第二章 陸清禾(ルー・チンホー)
八年後。
大晋、永和二十三年。
春の終わり。
雲河県、沈家窯。
夜が明けたばかりだというのに、窯場の前はもう熱気で白くかすんでいた。
焼き上がったばかりの磁器が、庭いっぱいに並べられている。
朝の光を受けた釉は、しっとりとした光を帯びていた。
まるで、水が薄く固まったように。
ろくろ台のそばで、背のすらりとした少年が手を洗っている。
十六、七ほど。
顔立ちはすっきりとしていて、肩から背中まで真っ直ぐ伸びている。
袖は高くまくり上げられ、指は長く、力強い。
けれど指先には、長年、土をこね、素地を削ってきた細かな胼胝があった。
水滴が、指の節を伝って落ちる。
そばでは、何人かの兄弟弟子たちが磁器を運びながら、ちらちらとこちらを見ていた。
「沈老三のおじさんも思い切ったよな。今回の将軍邸への祝いの青釉福寿瓶、ほんとに阿瓷ひとりに仕上げさせるなんて」
「当たり前だろ。窯場で一番手が安定してるの、誰だと思ってんだよ」
「十六で一人前か。俺らが十六の頃なんて、師匠の失敗までかぶらされてたぞ」
「やめろ。これ以上言われると、いっぺん母親の腹に戻って焼き直されたい気分になる」
みんな小声でぼやいている。
けれど、その声に妬みはほとんどなかった。
あるのは、むしろ納得だった。
沈瓷は相手にしない。
手を拭き、庭の真ん中に置かれた、人の背ほどもある青釉の大瓶へ歩いていく。
そして、最後の金彩の文様を低い位置から確かめた。
瓶の姿はすらりとしている。
胴は丸く、口は引き締まっていた。
釉の色は、雨上がりの青い山のように澄んでいる。
頸の蔓草模様は髪の毛ほど細く、胴の中央には「寿」の字が、雲海の暗文の上に静かに据えられていた。
気品があって、少しも職人くささがない。
これは沈家窯が、清河県の鎮辺将軍へ、六十の寿ぎとして贈る祝いの品だった。
そして、沈瓷が一人前になってから、初めて自分で送り届ける大物でもある。
沈老三は両手を後ろに組み、瓶の周りを二度ほど回った。
わざとらしく頷いている。
顔には「俺の息子は大したもんだ」と書いてあるくせに、口を開けばいつもの調子だった。
「調子に乗るなよ」
「将軍邸には目の肥えた偉い連中が山ほどいる。中に入ったら余計なことは言うな。おまえの悪友どもみたいに、口からでまかせを垂れ流すんじゃねぇぞ」
「瓶を欠けさせでもしたら、先に俺がおまえの足を折る」
沈瓷は白い目を向けた。
「分かってる」
「それと」
沈老三は急に声を低くし、沈瓷をにらんだ。
「襟をちゃんと締めろ」
沈瓷は一瞬きょとんとする。
「は?」
「は、じゃねぇ」
沈老三は手を伸ばし、沈瓷の襟元をぐいっと引き上げた。
「肩の後ろにある、あの犬に噛まれたみたいな痣だよ。あんなもん見えたらどう見えると思ってんだ。偉い人に見られたら、沈家窯の若旦那がどこかの狂った女に噛まれたと思われるだろうが」
「……」
沈瓷の口元が、ぴくりと引きつった。
何も言わなかった。
八歳のあの日から、体にある八つの歯形のような痣は、年ごとにはっきりしていった。
この数年、あの夢について考えなかったわけではない。
あの雪の夜を、何度も夢に見た。
それでも記憶は、いつも霧の向こうにある。
自分は誰かと。
あるいは、誰かたちと。
何かを約束した。
ただ、その約束が何だったのかだけが、どうしても思い出せない。
「何ぼけっとしてる」
沈老三はまた沈瓷を小突いた。
「行くぞ!」
「今行く」
ぎい、ぎい、と車輪が鳴る。
ぱから、ぱから、と馬の蹄が通りを踏んだ。
二人の職人が木枠を守り、その上には青釉福寿瓶がしっかりと縛りつけられている。
一行は、そのまま将軍邸へ向かった。
清河県は大きな町ではない。
けれど、鎮辺将軍の屋敷は堂々としたものだった。
高い門。
広い屋敷。
