第一章 歯
十二月の雪は、深かった。
軒先は積もった雪の重みで、ぎし、ぎし、と軋んでいる。
庭の隅にある古い梅の木も、枝を半分ほど折られていた。
部屋の中は、薬の匂いが濃かった。
銅の火鉢では炭が真っ赤に燃えている。
その赤い光が寝台の帳を照らし、寝台に横たわる老いた妻の顔を、いっそう白く浮かび上がらせていた。
白髪の老人が、寝台のそばに座っている。
もう長いこと、動いていない。
片手で妻の手を握り、もう片方の手は膝の上に置いている。
手の甲には青い筋が一本一本浮き上がり、何かを必死に押し殺しているようだった。
寝台の上の妻は、とても痩せていた。
風が吹けばそのまま折れてしまいそうな、枯れ枝のように。
目は半分だけ開いている。
息は弱く、胸が上下しているのかどうかも、ほとんど分からない。
外では、風まじりの雪が窓をばしばしと叩いていた。
それなのに、部屋の中はひどく静かだった。
「阿満」
ふいに、彼女が口を開いた。
老人はすぐに身をかがめる。
「ここにいる」
妻は彼を見つめた。
口元が、ほんの少し動く。
笑おうとしたのかもしれない。
「あなたって……どうして、まだそんな顔なの」
「どんな顔だ」
「誰かにお金でも貸したままみたいな顔」
老人は、わずかに口元を引いた。
「貸した相手なら、山ほどいる」
妻はそれを聞いて、かすかに笑った。
けれど、その笑いで息が乱れた。
胸が苦しそうに上下し、ごほっ、ごほっ、と二度ほど咳き込む。
顔色が、さらに白くなる。
老人はすぐに彼女を支え、背中をさすった。
「もう話すな」
妻は一度息を吸い、しばらくしてから、小さな声で言った。
「今、言わないと……もう、言えない気がするの」
老人の手が、そこで止まった。
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちる。
外の風雪の音だけが、さっきより重く聞こえた。
妻は老人の腕に頭を預け、長いあいだ彼を見つめていた。
その顔を、目の奥に刻み込もうとしているみたいに。
「阿満」
「ん」
「もし、本当に来世があるなら……」
老人は顔を上げ、彼女を見る。
「……また、私を妻にしてくれる?」
その声は、とても軽かった。
冗談みたいに。
けれど、言い終えたあと、彼女はただ静かに彼を見つめていた。
その目には、少しの笑いもなかった。
老人は妻を見つめたまま、喉を一度鳴らした。
この一生、神も仏も信じてこなかった。
鬼神も、輪廻も、報いも。
そんなものは、何ひとつ信じていなかった。
けれど、本当にこの瞬間になってみると。
この世に来世というものがあってほしいと、心の底から思った。
「する」
彼は言った。
声は大きくない。
けれど、迷いは一切なかった。
「もし俺たちに来世があるなら、必ずおまえを見つけて、また妻にする」
妻の目元が、わずかに赤くなった。
「もし、私だって分からなかったら?」
老人はしばらく黙った。
それから、何かを思い出したように、自分の口元に手をやる。
「分かる」
「どうやって?」
老人は彼女を見た。
「印を残す」
妻は、ぽかんとした。
老人はそれ以上説明しなかった。
ただ、彼女の左腕をそっと持ち上げる。
白い手首が、布の下から現れた。
老人は子どもの頃から、歯並びが少し変わっていた。
上の歯がきれいに揃っていない。
前歯の近くが、わずかにずれている。
そのせいで、幼い頃はよく笑われた。
けれど今になって、ようやくこの歯の使い道を見つけたような気がした。
老人は顔を近づけ、ゆっくりと噛んだ。
かぷ。
動きは軽い。
けれど、しっかりしていた。
まるで、印を押すみたいに。
妻の体が、かすかに震える。
でも、避けなかった。
ただ、まつげが小さく揺れただけだった。
しばらくして、老人は口を離した。
白い腕には、はっきりとした歯形が一つ残っていた。
歯の跡は歪んでいて、普通のものではない。
まるで、簡単には真似できない印章のようだった。
老人はその歯形を、長いあいだ見つめていた。
妻も下を向き、それを見た。
