四十一話 冷蔵庫Ⅰ
「……ん? 砂糖が焦げる匂い? あの甘味スキーども、まだ食べ足りないのか?」
阿鼻叫喚の甘味フェスティバルが開催された、翌日。
夏の日差しが容赦なく降り注ぐ庭の木陰で、某動物王国の王様よろしくクロを愛でていた俺は、台所から漂ってきた香ばしい匂いに鼻を鳴らした。
女性陣がまた何か作っているのだと思ったが、母さんは溜まった仕事を片付けると言って執務室に籠ったし、アリシア姉は学校だ。エルは一階の廊下を拭き、フィーネは二階の窓を掃除する姿が、ここからでもはっきりと見えている。
男性陣は甘味を少し食べて満足していたようだし、隠れて作るにしてもこんな強烈な匂いを漂わせていたら、すぐに女性陣にバレて吊るし上げられる。そんな命知らずな真似をするやつはオルブライト家にはいない。
「一体誰が……?」
気になった俺は、クロの極上な毛並みから顔を上げ、台所へと足を進めた。
勝手口から足音を殺して覗き込むと、そこに立っていたのは意外な人物――ユキだった。
「おやおやルークさん、どうしました~?」
「誰が何を作ってるか気になってな」
「フッフッフ~。正解は、私がクッキーを作ってたんですよ~。さっきエリーナさんが『書類仕事で頭を使うと甘いものが恋しくなるわねぇ』と呟いていたので。できる女はお願いされる前にやるんです~。ほら、この服もちゃんとお仕事モードということで着替えたんですよ~」
そう言ってふふんと胸を張る彼女は、たしかに珍しいことにフリル付きのメイド服を着用している。
職務中以外は制服を着ないというのは正しいことのはずなのに、何故か彼女がやると気まぐれにしか見えない。普段の行いのせいだろう。そもそも私生活で着ていることもあれば、逆に頼まれごとをされても私服のままの時もあるのだから。
「へえ、ユキがクッキーねぇ。焦がさずに焼けてるのか?」
昨日、俺の指導の下であの場にいた人間のほとんどがクッキーやポップコーンを作ったが、ユキとフィーネは全体のサポートに回っていたため、直接手は出していなかったはずだ。
ちゃんと作れているか不安になり、俺は竈の中を覗き込んだ。
「失礼ですね~。私が精霊の調整を失敗するわけないじゃないですか~」
心外だと言わんばかりに唇を尖らせながら、ユキは熱々の竈の鉄扉を、あろうことか素手で平然と開けた。
じゅう、と皮の焦げる音すらしないあたり、魔力で熱を遮断しているのだろうが――。
「それ、大丈夫とわかってても心臓に悪いんだよ。厚手のミトンぐらいつけてくれ」
「善処しま~す。それよりどうです? 完璧でしょ?」
やる気のない返事とともに突き出された鉄板の上には、ふっくらと綺麗な狐色に焼き上がった一口サイズのクッキーが美しく並んでいた。バターの濃厚な香りとキャラメリゼされた砂糖の香ばしさが重なり合い、見た目も香りも完璧な出来栄えである。
「……ちょっと待て。さっき仕事中の母さんが食べたがったって言ったよな? つまり朝から仕込んでたわけじゃなくて、さっき作り始めたんだよな?」
「そうですね~。二十分ぐらい前ですかね~」
「……時間、足りなくね?」
クッキー生地というのは、サクサクの食感を出すために、バターと小麦粉を混ぜた後で冷蔵庫などで小一時間ほど冷やし固めてる工程が不可欠だ。二十分やそこらで完成なんてできるわけがない。
「フッフッフ~。私ぐらいになると、超低温を作り出して一瞬で生地の成分を整えて固めるなんて、朝飯前なんですよ~」
「へー、凄いな。なんで昨日はやらなかったんだ? それさえあれば俺の負担も激減したのに」
「実はやろうとしたんですけど、フィーネさんに怒られちゃいまして~」
「お前、どんなロクでもない方法使おうとしやがった!?」
あのフィーネが怒るなんて相応の理由があるはずだ。しかも俺の役に立つのに止めたとなれば、絶対とんでもない方法に決まっている。
「これまた失礼ですね~。私はただ、竈の熱を冷気に変換しようとしただけですよ~。その方が効率良く冷やせますし、冷気の勢いを局所的に高めれば火なんて使わなくても焼けるんです~」
「ほう!」
思わず身を乗り出して感心してしまった。
熱ではなく超高圧の冷気で組織を急凍凝固させつつ表面を均一に焼き固める――前世の最新調理器具でもお目にかかれないような、ロマン溢れる精霊術の応用ではないか。
「なんだ、めちゃくちゃ画期的じゃないか。問題なんてなさそうに見えるけどな」
