には兵を隠す。
東側の補給路をわざと空けているのも、功を焦った黒旗の主将を誘い込むためだ。
このまま進めば——
黒軍は、負ける。
考えたわけではなかった。
その結論が、針のように沈瓷の頭へ突き刺さる。
次の瞬間。
沈瓷は、思わず低く呟いていた。
「……勝つのは、白軍だ」
声は大きくない。
けれど、演武場はもともと静かだった。
しかも沈瓷は、ちょうど月門のそばを歩いている。
その一言は、背後にいた者たちの耳へ、はっきり届いた。
「ほう?」
面白がるような男の声が、ふいに背後から聞こえた。
「おまえも、砂盤が読めるのか」
沈瓷の足が止まる。
案内役の小者は顔色を変えた。
雷に打たれたように、慌てて腰を折る。
「若様方にご挨拶申し上げます!」
沈瓷の胸が強張った。
すぐに振り返る。
月門の外に、いつの間にか二人の若い男が立っていた。
先頭の男は、二十を少し過ぎたくらい。
背は高く、肩も背筋もまっすぐだった。
深い青の軽甲姿。腰には長刀。
眉目は冷ややかだが、眼差しはひどく落ち着いている。
ただそこに立っているだけで、軍に身を置いてきた者だけが持つ、沈んだ圧があった。
左肩の甲には、銀糸の雲虎。
胸元には校尉の紋章。
陸将軍の嫡男、陸闕だった。
その隣に立つ若い男は、少し年下に見える。
十七、八ほどだろう。
眉目は陸闕とどこか似ている。
けれど、こちらのほうがずっと鋭く、気性の強さがそのまま外へ出ていた。
同じく甲衣をまとっているが、紋章は兄より一段下。
腰には短刀を下げている。
明らかに、こちらも軍で鍛えられた者だ。
陸将軍の次男、陸闥。
沈瓷は二人を知らない。
だが、案内役の小者が身分を明かした以上、無礼はできなかった。
すぐに拳を合わせ、身をかがめる。
「民の者、沈瓷にございます。若将軍様、若君様にご挨拶申し上げます」
陸闕の視線が、沈瓷の顔に落ちる。
すぐに咎める様子はなかった。
ただ、淡々と尋ねる。
「さっきの『勝つのは白軍だ』という言葉。おまえが言ったのか」
「……はい」
「一目見ただけで、どうして白軍が勝つと分かる」
沈瓷の胸が沈んだ。
さっきの一言は、頭の中をよぎったものがそのまま口から漏れただけだ。
自分でも、口に出したつもりはなかった。
それを、よりによって聞かれていた。
「私は……ただ、当てずっぽうを申しただけです」
「当てずっぽう?」
陸闕が口を開くより早く、隣の陸闥が冷たく笑った。
「当てずっぽうじゃないだろ。分かったような口をきいただけだ」
陸闥は演武場の中へ目をやり、砂盤を指さした。
「今の盤面を見ろ。どう見ても黒軍が押している。河東平原は黒旗側が半分以上を取った。白軍は北側高地の兵も薄い。退路も押さえられかけている」
「黒旗側がもう半歩押せば、白軍の補給路は断たれる。そうなれば詰みだ」
陸闥は沈瓷を見据えた。
「ただの民が、兵家の推演に何を分かる」
「口を開けば白軍が勝つだと? 大口を叩くにもほどがある」
陸闥の言葉は速く、強かった。
若さ特有の鋭さがある。
沈瓷は頭を下げたまま、何も返さなかった。
だが。
陸闕は、それに同調しなかった。
むしろ、小さく息を吐く。
「闥」
「……兄上?」
「本当に読めているなら、黒軍の勝ちとは言わない」
陸闥は一瞬、言葉を失った。
沈瓷も、思わずわずかに目を上げる。
陸闕はそれ以上説明しなかった。
ただ片手で陸闥の肩を押さえ、沈瓷へ顔を向ける。
「おまえも来い」
「白軍が勝つと言ったのなら、一緒に見届けるといい」
