第十三章 王爵
「陛下のお使いが参っております」
その一言が落ちた瞬間。
演武場を満たしていた、息もできないほどの沈黙が、ふっと別の色に変わった。
沈瓷は、まだその場に立っていた。
腕の中には、陸清禾の割れた白釉花描きの小瓶がある。
陸清禾は沈瓷の隣に立っていた。
握りしめた袖口は皺になり、顔色はまだひどく白い。
陸炎は管事役を見た。
「誰だ」
管事役は門の外で跪いたまま、さらに頭を低くする。
「礼部侍郎の許遠様が、直々にお越しです」
「陛下のご命令で、将軍の寿を祝うために参られたとのこと」
「聖旨もお持ちです」
聖旨。
その二文字が出た途端、演武場の空気がはっきり変わった。
陸炎から放たれていた、喉元に突きつけられた刀のような圧が、ふっと鞘に収まる。
陸炎は沈瓷を見た。
「待っていろ」
たった一言。
それだけで、沈瓷の背中が強張った。
続いて、陸炎は陸闕を見る。
「見張っておけ」
陸闕は拳を合わせた。
「はい」
陸炎は身を翻し、外へ向かう。
呉猛もそれに続いた。
沈瓷はその場に立ったまま、遠ざかる足音を聞いていた。
胸の鼓動は、まだ速い。
今日一日で、あまりにも多くのことが起きた。
もう、どれが一番おかしいのかさえ分からない。
沈瓷は腕の中の布包みを見る。
ふと、この小瓶こそが今日すべての災いの根ではないかと思った。
けれど。
沈瓷は、陸清禾に直すと約束してしまっている。
陸清禾は隣で、ずっと黙っていた。
目は伏せたまま。
陸炎が遠ざかってから、ようやく、ごく小さく息を吸った。
沈瓷は陸清禾を見た。
何か言おうとした。
けれど、何を言えばいいのか分からない。
結局、口を閉じるしかなかった。
何を言っても、妙なことにしかならない気がした。
前の広間では、寿宴の酒がまだ温かかった。
陛下のお使いが来たと知り、陸府の使用人たちはすぐに香案を整えた。
赤い蝋燭。
清らかな香。
金の香炉。
明黄色の絹布。
必要なものは、すべて揃えられている。
緋色の官服をまとった男が、香案の前に立っていた。
白い顔に、薄く整えた髭。
笑みは穏やかだった。
陸炎が広間へ入ると、その男はすぐ半歩前へ出て、拳を合わせる。
「陸将軍」
「この許遠、陛下の命を受け、将軍の寿を祝うため参りました」
陸炎は言った。
「許遠侍郎、遠路ご苦労だった」
許遠は微笑む。
「陛下の御恩をお伝えし、将軍の寿を祝う役目です。苦労など、とても」
そう言って、許遠は軽く手を上げた。
背後の礼官がすぐ前へ進み、金で縁取られた紫檀の長匣を堂前へ捧げる。
匣の蓋が開かれた。
中にあったのは、一本の玉如意だった。
全体はしっとりと潤んだ光を帯びている。
柄には、松と鶴の長寿文様が彫られていた。
尾には、小さな金の寿字紋が嵌め込まれている。
広間の客たちが、思わず低い驚きの声を漏らした。
許遠は笑みを含んだまま言う。
「陛下は、こう仰せです」
「陸将軍は二十年にわたり北境を守り、風霜を厭わず、刀兵を避けず」
「今日の寿辰にあたり、将軍が松柏のごとく長く青く、北山のごとく揺るがぬことを願う」
「また、将軍の守りのもと、北境に戦塵起こらず、民が安んじて暮らせることを願う、と」
前の広間に、祝いの声が一斉に湧いた。
「陛下の御恩、まことに深きこと!」
「将軍、福寿長久であられますよう!」
「願わくは将軍、長く北境を鎮め、我らが大胤の山河をお守りくださらんことを!」
陸炎は、堂前の御賜の玉如意を静かに見ていた。
やがて衣の袖を整える。
唐京の方角へ向かい、跪いた。
広間の客たちも、それに従って次々と跪く。
陸炎は両手を床につき、低くよく通る声で言った。
「臣、陸炎。陛下の御寿賜を、謹んで拝受いたします」
礼官が玉如意を差し出す。
陸炎は両手で受け取った。
許遠はそれを見て、笑みをさらに深める。
