第三章 目覚め
陸清禾は、呆然と見つめていた。
涙がこぼれることさえ、忘れている。
無意識に手を上げた。
指先が、そっと自分の唇の端に触れる。
何かを、確かめるように。
次の瞬間。
その手は本能に引かれるみたいに唇から滑り落ち、袖越しに、自分の小腕の内側をそっと押さえた。
春の衣を隔てているから、何かが分かるはずもない。
それなのに。
陸清禾の指先は、なぜかそこでぴたりと固まった。
「どうした?」
沈瓷は、陸清禾がずっとこちらを見ていることに気づいた。
その視線を追って自分の胸元を見下ろし、ようやく襟が緩んでいることに気づく。
「……な、なんでもありません」
陸清禾は、はっと我に返ったように頬を赤くし、慌ててうつむいた。
「ただ……その、お召し物が落ちそうでしたので」
言ってから、陸清禾自身も、ずいぶん苦しい言い訳だと思った。
沈瓷は分かっていた。
陸清禾は、きっと見たのだ。
自分の肩にある、犬に噛まれたようなあの痣を。
沈老三に言われたことを思い出す。
「失礼」
沈瓷は何気ないふうに襟を引き上げ、肩の後ろにあった暗い赤色の痕をきっちり隠した。
そばにいた案内役の小者が、それを見るなり沈瓷を急かす。
「沈職人、やはり急ぎましょう。今日は屋敷の中が大変立て込んでおりますし、私も前の広間へ戻らねばなりませんので」
沈瓷は頷いた。
陸清禾へ軽く礼をし、案内役の小者について西の控え庭へ向かう。
数歩進んだところで、沈瓷は何気ない調子で横を向いた。
「さっきの子は、この屋敷の人か?」
案内役の小者の足が、一瞬止まった。
そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。
まず反射的に後ろを振り返る。
陸清禾がまだその場に立っていて、こちらについてきていないのを見てから、声を低くした。
慎重に、口を開く。
「沈職人。先ほどの方は……このお屋敷のお嬢様でございます」
「お嬢様?」
「はい」
案内役の小者は頷いた。
だが、その声には何とも言えない引っかかりがあった。
言い終えると、余計なことを言ったとでも思ったのか、すぐに口を閉じる。
足取りまで少し早くなった。
沈瓷は横目でその様子を見る。
胸の内で、疑問が転がった。
この屋敷のお嬢様だというなら、なぜ案内役の小者は見ても礼をしないのか。
それどころか、どこか避けているようにすら見える。
しかも、そばに仕える侍女の一人もいなかった。
高い家で大事に育てられている娘の扱いには、どうにも見えない。
沈瓷はしばらく考えた。
だが、それ以上は聞かなかった。
聞きすぎれば、かえって目立つ。
西の控え庭は、前の宴席からそう遠くなかった。
ただ、その間にはいくつもの回廊と、小さな庭が挟まっている。
今日は将軍の寿宴だ。
人の出入りは多く、庭のあちこちも華やかに飾られていた。
けれど、進めば進むほど、沈瓷はこの将軍邸の空気に違和感を覚えた。
ただ富んでいるだけではない。
そこには、何とも言えない——
張りつめた殺気のようなものがある。
廊下の下に立っているのは、普通の下働きではなかった。
体格のいい、足取りのぶれない親兵が数人。
月門のそばに何気なく置かれている二つの石の水鉢も、位置が妙だった。
ちょうど視界の死角をふさぐように置かれている。
庭の隅に整えられた古松でさえ、枝葉の隙間が意図的に残されているように見えた。
まるで……見張りをしやすくするために。
沈瓷の眉が、ほんのわずかに動いた。
本来なら、分かるはずがない。
けれど、それらは沈瓷の目に入った瞬間、当然のように理解できた。
どこに人を潜ませられるか。
どこから奇襲をかけやすいか。
もし本当に騒ぎが起きたとき、どの道を通れば屋敷の主を守って逃がせるか。
考えようとしなくても、そんな思考が勝手に頭へ浮かんでくる。
沈瓷の足が、半歩だけ遅れた。
袖の中で、指がかすかに丸まる。
けれど、深く考える間もなく。
案内役の小者は、沈瓷を連れて月門を一つ曲がった。
月門の向こうは、半ば開けた小さな演武場だった。
庭の中に客の姿はない。
どうやら陸家の親兵や幕僚が出入りするための場所らしい。
中央には、かなり大きな沙盤が置かれていた。
沙盤の上には、起伏のある土色の稜線が作られている。
その間に青石、木旗、黒白の駒が置かれ、地形と兵の配置を示していた。
いちばん目を引くのは、青い砂で描かれた長い河川地形だった。
川の西は高地。
川の東は平原。
さらに北には、灰色の石で作られた荒野地帯が広がっている。
軽甲をまとった親兵が数名、沙盤を囲んでいた。
どうやら誰かに向けて、兵の動きを説明しているらしい。
一人が黒旗を持ち、河東平原に沿って前へ押し出す。
もう一人は白旗を持ち、北側高地を押さえ、退路を断とうとしていた。
そばには文士のような男が立っている。
細い竹の棒を手に、ときおり地形を指しながら、低い声で何かを話していた。
「敵軍が三日のうちに河湾を迂回すれば、我が前鋒は挟撃を受ける……」
「北側高地を守れば、東側の補給路が不安定になる……」
