誘惑
「いかにも。私の事は赫食いと呼んでくれると嬉しい。ところで、貴様が持っている物は何だ?」
「ああ、これ? 拾ったんだよ。あなたの屋敷で。もしかして……そんなに大切な物なの?」
赫食いに首を絞められている私が見た秋空君は肝が据わっているようだった。最早クラウドである赤い男の足元で這いつくばっている私を見ても、秋空君の言葉は変わらない。怯える様子もなく、堂々としている。
きっと彼にとって、ここが正念場なのだろう。無事に元の世界に帰れるか、それともクラウドになるか、もしくは彼らの餌になるか、赫食いとの交渉で未来が変わることを予見しているのかもしれない。
「……それがどういう物か知っているのか?」
沸々と湧き上がる赫食いの怒気。それに鼓舞されるように赫食いの肉体もより一層膨らんだ。
秋空君はそれを見ながらも涼しい顔で階段を降りて行く。クラウドである赫食いに近づくことに最早何の恐怖も抱いていなかった。私も隙を見つけて逃げ出そうとするけれど、赫食いに強い力で踏まれてどうすることも出来なかった。
「知っているよ。これが君たちの言う〝聖杯〟だろう? 君たちをそんな姿にした赤い液体を無限に生み出し、この世界を異界に変えるオレンジの霧を出す。元は何か生物の骨だったかな? 二階にあった本に全て書かれていたんだ――」
秋空君は階段を降りながら、杯を覗き込んだ。きっと私が読んだ本の通りなら赤い液体が生まれているのだと思う。それを秋空君は何の感動もなく、下に向けて階段に赤い液体をこぼしながら降りる。階段に落ちた赤い液体は最初黒いシミとなるが、やがて煙のようにオレンジの霧を少しずつ発生させる。それが彼の持っている杯が、聖杯という証明となり、ますます赫食いの顔を複雑に歪ませていた。
そして秋空君は階段を降りきった。赫食いとの距離は遠い。何故なら彼は玄関の近くに立っており、それに相対するように階段の前で立っていたからだ。
「それは……貴様が思っているほど簡単な代物ではないのだぞ?」
「知っているよ。知っていて、こうやって持ってきたんだ」
「……なら、何も言わないが、それは早く私に渡したほうがいいぞ。それは貴様の手に余るものなのだ。それは素晴らしいものであると同時に、恐ろしいものなのだ。人の欲望を増長させ、際限がやがて無くなる。そのような者を私はこれまでにたくさん見てきた」
赫食いはゆっくりと諭すように語っていた。
彼は理性的であった。例え秋空君が薄汚い少年であっても敬意を払い、杯の雫を零すという暴挙に出ても決して怒り狂うことはなく、また暴力的に聖杯を奪うようなことはしない。あくまで彼の自由意志に任せて杯を渡してもらうつもりだったのだろう。
「いいよ。別に。僕は元々杯には興味がないからね。ただ一つ条件がある――」
秋空君は赫食いの提案に頷いた。彼はここに聖杯を探しに来たわけではないから、その発言も納得できた。
「ほう――」
赫食いはそんな言葉に笑みを浮かべる。
「駄目よ! それを渡しては! それは――」
だけどどうしても聖杯が欲しい私が秋空君を止めようとするけど、それよりも前に赫食いが私を軽く蹴って退かしたのでそれ以上何も言えなかった。私は地面に這いつくばる。
「いいだろう。貴様――いや、君のように勇気ある若者には敬意を評したい。そもそも、この屋敷に辿り着いたものは少なからずいるが、君のように真実を知った者は数少ない。私の下に転がっている彼女もそうであるが、彼女は私を脅し、聖杯を奪い取ろうとした愚かな人間だ。彼女は聖杯という物に囚われすぎている」
赫食いは柔らかな笑みで言う。
「へえ――」