「将軍は忠も礼も備えておられる。陛下が折に触れてお褒めになるのも、当然のことです」
陸炎は立ち上がり、玉如意をそばの管事役へ渡した。
「陛下の厚恩、臣、心に刻みます」
だが許遠は、そこで退かなかった。
礼官の手から、明黄色の聖旨を受け取る。
「寿礼のほか、陛下にはもう一つ、恩旨がございます」
「この玉如意が、将軍の寿辰を祝うための御品であるならば」
「こちらの旨は、陛下が将軍の鎮辺の功を思い、下されるもう一つの厚恩でございます」
広間の祝い声が、少しずつ低くなった。
すべての視線が、その聖旨へ集まる。
許遠は表情を正し、朗々と告げた。
「鎮北将軍陸炎、旨を受けよ——」
陸炎は再び跪いた。
広間の者たちも、一斉にそれに続く。
許遠は聖旨を広げ、高らかに読み上げた。
「奉天承運、皇帝詔して曰く——」
「鎮北将軍陸炎は、二十年にわたり北境を鎮め、幾度も北戎を破り、民を安んじ、辺を定め、その功は社稷にあり」
「今、朕は親政を執るにあたり、卿の労苦と功績、忠勇無双なることを思い、特に靖北王へ進封する」
「金印一方、玄錦蟒袍一襲、蟠龍玉帯一条、王府儀仗一式を賜い、卿の鎮辺護国の功を顕彰する」
「朕は久しく卿に会っておらず、かつての君臣の誼を深く思っている」
「卿が唐京へ入る日、朕は卿とあの時のことを語り、また北境の軍情を論じたい」
「欽此——」
聖旨が読み終えられた。
前の広間は、一息だけ静まった。
次の瞬間。
祝いの声が、轟くように湧き上がる。
「靖北王殿下、おめでとうございます!」
「殿下、まことにめでたいことでございます!」
「臣下の身で王爵を賜るなど、国朝でも稀なこと!」
「靖北王殿下は二十年にわたり辺境を守られた。まさしく当然の封爵です!」
「寿宴の日に封爵とは、二重の慶事ですな!」
満堂の客たちが、口々に祝った。
陸炎は最前で跪いたまま、両手で聖旨を受け取る。
「臣、陸炎。主上の隆恩に感謝いたします」
立ち上がった陸炎の顔には、狂喜はなかった。
むしろ、ほどよい驚きが浮かんでいる。
陸炎は許遠を見た。
「許遠侍郎」
「臣下の身で王爵を賜ることは、国朝の重き典礼です」
「私は長く北境を守ってきたとはいえ、この爵をみだりに受けるほどの者ではありません」
「陛下は、なぜ急にこのような厚恩を?」
その言葉で、広間の祝い声が少しずつ低くなった。
客たちも、耳をそばだてる。
たしかに。
臣下に王爵を授けるなど、ただの褒美ではない。
許遠は、陸炎がそう問うことを最初から分かっていたようだった。
笑みは変わらず温かい。
「殿下はご謙遜を」
「陛下の封爵は、一時のお考えではございません」
「殿下は二十年にわたり北境を守り、幾度も北戎を破り、辺の民に安らかな暮らしをもたらしました。これは鎮辺の功でございます」
「それだけではありません」
「陛下は、今もなお、あの時のことをお忘れではありません」
陸炎の目が、わずかに動いた。
「あの時のこと?」
許遠は言った。
「先帝が崩御された年、朝中は風雨のただ中にありました」
「陛下はまだ幼く、宗室の諸王はそれぞれ胸に思惑を抱き、北境の外では異族が機をうかがっていた」
「そのとき殿下が北境を押さえ、辺軍を鎮め、さらに朝局が最も危うい折に正統を擁立する上表を出されなければ」
「今日の大胤の朝堂が、これほど安定していたかどうか」
この話は、その場にいる多くの者が知っていた。
だがここ数年、朝廷が自ら口にすることはほとんどなかった。
陸炎の功が、大きすぎるからだ。
大きすぎて、口にすれば朝中の多くの者を不安にさせる。
許遠は続けた。
「陛下は幼くして即位されましたが、殿下の当年の扶立の功を、片時もお忘れではありません」
「今、陛下は成年され、親政を執られました。まだ御子もおられず、朝廷を支えるには、殿下のような方のお力がどうしても必要なのです」