その目には、いつの間にか涙がにじんでいる。
そして、小さく文句を言った。
「……ひどい形」
「うん」
老人は頷いた。
「でも、見つけやすい」
妻は彼を見つめる。
そして、ふいに手を上げ、彼の肩を指した。
「私も……いる」
老人は一瞬、きょとんとする。
「何がだ」
「あなたが私に残したなら、私もあなたに残さないと」
老人は少し笑った。
襟を開き、左肩を出す。
それから身をかがめ、肩を差し出した。
妻には、もうほとんど力がなかった。
噛む力も強くはない。
それでも、その一口はひどく真剣だった。
来世で見失ってしまうのを、心から恐れているみたいに。
彼女が口を離したとき、左肩には浅い歯形が一つ残っていた。
妻は枕へ戻る。
呼吸はさらに乱れていたが、その目はどこか安心していた。
「これで……おあいこね」
「うん」
「もし私を見つけられなかったら……」
「そんなことはない」
「もし他の人を妻にしたら……」
「それもない」
「もし、あなたが……」
そこで。
言葉が、ふっと途切れた。
まるで、風に灯りを吹き消されたみたいに。
部屋の中が、急に静まり返る。
老人の手が、宙で固まった。
「……おまえ?」
返事はない。
彼女の目は半分閉じている。
口元には、淡い笑みが残っていた。
さっきの脅し文句をまだ言い終えていないだけで、ただ眠ってしまったようにも見える。
でも、老人には分かっていた。
彼女は逝った。
外では風雪が窓を打ちつけている。
部屋の中は、死んだように静かだった。
老人は泣かなかった。
彼女を抱いたまま、長いあいだ座っていた。
炭火が半分以上弱くなるまで。
窓紙の向こうが、うっすら明るくなるまで。
その頃になって、ようやく誰かが扉を押し開けた。
老いた使用人が、どたどたと、転がるように駆け込んでくる。
寝台の上で息をしていない夫人を見た瞬間、顔が真っ白になった。
「将軍……」
そこまで言いかけて、使用人は固まった。
梁から、いつの間にか白い絹布が垂れていた。
老人は寝台のそばに立っている。
寝ている人の髪を整えるように、彼女の乱れた髪を直した。
それから、布団の端をきちんと掛け直す。
動きは、とてもゆっくりだった。
そして、とても丁寧だった。
眠っている人を世話しているみたいに。
すべて終えると、老人は梁から垂れた白い絹布を見上げた。
使用人は何かを悟ったように、どさりと膝をつく。
声が裏返っていた。
「将軍! なりません!」
老人は振り返らなかった。
ただ、寝台の上の人を見つめたまま、低く言った。
「十六の歳から、俺についてきた女だ」
「気の小さい女でな。俺から離れたことがない」
「一人で行かせたら、怖がる」
そう言って、老人は足を上げた。
寝台のそばの椅子に、そっと乗る。
雪の光が、窓紙の向こうから差し込んでいた。
「おまえ」
「待っていろ」
――
どぼんっ!
冷たい川の水が、いきなり鼻と口へ流れ込んだ。
沈瓷は水の中でめちゃくちゃに手足をばたつかせる。
息が詰まり、目の前が黒くなった。
それでも、どうにか浅瀬から這い上がり、転がるように立ち上がる。
「げほっ! げほげほっ——!」
川辺にいた半端に大きなガキどもは、最初こそぽかんとしていた。
けれど、すぐにどっと笑い出した。
「沈瓷、おまえ本当に役立たずだな! こんな浅いところで溺れるかよ!」
「あはははは! 犬かきのほうがまだ見られるぞ!」
「股ん中に魚でも入ってねぇか、見てみろよ!」
沈瓷は顔の水を拭い、汚い言葉を一つ吐いた。
そのまま連中を追いかけて蹴り飛ばそうと、足を踏み出す。
けれど、二歩ほど進んだところで、不意に固まった。
川の水は澄んでいる。
日差しもちょうどよかった。
ふと下を向くと、まくり上げたズボンの下、ふくらはぎの外側に、暗い赤色の痣が見えた。
形が、おかしい。
いくつもの輪が重なったような形で、縁がくっきりしている。
まるで……誰かに噛まれたみたいだった。
沈瓷は眉をひそめる。
この痣は、前にも見たことがある。