門前を守る石の獅子。
朱塗りの大門の前には、絶えず馬車が出入りしている。
今日は将軍の寿宴だった。
門前には祝いの品が山と積まれ、名を読み上げる者、客を迎える者、箱を運ぶ者が行き交っている。
まるで正月のような賑わいだった。
沈家窯は、清河県どころか大晋でもそれなりに名の知れた窯だ。
門番は礼状を見るなり、すぐ人を呼んで中へ通した。
「沈職人、こちらへ。祝いの品は先に西の控え庭で記帳します。あとで人が前の広間へ運びますので」
「手間をかける」
沈瓷は頷いた。
二人の職人を連れ、慎重に大瓶を西の控え庭へ運んでいく。
将軍邸の中は、道が入り組んでいた。
深い廊下。
高い壁。
築山と花木が、幾重にも重なっている。
前の宴席のざわめきが、いくつもの庭と壁を挟んで届いてくる。
そのせいで、このあたりはかえって静かに感じられた。
歩いていると、前方の角から、ふいに小さな音がした。
ぱきん——。
何か、磁器が割れたような音だった。
続いて、押し殺したようなすすり泣きが聞こえる。
沈瓷は足を止めた。
案内の下男も明らかに聞こえていた。
顔色をわずかに変える。
けれど、聞かなかったふりをしたいのか、足を早めた。
「沈職人、まずは祝いの品を……」
だが沈瓷は、もう横を向いていた。
角の先。
小さな控え庭の隅。
花壁のそばに、白釉に花を描いた小瓶が割れて落ちていた。
ひどく粉々というほどではない。
胴は三つの大きな欠片に割れ、口の縁が少し欠けている。
底はころりと横へ転がっていた。
そのそばに、少女がしゃがみ込んでいる。
年は沈瓷と近い。
十五、六ほどだろう。
目立たない淡い青の衣をまとい、髪には銀の簡素な簪が一本だけ。
慌てた様子で床の欠片を拾っていた。
目元は赤く、指先は震えている。
足音に気づいたのだろう。
少女は、はっと顔を上げた。
その瞬間。
沈瓷の足が、わずかに止まった。
きれいな少女だった。
派手な美しさではない。
ただ、澄んでいた。
細い眉と目。
白い肌。
泣いたせいで鼻先だけが赤くなり、目にはまだ落ちきらない涙が残っている。
雨の中で半分折れた海棠の枝みたいだった。
人が来たのを見ると、少女はまず慌てた。
反射的に欠片を胸のほうへ寄せる。
見られたくない、というように。
けれど、その動きが急すぎた。
鋭い陶片が、指先をすっと切る。
「っ……」
赤い血が、傷口からゆっくりにじんだ。
少女は小さく息を吸い、また泣きそうになる。
沈瓷は眉をひそめた。
数歩でそばへ行き、しゃがみ込む。
「拾うな」
少女はびくりとして、沈瓷を見上げた。
目には、まだ怯えが残っている。
「あなた……」
「割れ口は鋭い。拾えば拾うほど手を切る」
沈瓷は地面の欠片を見る。
声は落ち着いていた。
「まず、置いておけ」
沈瓷は自分の衣の裾を破り、少女の傷口に沿わせるようにして巻いた。
それから、少女の手の中にあった二つの欠片をそっと取る。
ついでに、目を走らせた。
白い釉はきめ細かく、しっとりしている。
花を描くのに使っているのは古い回青の顔料だった。
胎土は薄く、むらがない。
ここ数年の窯の手ではない。
むしろ数年前、下手をすれば十年以上前の古い品に見える。
しかも、割れ方は重くない。
少女は、沈瓷が欠片を一つずつ並べていくのを見ていた。
ようやく我に返ったように、震える声で聞く。
「……直せますか?」
沈瓷は目を上げた。
「直せる」
少女の目が、ぱっと明るくなった。
まるで、命綱をつかんだように。
「本当に?」
「本当だ」
「で、でも……もう割れて……」
「割れ方はひどくない」
沈瓷は最後の底の欠片を拾い、胴の割れ目に合わせる。
それから頷いた。
「欠けは大きくない。口縁が少し欠けて、胴が三つに割れているだけだ。全部、合わせられる」
沈瓷は何でもないように言った。