「陛下は常々仰せです」
「殿下ほどの功臣に、ありきたりの封賞だけでは薄い。大胤が忠勇の士を遇する礼としても、足りない、と」
「ゆえに本日、殿下の寿辰に合わせて恩旨を下し、王爵を賜ったのです」
「これは寿を祝うためでもあり、功に報いるためでもございます」
広間の客たちはそれを聞き、次々と頷いた。
「なるほど」
「靖北王殿下には、たしかに当年の扶立の功がある」
「陛下が親政の後も旧恩をお忘れでないとは、まこと仁君であられる」
「殿下の受封、当然のことですな」
前の広間の喜びは、再びふくらんでいく。
「陛下は仁厚にして旧恩を忘れぬ御方。臣、感激に堪えません」
陸炎は聖旨を両手で受け取りながら、余光で許遠を見た。
口元には、ごく薄い笑みが浮かんでいる。
許遠も笑みを崩さなかった。
「陛下は旨の中でも仰せになりました。久しく殿下に会っておらず、かつての君臣の誼を深く思っておられる、と」
「殿下はすでに王爵をお受けになりました」
「我が朝の礼制に従えば、できるだけ早く唐京へ入り、陛下に拝謁して謝恩なさるのがよろしいかと」
「この許遠は今回、陛下に代わり寿を祝い、旨を伝えるために参りましたが、殿下の入京の礼も手配できます」
「殿下さえよろしければ、私は北境で数日お待ちし、殿下とともに唐京へ戻りましょう」
陸炎は聖旨をそばの管事役へ渡し、笑みを浮かべた。
「陛下の天恩である。私は当然、ただちに唐京へ向かい、面聖して謝恩しよう」
その言葉に、許遠は満足げに頷いた。
広間の空気は、まだ王爵授与の喜びに包まれていた。
客たちはまた、笑って次々に祝辞を述べる。
「靖北王殿下の受封、実に当然のこと!」
「靖北王殿下が辺を鎮め、国を守られるのは、大胤の幸いです!」
「今日の寿酒は、例年より三分は重みが増しましたな!」
祝いの声が、広間のあちこちで重なった。
その中で、ひとりの客が杯を掲げ、声を張る。
「陸将軍、まことにおめでとうございます!」
その瞬間。
許遠の笑みが、ほんのわずかに止まった。
驚きではない。
ごく小さな礼の乱れを聞き取ったような、そんな間だった。
広間の客たちは、まだ王爵授与の喜びの中にいて、気づいた者はほとんどいない。
陸家軍の将たちも、不自然とは思わなかった。
彼らは陸炎を「将軍」と呼び慣れている。
陸炎自身もまた、その呼ばれ方に慣れきっていた。
だが許遠は礼部侍郎である。
今日、旨を奉じて来た者として、最もよく分かっているのは礼だった。
許遠は笑みを保ったまま、静かにその客へ目を向ける。
「恐れながら」
広間の声が、すっと低くなった。
許遠は穏やかな声で続ける。
「すでに恩旨は下り、王爵は定まりました。これより公式の場では、『将軍』ではなく——」
許遠は陸炎へ向き直り、丁寧に拳を合わせた。
「靖北王殿下、とお呼びするのが礼でございます」
一瞬、広間が静まった。
陸炎は許遠を見る。
しばらくして、低く呟いた。
「……殿下、か」
その二文字は、まだ舌に馴染まない。
陸炎は長く「将軍」として生きてきた。
王爵は、他人にとっては天にも届く栄誉だろう。
だが陸炎にとっては、今しがた肩に掛けられた新しい袍のようなものだった。
華やかだ。
だが、動きにくい。
しばらくして、陸炎は顔を上げた。
「許遠侍郎は礼を司る者。よい忠告だ」
許遠は拳を合わせる。
「恐れ入ります」
その小さなやり取りは、すぐに広間の祝いの空気に飲み込まれた。
陸炎は満堂の祝い声を聞きながら、顔に薄い笑みを浮かべていた。
そして、ふいに話の向きを変える。
「ただ、あいにく家中にまだ片づけねばならぬことがある。近日中の出立は難しい」
許遠の目が、かすかに動いた。
「ほう」
許遠は、なおも笑みを浮かべている。
「殿下の御屋敷に、まだどのような御用が?」
陸炎は言った。
「娘の婚儀だ」




