その9
一乗谷
越前朝倉氏が築いたその城下町は南北およそ十六町(1.7km)を木戸で区切り、計画的に整備された道路を中心にその周囲には武家屋敷や寺院、町家などが立ち並ぶ、当時としては他に類を見ないもので、繁栄を誇るその様子はまさに北の京との呼び名に相応しいものだった。
その一乗谷の奥、東に居城を背負った位置にこの地の主、朝倉弾正左衛門尉孝景の館があった
朝倉孝景は越前朝倉氏第十代当主で母親は美濃斎藤氏の妙純利国の娘、この利国は応仁の乱で美濃土岐氏の主力を務めた斎藤妙椿の養子にあたり、利国の孫の利良の死後にその名跡を継いで斎藤氏を名乗ったのが山城守利政こと斎藤道三となる
また、孝景の妹は美濃守護職を土岐頼芸と争った兄・頼武の妻で、二人の間の子、頼純は美濃を追われ此処、越前の国へと逃れていた
この様に越前朝倉氏は美濃と幾重もの縁を結んでおり、今までにも何度も美濃の内紛へと介入してきていた。
今、孝景は館の一室で書状を眺めている
その表情が難しいものから含み笑いへと変わると、彼は側近の者を呼び寄せた。
「宗滴翁を呼んで参れ」
「お呼びですかな御屋形様」
「斯様な時分に呼び立てて申し訳無い、宗滴翁」
「なんの、……翁は止してくだされ、某はまた若い者には負けませぬぞ」
どっかと孝景の前へと座ればそう苦笑いを浮かべる。
朝倉宗滴入道、太郎左衛門尉教景
これまで氏景、貞景、孝景の三代に仕え、当年六十八才ながら戦場では無敗を通す、朝倉家の生きた伝説とも言うべき人物だった。
その影響力は軍事はもとより外交にも及んで他国の名士とも親交がある
幼少より跡取り同然に育てられ、若い時には朝倉家当主への野心を持った時期もあったと言われるが、先代貞景の代に二十七才で出家、妻の兄・朝倉景豊の謀反を訴え未然に防いでよりは主家に忠節を尽くし、その三年後には一万の兵で三十倍とも言われる加賀一向一揆を完膚無きまでに打ちのめした。
また若狭・丹後に出陣しては逸見氏や延永氏を討伐、近江の小谷城へと出向き五ヶ月に渡って浅井氏を牽制、浅井と六角氏の調停を行ったかと思えば、その二年後には足利将軍家と管領・細川家の要請を受け上洛、三好勢を撃破するなど朝倉家の柱石としてまさに八面六臂の活躍を見せた
甥に当たる先の主君、貞景の子景紀を養子とすると長年務めた敦賀郡司の職を譲り渡したが、今でも家中に絶大な影響力を持っている。
「して、どの様な用件にて某を?」
そう訊ねる宗滴へと、手にした書状を差し出す
失礼、と一言応え受けとるとざっと目を通した宗滴がほほう、と一言漏らしニヤリと笑みを浮かべる。
「三河守が美濃へ討ち入る、と……」
「うむ、それについて我等にも力を貸せと申しておる」
「それは構いませぬが……、守護職についてはどうされます?」
「現職は頼芸ゆえそこはやむを得まい」
「では、次郎殿が事は如何致される御所存で?」
「さて、それよ……」そう言って腕組みをする。
この場合の三河守とは、尾張守護代織田大和守の奉行衆である織田信秀の事になる
そして次郎と呼ばれた人物は孝景の妹と土岐頼武の間の子、頼純の事である。
「頼芸を守護と認める代わりに次郎を養子として次の守護に着ける事を援軍の条件とするつもりよ、幸いと言うべきか、頼芸は先年に嫡男頼栄を廃嫡しておるゆえ呑めぬ条件でもあるまい」
土岐頼芸の嫡男頼栄は以前より胆も座り将来を嘱望されていたが、斎藤山城守の讒言により遠ざけられ廃嫡されたとの噂だった
今は一色姓を名乗り伯父の揖斐光親の庇護を受けているという。
「ふうむ……、ですがこの先子供が出来ぬと決まったわけでもありませぬし、そもそも廃嫡した息子でも争いあった兄の子よりはまだましと考えませぬか?」
「なに、この話、進めるのは美濃国主の地位を回復した後で良いと言うてやる」
「……なるほど、それなら承知致しましょう」
土岐頼芸にとっては空証文で越前の協力を得ることができる
国主の地位さえ回復してしまえば尾張の後ろ楯と国内の美濃衆の力を背景に約束を反故に出来ると考えさせればよい、というところだろう
もちろん朝倉家としてはその目論見をみすみす見逃すつもりはない。
「つまりは土岐頼芸を守護に戻した後、どちらにより余力があるかと言うことよ」
「稲葉山までの距離は尾張からの方が近うござるゆえ、主力は織田勢に任せましょう」
孝景の言葉にそう応じると、宗滴はまるでそこに精密な地図があるかのように板間を扇で指し示す
「北より討ち入る我等は山越えに揖斐へ抜けましょう、彼の地の揖斐光親は反利政の有力者の一人ゆえたいして抗いますまい、そのまま赤坂を押さえ六角との連絡を絶ちつつ尾張勢の出方に合わせればよいかと」
そう言うと手にした扇を床に突き立てる
そこは見えない地図では稲葉山を位置していた。
「此度の戦の手柄は尾張にくれてやっても宜しい、三河守は得たばかりの西三河を放り出してまで美濃に深入りは出来ますまいし、また今川がさせますまい」
「加賀の一向衆が多少騒いでおるが、景高の件もほぼ片が付いた我等の方が余力はあろう」
「仰せの通り」
景高というのは孝景の弟、朝倉景高の事で去る天文九年、京へと登り公家衆や幕府の要人へと孝景排斥の動きを画策したが、失敗に終わり若狭武田氏の元に匿われていた
その景高が去年若狭を追われ西国へと逃亡したという
なおこの景高の子で大野郡司を継ぎ、後に主君朝倉義景を騙し討ちにして織田信長へと降伏することとなったのが朝倉景鏡である。
「では宗滴翁、美濃討ち入りの件お任せして宜しいな?」
その言葉にニヤリと笑って頷くと宗滴は立ち上がる
その動きは七十を前にした老人の姿にはとても見えなかった。
土岐頼芸の次男頼次ですが、天文十一年に斎藤道三によって父と共に美濃を追われた、あるいは父は残り頼次だけが美濃を追われたといった記述が多いのですが、何故か生年は揃って天文十四年と書かれています
ですので本作では(シナリオ進行上の都合という理由も大きいですが)生年にならい天文十三年当時にはまだ産まれていないという設定となっています