けれど少女は、ぽかんとして聞いていた。
口縁だの、胴だの、そんな言葉は初めて聞いたのだろう。
それでも、目の前の少年が真剣に見ているのを見ていると。
不思議と、胸の奥が少し温かくなった。
この人は、信じてもいい。
そんな気がした。
「あなた……」
少女は唇を噛む。
また目元が赤くなった。
「これは、母が残してくれたものなんです」
「ただ、少し拭こうと思っただけで……」
「今日は屋敷に人が多いから、誰かに触られるのが怖くて、先にこっちへ置いておこうと思って……それなのに……それなのに……」
そこから先は、言葉にならなかった。
涙が先に落ちる。
ぽたり。
割れた陶片の上へ。
沈瓷は少女を見た。
だが、余計なことは聞かなかった。
袖の中から清潔な手拭いを取り出し、差し出す。
「まず拭け」
少女は少し驚いたように瞬きした。
手拭いを差し出されるとは思わなかったのだろう。
迷ったあと、そっと受け取った。
「……ありがとうございます」
沈瓷は、割れた欠片をもう一度まとめる。
「俺を信じられるなら、七日くれ」
「七日後に直して、ここへ持ってくる」
少女は固まった。
「七日?」
「ああ」
「前と同じように、直せますか?」
沈瓷は少し考えた。
そして、正直に言う。
「まったく同じは無理だ」
少女の目の光が、すぐに少し沈んだ。
けれど、沈瓷は続ける。
「でも、立つようにはできる。形も戻せる。遠目には割れ目が分からないくらいにはする。近くで見ても、ひどくは見えないはずだ」
「うまくいけば、花の模様も七、八割はつなげられる」
「少なくとも、今みたいに欠片を抱えて泣いてるよりはましだ」
少女は、ぽかんと沈瓷を見た。
涙はまだまつげに残っていたのに、その言い方のせいで少し笑いそうになった。
鼻をすすり、小さな声で言う。
「あなたって……ずいぶん、まっすぐ言うんですね」
沈瓷は口元を少し動かした。
「悪いな。手を動かして食ってる人間は、だいたい口が甘くない」
少女は唇を結ぶ。
笑いそうになるのを、どうにかこらえているようだった。
それから、地面にある割れた小瓶を見る。
数息ほどして、そっと頷いた。
「では……お願いします」
「分かった」
「七日後、私はどこへ行けば……?」
「俺が届けに来る」
「それなら……待っています」
そう言ったあと、少女は自分でも少し変な言い方だと思ったのだろう。
耳の先が、ほんのり赤くなった。
慌てて付け足す。
「あ、いえ……ここで、戻してくださるのを待っている、という意味です」
沈瓷はそこには触れなかった。
立ち上がると、割れた欠片を自分の外衣の裾で丁寧に包む。
これ以上、ぶつけないように。
そばで見ていた案内の下男は、額に汗をにじませていた。
「沈職人、そ、その……先に祝いの品を運びませんと……」
「何を慌ててる。瓶が勝手に足を生やして逃げるわけじゃないだろ」
沈瓷はそう言って、少女へ向き直った。
「名前は?」
少女は一瞬、固まった。
聞かれると思っていなかったようだった。
少し迷ってから、かすかな声で答える。
「……陸清禾です」
沈瓷は頷いた。
「沈瓷だ」
陸清禾は顔を上げ、沈瓷を見た。
その名を、きちんと覚えようとしているみたいに。
風が廊下を抜けていく。
陸清禾のこめかみにかかった後れ毛を揺らし、同時に沈瓷の襟元もかすかに動かした。
さっきしゃがみ込んだとき、沈瓷の襟は少し緩んでいた。
その状態で割れた陶片を抱え上げたせいで、肩の後ろの布が一寸ほど滑り落ちる。
たった一寸。
けれど、それだけで十分だった。
左肩の後ろに、暗い赤色の痕がのぞく。
歪んでいて、輪郭がはっきりしている。
まるで——
歯形。
陸清禾の目が、そこで止まった。
そして、ほとんど無意識に。
自分の左腕へ、そっと手を伸ばした。