「ですよね~? 熱を奪ったせいでクッキーが焼けなくなる問題も解決してますし、その反動でこの屋敷全体の気温が真冬並みに下がるのもむしろ喜ばれますよね~? しかも半年間ずーっと下がり続けて、冬には家の中のどこにいても氷点下なんですよ~?」
「止められるに決まってんだろ!!」
何考えてんだ、この精霊。
たかだかクッキー生地を冷やすという数十分の時間短縮の代償に、屋敷一つを永久凍土のダンジョンに変えようとしていたのか。そりゃあフィーネだって全力で阻止しますわ。
「だって私、雪の精霊ですし~。火なんて野蛮なものは、美しき氷の前に屈すればいいんです~」
「とか言いながらばっちり竈で火を焚いてる……って、まさか今焼いてるそのクッキー、その方法使ってないだろうな!?」
「大丈夫ですよ~。自然の力を借りずに自前の魔力でやってますから~」
「それができるなら最初からそうしろよ……」
と、ツッコもうかと思ったが、ユキの動機が『効率』ではなく『火を消し去りたい』なら、何を言っても無駄だと悟り言葉を飲み込んだ。こいつはこういうやつだ。
――だが、俺の頭の中で、とある魔道具の構造が完成していた。
熱を奪って冷気を作る。
大規模にやれば屋敷を凍らせる惨事になるが、局所的な変換と魔力の制御さえできれば……これこそ俺がずっと欲しかった『魔導冷蔵庫』の冷却エンジンの完成形じゃないか?
実は以前、台所の隅に置かれた氷漬けの冷却棚を彼女が作った時にも同じことを考えた。
だがあれは、ユキが常時魔力を流し込んでい維持されている据え置き型の魔術に過ぎず、魔道具として一般化・工業化できるものではなかった。
しかしこれは違う。
加熱鉄板を応用して、発生した熱をただ外部に捨てるのではなく、空間の熱そのものを強制的に吸い上げて冷気へと反転させる仕組みが回路として確立できれば、魔石一つで空間そのものをキンキンに冷やし続けることができる。
「……なあユキ。熱を冷気に変換するのって難しいのか? 小さな箱の中だけに限定して使うことってできないのか?」
「簡単ですよ~。流れを固定して、逆流させるんです~。もしかして冷却魔道具でも作るんですか~?」
「ああ。実はな――」
俺は、地球に存在していた冷蔵庫という魔法のような家電製品の存在と、それがもたらす凄まじい生活革命について語った。
夏場でも肉や魚が腐らず長期間保存できること。キンキンに冷えた飲み物やアイスなどの冷製デザートがいつでも楽しめること。そして何より、これがあれば今後の我が家の食生活と、さらなる新メニューの開発効率が劇的に跳ね上がるということ。
「ほむほむ、なるほどです~。たしかにルークさん一人だけで作るより、国の料理人全員で作った方がいろんな新しいお菓子が生まれそうですね~」
「だろ? 問題は安全性と値段だ」
「それならご心配なく~。屋敷が凍るなんて言いましたけど、あれはクッキーを冷気で焼くぐらいの高火力を出した時だけで、ただ変換させるだけなら何の影響も出ませんよ~」
「本当か!?」
興奮のあまり、気がつくと俺はユキの華奢な両肩をガシッと掴み、目と目が触れ合いそうな距離まで詰め寄っていた。
「うわぁ、ルークさん顔が近いです~」
ユキは突然の接近にもまったく嫌がる様子を見せず、むしろ期待に目を輝かせながらケラケラと楽しそうに笑う。
「それに、そういう世界を根底からひっくり返すようなを面白い遊びは大大大好物なので、喜んで協力しますよ~」
「お、おう、助かるよ……」
頼もしいのか危険なのか判断に困るところだが、魔道具開発に限って言えば俺がやり過ぎなければいいだけの話。主導権を渡さなければ問題ないだろう。
……たぶん。
焼き上がったサクサクのクッキーを皿に盛り、執務室で書類の山と戦っていた母さんに届けた俺達は、再び台所へと戻ってきていた。
甘いクッキーと温かい紅茶に感涙して抱き着いてきた母さんの姿を思い出しながら、俺は調理台の上に羊皮紙とインク瓶を広げ、羽ペンを握りしめる。
「それで? さっき言ってた『流れを固定して、逆流させる』って、具体的にはどうやるんだ?」
「基本はとってもシンプルですよ~。熱っていうのは放っておくと拡散して周囲と交ざり合おうとしますけど、それを封じて、出口と入口を固定するんです~」
「それって物理的に? それとも魔術的に?」
「どちらでも~」
俺は目の前にある頑丈な石造りの竈に視線を向けた。
煙突への排気や熱対流の循環といった竈内部の空気の流れ、そして熱を外に逃がさない厚いレンガの壁。物理的な制御というなら、まさにこの構造そのものだ。