「だが、先に左翼を捨て、河西へ転じれば……」
声は途切れ途切れに届いてくる。
沈瓷は、ただ通り過ぎるだけのはずだった。
それなのに。
その目は、何かに縫い留められたように沙盤へ向かった。
沈瓷は止まった。
足取りが、無意識にゆっくりになる。
目の前に並ぶ黒と白の駒が、沈瓷の視界の中で、急にはっきりと見えた。
まるで、生き物のように。
黒旗が前へ押す。
白旗が高地を押さえる。
河東平原は一見開けている。
けれど、本当に怖いのは北側高地から騎兵が駆け下りてくることだ。
もし沈瓷が打つなら、黒旗はそもそもこんな動きをしない。
東へ前鋒を押すのは見せかけ。
本命は、主力の渡河。
まず軽騎を一隊使い、補給路へ仕掛けるふりをして、北側高地の守兵を西へ半里ほど引き出す。
そのうえで、夜のうちに河湾下流の浅瀬から渡河し、白旗の中軍へまっすぐ差し込む。
それどころか。
その先の数手。
どの部隊が先に崩れるか。
どの場所が最も逆包囲を受けやすいか。
すべてが、一瞬のうちに沈瓷の頭の中へ、くっきりと広がっていった。
まるで、他人の推演を見ているのではない。
自分自身が、これまで何度も何度も手ずから動かしてきたかのように。
沈瓷の呼吸が、かすかに止まる。
目の奥に、ごく薄い驚きが走った。
けれど、顔には出さなかった。
ただ、視線だけが沙盤に留まり、しばらく動かなかった。
「沈職人?」
案内役の小者は、沈瓷が急に止まったのに気づき、慌てて振り返った。
小声で促す。
「こちらです。祝いの品は、先に記帳していただかないと」
沈瓷はそこで、ようやく我に返ったようだった。
「……ああ」
視線を外し、また前へ進む。
けれど頭の中には、さっきの沙盤がまだ、はっきりと浮かんでいた。
黒白の駒が交差する。
河川地形。
稜線。
荒野地帯。
伏兵。
補給路。
そして、あのぞっとするほど馴染んだ感覚。
まるで、竹の棒を一本渡されれば、その場で彼らの推演を全部ひっくり返せるような気がした。
でも、なぜだ。
沈瓷は、ただ窯で磁器を焼く人間だ。
十六歳の窯職人にすぎない。
いつの間に、塞外の地形や兵の布陣まで読めるようになった?
沈瓷は何も言わなかった。
ただ、割れた磁器を抱える手に、知らず知らず力が入った。
前方には、祝いの品を記帳する西の控え庭が見えてきた。
門口には長机が置かれ、数人の管事が慌ただしく動き回っている。
名を読み上げる声。
帳面につける声。
品を確かめる声。
いくつもの声が、あちこちで重なっていた。
「青州の周家より、白玉の如意一対——」
「東寧の趙員外より、百年物の老参二箱——」
「沈家窯より、青釉福寿瓶一対——」
沈瓷は、そこでようやく思考を切り替えた。
二人の職人とともに、木枠から二つの青釉の大瓶を慎重に下ろす。
管事はもともと帳面に目を落としていた。
しかし「沈家窯」という名を聞き、顔を上げる。
「これが沈家窯から届いた寿瓶か?」
「はい」
「ほう」
その管事は大瓶の周りを半周ほど回り、思わず感心した声を漏らした。
「釉はむらがない。形も安定している。文様も悪くない。いい品だ」
「誰の手だ?」
沈瓷が答えようとした、その前に。
横にいた職人が先に胸を張り、沈瓷を指さした。
いかにも誇らしげな顔だった。
「うちの若旦那、沈瓷の手です!」
「この瓶は、ろくろから仕上げまで、沈瓷が自分で見ております!」
沈瓷は黙った。
「……」
管事は一瞬、驚いたように沈瓷を見直した。
「おまえが?」
「はい」
管事の目に、少し意外そうな色が浮かぶ。
「若いのに、大した腕だな」
「恐れ入ります」
沈瓷の声は平らだった。
管事は軽く笑っただけで、それ以上は聞かなかった。
手を振り、人を呼ぶ。
「前の広間の東側へ運べ。蘇州窯の青花大皿の隣だ。気をつけろ、ぶつけるな!」
「はい!」
数人の使いの者が返事をし、青釉の寿瓶を慎重に運んでいく。
「沈職人、記帳は済みました。よろしければ皆さま、前の広間で一杯お召し上がりください」
沈瓷は頷いた。
本当は行きたくない。
けれど、沈老三には、礼を失うなと何度も言われている。
将軍の寿祝いなのだ。
義理としても筋としても、祝いの酒を一杯受けないわけにはいかなかった。
そこで沈瓷は、二人の職人を連れ、案内役の小者について前の広間へ向かった。
もう一度、小さな演武場のそばを通る。
そのとき。
沈瓷の視線は、また勝手に先ほどの演武場へ向かった。
黒と白の駒は、まだゆっくりと動いている。
たった一目。
それだけで、沈瓷には、彼らが次にどう動かそうとしているのかが分かった。
あの竹の棒を持った文士が、どの手で迷うのかさえ、七、八割は読めてしまう。
沈瓷の目が、わずかに沈んだ。
胸の奥にある、言葉にしにくい違和感が、さらに重くなる。
今日、沈瓷は将軍邸に入って、まだ一刻も経っていない。
それなのに。
まるで、見えない手がどこかから伸びてきているみたいだった。
沈瓷の頭の中で眠っていた何かを。
少しずつ。
そっと、引き起こそうとしている。