ただ、子どもの頃は体がまだ丸く、肉も柔らかかったせいか、あまり目立たなかった。
八歳になった今、体が少しずつ伸び始めてから、逆にはっきりしてきたらしい。
しゃがみ込み、指でそっと触ってみる。
ひやりとしていた。
そばでは、あのガキどもがまだ騒いでいる。
「どうした? 溺れて頭までやられたか?」
「沈瓷、おまえ本当に河の神に噛まれたんじゃねぇの?」
「あはははは——!」
「どっか行け」
沈瓷は吐き捨てた。
けれど、胸の奥がなぜかざわついた。
立ち上がり、もう一度その痣を見る。
見れば見るほど、おかしい。
普通の痣には見えなかった。
むしろ本当に……
人間の歯形みたいだった。
沈瓷の顔色が変わる。
もう連中とふざけ合う気にもなれず、くるりと岸へ向かって走り出した。
「おい! どこ行くんだよ!」
「家で小便だ!」
「けっ、腰抜け!」
沈瓷はそのまま家まで走った。
部屋に飛び込み、箱や棚をひっくり返すようにして古い銅鏡を探し出す。
それから服をめくり、鏡を使って自分の体をあちこち照らした。
見た瞬間、頭皮がぞわっとした。
ふくらはぎだけじゃない。
左腕の内側に一つ。
右手首の裏に一つ。
左右の肩の後ろに、それぞれ一つずつ。
太腿の付け根側に一つ。
ふくらはぎの両側にも、それぞれ一つ。
合わせて——
ぴったり八つ。
どれも歪んでいて、人の歯形にそっくりだった。
沈瓷は鏡を見つめたまま、少しずつ顔を白くしていった。
どれくらい、そうしていただろう。
ふいに、頭の中で。
ぶん、と音がした。
何かに、ひびが入ったような感覚だった。
大雪。
薬の匂い。
風雪の夜の窓。
女の白い手首。
それから、とても軽い声。
「もし、本当に来世があるなら……」
沈瓷は思わず一歩後ずさった。
腰が机の角にぶつかり、痛みに顔をしかめる。
けれど、それどころではなかった。
頭の中の光景は、一瞬で消えた。
夢のようで、夢ではない。
沈瓷が覚えているのは、ぼんやりした一点だけだった。
自分は、誰かと……約束をした気がする。
とても大事な約束だ。
一生を隔てても。
記憶がばらばらに壊れていても。
体にはまだ、その痕が残っているほどの。
「阿瓷!」
外から、突然怒鳴り声が飛んできた。
「この悪ガキ、また部屋に隠れて何してやがる! 出てこい、土をこねろ!」
沈瓷ははっと我に返った。
驚いて、もう少しで鏡を落としそうになる。
父親の沈老三が、火かき棒を手に扉を蹴って入ってきた。
入ってすぐ、自分の息子が服をめくり、鏡を持ち、顔を白くしてぼうっとしているのを見て、まぶたをぴくりと動かす。
「おまえ、何してんだ?」
「……痣を見てた」
「痣なんか見てどうすんだ」
沈瓷は口を開きかけた。
何かを聞きたかった。
けれど、どう切り出せばいいのか分からない。
まさか、自分は前世で誰かに八回も噛まれた気がする、などと言えるはずもない。
沈老三は近づいてきて、ちらりと痣を見る。
そして、まるでどうでもよさそうに言った。
「ああ、それか。小さい頃からあったぞ。大きくなったから目立つようになっただけだ」
「なんで前に言わなかったんだよ」
「何をだ」
沈老三は呆れたように目をむいた。
「飯が食えなくなるわけでも、寝られなくなるわけでもねぇだろ。暇人じゃあるまいし、いちいちおまえの体についた犬に噛まれたみたいな痣の話をするかよ」
「……」
沈瓷の口元が、ひくりと引きつる。
「いいから、妙なこと考えてないで動け」
沈老三は、ぱしん、と沈瓷の額を叩いた。
「さっさと出てきて働け!」
その日から。
沈瓷は、何度も同じような夢を見るようになった。
夢には、いつも雪がある。
風がある。
顔の見えない女がいる。
そして、どうしても最後まで聞き取れない言葉がある。
沈瓷は掴もうとしても、掴めない。
見ようとしても、目が覚めるたびに残るのは、全身の冷たい汗だけだった。
まるで誰かが、見えない一本の糸を持っているみたいに。
とても遠い場所から。
ゆっくり、ゆっくり。
沈瓷を引き戻そうとしている。
その引力は——
八年、続いた。