だが、当然ながらこのまま火を焚けば熱くなるだけで、冷気なんて生まれるはずがない。つまり、この器の中で何か決定的な現象を起こす必要があるわけだ。
思案する俺を見て、ユキは人差し指をチチチと左右に振った。
「それだと七十点ですね~。たしかに竈の構造は使うんですけど、肝心な部分が違いますし、根本的な部分の知識も足りてません~」
「根本的な知識?」
「この世界は全部巡ってるんです~。木が燃えて火になり、火が肺になって土に戻り、土から金属が生まれ、金属の表面に凝結で水が生じて、水が流れて木を育てる」
ユキが羽ペンを奪い取り、羊皮紙の上にサラサラと【木・火・土・金・水】の文字と丸い円を描く。さらにその外周へ、綺麗に右回りの矢印を描き足した。
「五行相生か」
「おっ、知ってるんですね~」
当然だ。
それは日本における中二病の必修科目。男児たるもの、西洋の四大元素や神話体系はもちろん、東洋哲学の陰陽五行説にまで精通しているのは嗜みというものだ。
「じゃあ負の循環もわかります~?」
「ああ、五行相剋だろ」
俺はユキから羽ペンを奪い返し、彼女が描いた円の内側に、五芒星の線を迷いなく書き加える。一つ飛ばしで繋がる、お互いを打ち滅ぼし殺し合う陰の関係性だ。
「木は土地を痩せさせ、土は水を吸い、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属製の斧や鋸は木を傷つける」
「正解です~。普通はこの相生と相剋の流れに従って力が移動するんですけど~」
ユキは満足げに頷くと、さらに逆向きの矢印を追加した。
「こっちに回したらどうなると思います~?」
「相生の逆ってことは五行比和が過剰になった負の方だろ? なら木は水を枯渇させ、水は金属を錆びさせ、金属は土を貧弱にし、土は火を窒息させ、火は木を燃やす」
「それだけですか~?」
「あ~、火力が強過ぎて水を蒸発させるみたいなやつがもっとあるんだけど……なんだっけな。忘れたわ。相剋の逆だろ」
「ぶっぶー、違いまーす。ルークさんのは負の循環。私が言ってるのは押し勝つんじゃなくて取り込む――すなわち正の逆回転です~」
こうしたらわかりやすいですかね、とユキは矢印を取っ払った。
残ったのは各属性を繋ぐ線のみ。
これがどうなるか、か。
「正の循環をしたら現象が生まれるんだから……現象が消える? いや、それは負の循環か。生まれるの反対……ってなんだ?」
「難しく考える必要はありませんよ~」
「んじゃあ、正の循環と同じことが起きるでファイナルアンサー! さっき取り込むって言ってたし!」
「正解は~……ドゥルルルルルル……」
ユキは両手で太鼓を叩く真似をしながら、やたら長いドラムロールを始めた。
「おい」
「ドゥルルルルルルルルル……」
「さっさと答え言えよ」
「ドルルルルルルルルルルルルル……マル~!」
数十秒に及ぶ長い長いドラムロールが終わり、ユキは両手を頭の上で大きく掲げて丸を作った。
「火が持っている『熱』という現象を水属性の領域に取り込むと、火は弱まり、水は冷たくなるんです~」
「いや待て、熱を取り込んだら普通は水が温まるだろ」
「そこも反転するんですよ~。『温める力』そのものが『冷やす力』に位相変換されるんです~」
「や、やりたい放題だな……」
「そうでもないですよ~。無からは生まれませんし、消えたものは戻りませんから~。あくまで存在している力の向きを変えるだけなので~」
だとしても物理法則の大半を無視できる。しかも効率良く。
人間が手に入れていい知識なのか一瞬悩んだものの、使い方は俺次第だし、危なそうなら途中で止めればいいかと前向きに考えることにして核心に迫った。
「で、それと竈の構造とどう繋がるんだ?」
「竈だと熱は上の煙突か、薪をくべる正面に向かうでしょ~?」
「ああ」
「そのまま何もしないと勝手に拡散や循環しちゃうので、片方閉じて出口を一つに絞るんです~。そうすると、熱の流れは強制的にそこへ集中するので、あとはそこに逆向きの流れをぶつけるんです~」
「……え? それだけ? ぶつけるのは特別な力とかじゃなくて?」
「はい~」
竈で火を起こして、出口を一つにして、外に出ようとする熱を押し戻せば冷やせる。
簡単すぎて逆に怖い。
「熱の冷却だけは特別なので~」
「ほーん、なんで?」
ユキはにこっと、これ以上ないほど不敵に笑った。
「当代の精霊王が雪属性だからです~」
「…………は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「お前、精霊王だったの!?」