そう言うと、陸闕は先に演武場へ入っていった。
陸闥は疑わしげな顔をしていたが、結局ついていくしかない。
沈瓷も、この場では逃げられないと悟った。
腹をくくり、後に続く。
演武場の中では、砂盤の周囲に数名の親兵と幕僚が立っていた。
その中で最も目を引いたのは、痩せた中年の男だった。
男は少し古びた青袍を着て、その上に軽甲を重ねている。
腰に刀はない。
革袋と地図筒だけを下げていた。
眉目は穏やかで、目元には書物を読む者のような気配すらある。
だが、そんな教書の先生に見える男がそこに立っているだけで、周囲の親兵たちは息を潜め、余計なことを言わなかった。
陸闕は砂盤の前まで進むと、きちんと拳を合わせ、わずかに身をかがめた。
「呉参軍」
陸闥も顔色を変え、慌てて続く。
「呉参軍」
後ろで聞いていた沈瓷の胸が跳ねた。
呉参軍。
この人が、もしや呉猛なのか。
陸炎麾下の第一参軍。
軍の中で、本当の知恵袋とされる人物。
沈瓷は会ったことこそない。
けれど、沈老三が酒の席で人に吹聴していたのを、何度か聞いたことがあった。
陸家軍が北の境を守れているのは、陸炎が刀で、呉猛が頭だからだ、と。
呉参軍は目を上げ、陸家の兄弟を淡く見た。
唇の端が、あるかないかというほどに曲がる。
「若様方」
「今日は寿宴ではありませんでしたか。お二人とも、どうしてこちらへ?」
陸闕は軽く笑った。
声には、いくらか敬意があった。
「先ほど通りかかりまして。呉参軍と周参軍が推演されているのを見たものですから、つい足を止めました」
そう言って、陸闕は砂盤を見る。
何気ないふうに尋ねた。
「今、白軍を動かしておられるのは、参軍ですか」
呉参軍は頷いた。
「ええ」
それを聞いた陸闥は、はっきりと固まった。
「白軍が……先生なのですか?」
ついさっき、陸闥は白軍は必敗だと言い切ったばかりだ。
それなのに、白軍を動かしているのが呉参軍だと知り、その顔色は一気に複雑なものになった。
陸闥は砂盤をさらに二度ほど見た。
それでも、どうにも信じられないらしい。
「こ、これほど不利な白軍が……先生の打たれた手なのですか?」
呉参軍は、ただ笑っただけだった。
説明はしない。
手にした細い竹の棒で、砂盤の北側を軽く突く。
声は静かだった。
「若君は、このままご覧なさい」
そう言うと、呉参軍はもう周囲を気にしなかった。
向かい側の幕僚へ顔を向ける。
「周参軍、どうぞ」
対面の周参軍は、黒軍を動かす側だった。
余計なことは言わず、手を上げると、黒旗を半寸ほど前へ進めた。
「黒軍主力、引き続き東へ圧をかける。白軍を北側高地へ退かせる」
そばで記録していた文士が、すぐに低い声で復唱する。
「黒軍、東へ圧迫。白軍の後退路を断つ構え」
呉参軍の顔には、さざ波ひとつ立たなかった。
手にした竹の棒を返し、河西を指す。
「白軍、東側の前鋒を捨てる。半営、後退」
陸闥は眉をひそめた。
「また退くのか?」
周参軍も、白軍の退き方があまりに弱すぎると見たのだろう。
その場で短く笑い、さらに黒旗を置いた。
「黒軍、勢いに乗じて白軍東側の残兵を呑む。騎兵は河東平原に沿ってさらに南へ圧をかける。同時に軽騎三百を分け、補給路へ直進」
黒旗が進む。
駒は、たちまち半包囲の形になった。
表から見れば、白軍はすでに北側高地の隅へ追い詰められている。
ほとんど逃げ場がない。
陸闥は思わず低く呟いた。
「終わったな」
だが、呉参軍は聞こえていないかのようだった。