「それに私が見た中で、オレンジの霧に囲まれてから私の聖杯を手にしたのは君が初めてだ。それも私が授けたのではなく、自らの手でそれを手に入れた。数多のクラウドに喰われずに屋敷までたどり着き、私に見つからずに二階に入り、また本を読んで真実を知り、部屋の仕掛けに気づいて聖杯と赤い液体を手に入れた若者は本当に君だけなのだよ。それに君は聖杯に興味を持たず、見るだけで普通の人は心を奪われるというのに、君はその誘惑にも打ち勝った。見たまえ。彼女は聖杯に目が縛られている」赫食いの言うとおり、確かに私は一心不乱に聖杯を見つめていた。目を離す様子はなく、聖杯を羨望しているのだ。これが赫食いの言う魅力なのだろうか、と私は思うが、目は離せない。「私は君のことを素晴らしい少年だと思う。是非とも君の名前を教えてくれるかな。君のように勇者の名前を知りたい――」
赫食いは拍手をして秋空君のことを褒め称えていた。最早、先程赤い液体を無駄にした菊花に怒りはないみたいだ。むしろ赤い液体を粗末に扱えることが、彼が聖杯の欲望に打ち勝った一人だと言うことに気づき、むしろ興味が強くなったのかもしれない。
「……僕の名前は、秋空久羽人だ」
「なら、秋空くん、君の望みを――」
赫食いがそこまで言いかけた所で、屋敷が大きく揺れた。壁に手が刺さったのだ。それは赤い腕であった。ばきばきと音を立てながら壁に大きな穴を開けて屋敷に入る。右腕が大きく発達したクラウドだった。さらに玄関からも一体のクラウドが入り、また別の壁からも全身が赤く染まったクラウドが入ってきた。
彼ら三体のクラウドは皆が、秋空君を見つめていた。また人である彼自身ではなく、無限に赤い液体を生み出す彼が持つ杯を見つめていたのだ。またその中でも一体のクラウドは彼のもつ瓶もちらちらと見ている。どうやら杯の雫が得られるのなら、杯でも、瓶でもいいみたいだ。
「クラウドね――」
秋空君は最早彼らにも恐れはなかった。涼しげに見ている。たとえ彼らが自分を狙っているにしても。
「待て――」
そんな三体のクラウドを止めたのは赫食いであった。片手で制すると、三体のクラウドは蛇に睨まれたように動かなくなった。彼らは三体とも三メートルを超えるような巨漢であり、赫食いのほうが小さいのだが、どうやら力関係は赫食いのほうが上のようだ。やはり、杯の持ち主の叡智に触れたことがその違いだろうか、と私は思う。
「彼らは?」
秋空君は突如として現れた三体のクラウドが気がかりであった。
「おそらく、君が私の部屋から持ち出した杯に引き寄せられてきたのだろう。彼らは欲望の奴隷だ。特に杯、並びに杯の雫に心を囚われている。君は知らないようだが、あの部屋にはクラウド避けの印が施されてあってね、それから出たので彼らはその杯を欲してここまで急いできたのだろう。さあ、君の願いを早く言うがよい。私が彼らを縛るのは一定の時間しか無理なんだ。もしもそのリミットを超えれば、彼らは問答無用で君にその牙を向くぞ――」
赫食いは寛容な気持ちで言った。
「なら、杯は大人しく返すから――僕をこの世界から返してくれ」
秋空君はこの世界に来てからずっと願っていただろうことを言うが、どうにも赫食いの反応は良くなかった。
赫食いは渋い顔をしながら、申し訳なさそうな顔をする。
「……君は、どこまで本を読んだのだ。いや、見ていないことを前提に話そう。君がこの世界から出るのには、条件がある。その杯の雫を飲むのだ」
「いや、僕はこれを飲まずに、この世界から出たいんだけど――」
「……残念ながらそれは難しい。そもそも、この世界は私が作ったものではない。『ムクテュ――様』のご意思によるものだ。『ムクテュ――様』は、自分の眷属、それも限りなく『ムクテュ――様』に近い者しかこの世界から出さない。今のところ、この世界でそんな存在は私だけだが、片峰くん、君にはおそらくその資格がある。杯を手に入れ、現在それを手にしている君には。さあ、飲むがいい。共に素晴らしい存在になろうではないか――」
「本当に無いの? ここから逃げる方法は? これを持ったとしても、駄目なの?」
「……無理だろうな。そもそも、杯を持って、ここからどうやって逃げると言うのかね?」