ただ落ち着いた手つきで、白軍の北側高地にある主旗を、そっと後ろへずらす。
高地の奥へ退く形。
同時に、指先で青砂の河川地形の下流を軽く叩いた。
「河湾部下流の浅瀬に伏せた白軍軽騎、夜間渡河」
その一言で、陸闕の目がわずかに変わった。
周参軍も目を細める。
呉参軍は続けた。
「北側高地の残兵は動かさない。引き続き弱っているように見せる。河西の旧陣では竈に煙を上げ、主力がまだ残っているように偽装する」
竹の棒がすっと走った。
河湾部下流に隠されていた三枚の白旗が、ぱっと現れる。
「この三百の軽騎は、浅瀬から夜間渡河した後、補給路を救いに行かない。北側高地の援護にも向かわない」
「荒野地帯の外縁を回り、黒軍の中軍旗へまっすぐ差し込む」
周参軍の顔が引き締まった。
すぐに手を上げ、駒を置く。
「黒軍、中軍へ救援!」
「遅い」
呉参軍の声は静かだった。
竹の棒が、黒軍の東側——最も深く押し込んだ前鋒の位置を強く指した。
「あなたは前へ出すぎた。主力は北側高地と河東平原に引き伸ばされ、前鋒、中軍、後隊の三つが切れている」
「中軍が乱れれば、前鋒はすぐには戻れない。後隊も河湾部に阻まれ、身を返せない」
「この瞬間、北側高地の残兵が半刻だけ反撃すれば、前鋒は中軍が持ち直したと誤認し、そのまま押し続ける」
「異変に気づいたときには——」
「退路はすでに、白軍の軽騎に断たれている」
竹の棒が横へ走った。
白軍の北側高地にあった主旗が、勢いよく前へ押し出される。
同時に、河西の旧陣に隠されていた二隊の伏兵も、呉参軍の手で現れた。
「河西の伏兵、橋を渡る。黒軍の後隊を挟撃」
「黒軍の前鋒は功を焦り、中軍は襲撃を受け、後隊は断たれる」
「周参軍。あなたの負けです」
最後の「負け」という言葉が落ちた。
演武場全体が、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。
ついさっきまで優勢に見えていた黒軍の盤面は、呉参軍が数手動かしただけで、一瞬にしてひっくり返っていた。
黒旗の前鋒は孤軍になった。
中軍は夜間渡河してきた軽騎に、一刀で腹を裂かれるように貫かれている。
後隊はまだ反応する前に、河西の伏兵によって胴を断たれていた。
黒と白の駒が交錯する盤上。
そこにあったのは、盤石に見えた黒軍ではない。
わざと広げられた巨大な網だった。
前へ押せば押すほど、死に近づく。
陸闥は口を開けたまま、呆然としていた。
しばらくして、はっと我に返る。
ぱん、と太腿を叩き、三歩で砂盤の前へ駆け寄った。
「見事です!」
「これは見事だ!」
「前の数手の後退は、すべて黒軍を誘い込むためだったのか!」
「黒軍が勝ったと思えば思うほど、逆に死地へ近づいていく!」
「呉参軍、この夜間渡河から中軍を突く手、まさに神技です!」
陸闥は顔を赤くし、目には崇拝の色すら浮かべていた。
その場でもう一度、最初から砂盤を見直したくてたまらない、という顔だった。
陸闕も拳を合わせ、低い声で言った。
「参軍、お見事です」
「戦場であれば、黒軍の主将は自分がどう死んだのかすら分からなかったでしょう」
呉参軍は淡く笑い、手を振った。
「若将軍、買いかぶりです」
そう言って、呉参軍は周参軍と盤面を振り返ろうとした。
そのとき。
ふと、視線が陸闕と陸闥の向こうへ抜ける。
そこにいたのは、割れた磁器を抱えたまま、演武場へ入ってからずっと静かに立っていた少年だった。