赫食いは諦めたように言う秋空君を嗤いながら言った。
その間にも三体のクラウドは彼に近づこうとしている。まだ赫食いの戒めが解けていないのだが、肩や膝などがぴくりと動き、今にも動き出しそうだ。彼らが秋空君を襲うのは時間の問題だった。
「……秋空くん、早くそれを持ってここから逃げましょう! それを渡しては絶対に駄目。彼らの手にあってはならない物だわ。それはアマシ様ではなかったようだけど、似たような物よ。私はそれを持って帰るわ。だから、一緒に逃げましょう。きっとこの世界から逃げ出す方法はあるはず――」
だから私は片膝をついて何とか立ち上がって、声を出した。
回復力は私の専売特許だ。私の〝血〟がなせることだ。私がアマシ様の血を飲んでいるからできることだった。
「おや、もう立ち上がったのかね。流石に君はタフだな。私達と同じように――ただ、もしも君が彼から杯を奪う気なら、私は全力で邪魔をさせてもらうぞ」
赫食いが私に向けて言った。
私はそんな赫食いに舌打ちをするけど、そこから動けなかった。確かに満足に動けるようになったけど、赫食いとの彼我の差は実感している。
彼と真正面から争う気は起きなかった。そもそも先程負けたのだ。さらに手に日本刀はない。遠く離れた地面に落ちている、そんな状態で赫食い、それに三体もいるクラウドを相手にするほど私は無謀ではなかった。
「さあ、秋空君、その杯の滴を飲みたまえ。それで君は、この世界から出られるのだよ。その第一歩がそれを飲むことだ――」
「じゃあ、もう一つ、聞いてもいいかな――」
秋空君は淡々と言った。
「何だね、私は出来るだけ君の質問には紳士的に答えたいと思っている。何故なら君は――私達と同じ存在になるのだから」
「なら、一つ。僕がこの杯の滴を飲んだとして、すぐにあなたと同じ存在になれるの?」
「……残念ながらそれは無理だろう。何故なら私と君ではおそらく、飲む量が違うだろうからな。基本的にクラウドの力関係は、杯の雫を飲む量だ。だが、私は君に協力しようと思う。この場で飲めば、可能な限り君に杯の雫を、この世界にいるどんな者よりも優先して君に与えるとしよう。それにおそらく、君は彼らのような理性がない怪物にはならない。私と同じような、自分の意志をしかともった新しい人間になれるはずだ――」
赫食いは秋空君を誘う。
それは彼なりに最大限譲歩しているつもりなのだろう。彼が与えられる最大の物を、彼は提供しようとしている。おそらく彼の言うとおりにすれば、おそらくは彼の後ろにつき、偉大な銀河の支配者の眷属として彼の次のクラウドとしてこの世界に秋空君は君臨するのだろう。そして何かのきっかけさえあれば、外の世界を自由に闊歩できる存在にもなれるのだろう。
「秋空くん、駄目よ。それを持って私と一緒に逃げましょう。そして私の村に――国城村に持ち帰るの。きっとあなたは聖杯を持ち帰った英雄として、私の村でもてはやされるわ。もちろん、私も、あなたに精一杯尽くすわ。だから、私と一緒に――」
私は全力で秋空君を誘った。
村で覚えてものだ。
きっと今の表情は頬が赤くなっており、そんなこれまで見たどんな女性よりも華やかで美しく、それでいて少女のように朗らかな笑みで魅力的だと知っている。
普通の男ならこれで言う事を聞いてくれるのだろうが、もっと魅力的なものを持っている秋空君がどんな行動に移すかは私には分からなかった
「いぃうぅ」
三体のクラウドは既に赫食いの拘束から逃れていた。
秋空君にむかってゆっくりと足を伸ばす。彼らの動きはまだ怠慢であるが、このままどちらも選ばないでいると、きっと待っているのはクラウドの餌なのだろう。
「さあ、秋空くん、私達と同じ存在に――」
「ねえ、秋空くん、帰りましょう――」
「いぃうぅ」
赫食い、私、クラウドの三人が秋空君に向けて声を出した。




