赤喰い
凛子と赫食い、お互いに睨み合ったまま暫く動かないでいたが、最初に動いたのは凛子であった。一気に赫食いへと距離を詰めた。凛子は赫食いを注意深く見たところ、彼の特徴は何よりもその大きさだと思った。二メートルを超える巨漢。それは明らかに凛子よりも高く、大木のようだと評するしかなかった。だから首や頭、これまでの鈍いクラウドならまだしも、目の前の者はクラウドの中でも聡明であると同時に、先程の攻防から素早いことも分かった。それ故に、弱点が下半身だと考えたのだ。
凛子は体勢を低くする。狙いは脛であった。まずは相手の機動力を潰し、それから首を取ることを選んだ。また脛だと簡単には死なない。言うかどうかは分からないが、凛子は赫食いから聖杯の在り処も聞かないといかなかった。
凛子は顔が床につくすれすれまで体勢を低くして、横薙ぎに日本刀を振るうが、一歩下がられて簡単に避けられる。またその際の凛子は隙が多く、赫食いは地面にへばりついている彼女を踏みつけようとするが、転がるようにして避けられる。そして追撃として赫食いは近くに落ちてあった先程のテーブルの残骸、木の角材を凛子に向かって投げた。凛子は日本刀でそれを防ぎつつ立ち上がり、もう一度正眼に構えた。
赫食いは嗤っていた。凛子に対して、大きく嗤いながらのそのそと大股を広げながらわざと隙きを作るように近づく。凛子は卓越した技術で赫食いの正面から陽炎のように姿を消し、側面に回って跳ね上げるように剣を振るう。咄嗟に出た赫食いの左腕にはやはり傷一つつかない。ジャケットがやはり破れるだけだ。そもそも赫食いの左腕もぴくりとも動かない。凛子の人を超える靭やかな筋力と、全身のバネを使った刃は、赫食いにはまだ軽かった。もう一度凛子は力を入れるが、やはり刃は一ミリも赫食いを傷つける様子はない。
むしろ赫食いが左腕に力を込めて、日本刀ごと凛子を押し潰そうとした。凛子は刃で逸らすように赫食いの力をそらし、体を逃がす。そのまま目の前にあった机の残骸に足をかけて、天井に向かって大きく飛んだ。狙うは赫食いの頭上。斬撃が駄目なら刺突だと。それも剣を両手で逆手に持ち、しっかりと体重をかけながら刃先を赫食いに突き刺そうとする。刃先は弾かれた。またそれによって凛子に気付いた赫食いは、大雑把に右腕で凛子を払う。空中にいた凛子がそれを避けられるはずもなく、まともに当たって壁まで吹き飛ばされた。凛子は鈍い音を立てながら壁に当たって、地面に落ちる。運良く足から落ちたらしいが、すぐには起き上がる様子はなかった。
「死んだのか――?」
赫食いが首を傾げた。
「……残念ながらまだよ」
凛子は涼し気な様子で立ち上がった。怪我も特にはしていないようで、体がふらついている様子もない。先ほどと同じように日本刀を正眼に構える。だからと言って、先程のようにすぐに赫食いに向かおうとは思わなかった。弱点はどこだ。どうやったら勝てる。そんな事を考えながら凛子は赫食いを見渡す。
「動かないのか? なら、私から行こうか――」
赫食いは大きな体をゆっくりと動かして凛子に向かって走る。そのまま大きく右腕を振りかぶった。大振りの拳であった。テレフォンパンチであった。剣術を修めている凛子に避けられないはずがなく、くぐるようにして避けて、赫食いの背中へと回った。無駄だと思いつつも、赫食いの背中へと袈裟斬りをする。効果はない。またしても背中のジャケットが綺麗に破けて、その下の赤い皮膚が見えるだけだ。
その間にも赫食いの動きは止まらなかった。そもそも赫食いはテレフォンパンチを途中で止めるすべを知らなかったので、そこに凛子がいないとしても右手を振るった。壁に当たる。だが、それで赫食いの拳は止まらなかった。屋敷の壁を右手は簡単に貫き、穴を開ける。さらに深く刺さりすぎて抜けなくなったのか、赫食いは左手を壁に当てて、勢い良く右腕を抜くと周りの壁ごと赫食いは腕を抜き、壁に大穴が開いた。そこはどうやらキッチンのようだ。先程いた杯の奴隷が四人ほど小さくなりながらいるのが見える。
「やれやれ、久しぶりに穴を開けてしまった。また彼らに修理を依頼しなくては」
赫食いは杯の奴隷を見てから、また凛子に視線を向ける。
凛子はその間に何度か背中にがむしゃらに日本刀を振るうが、やはり傷は一つも出来ない。ジャケットがボロボロになり、人とは違う赤い皮膚がより一層見えただけであった。赫食いの体はこれまで見たどんなクラウドよりも赤みが濃く、黒っぽくも見える。また硬く変形しており、右の脇腹や左胸は少しだけ色が薄いように思えた。
「あなた、化物ね――」
凛子は息を乱していない。これほどの攻撃では簡単に行える体力、技術を持っているが、額から流れる冷や汗を止めるすべは知らないようだ。凛子の持っている日本刀は業物だ。これまでの攻防でも刃こぼれしない程の。また切れ味も刃物の中ではよく切れる物だと言われて渡されたのだ。現に、今までは何でも斬ってきた。数多のクラウドも、鉄も、また人でさえも。
だが、切れない。何度刃を立てようがその体は固く、凛子がどれだけ力を込めようと弾かれるだけだ。
「……君も中々タフなようだ。まだ諦めないとは、それに、先程壁にぶつけた時はてっきり死んだと思ったぞ」
「だって、私もあなたと同じだもの――」
凛子は笑みを浮かべると、そのまま地面に落ちていたテーブルの残骸を日本刀で下から掬い上げるようにして赫食いに飛ばす。一つ。二つ。三つ。赫食いはそれを反射的に防いだ。もし受けたとしてもダメージはないのに。人間時代の反射の名残だろうか。
そして顔に当たりそうになった木材を赫食いが防いだ時に凛子は赫食いの視線から外れて、側面から距離を詰める。構えは刺突であり、狙いは一つだった。赫食いの色が薄い右の脇腹。あそこなら少しは刃が通じるのではないかと思うのだ。
赫食いは自分の存在に気付いていない。だが、赫食いは身に危険が迫るということを察知したのか、身を捩った。凛子の狙いが少し外れる。刃が赫食いの体を掠った。初めて赫食いの体に細い線がつく。そこから少ししてから、赤い液体がすっと流れた。
「ああぁぁ!!」
耳をつんざくような声を上げた赫食いは、そのまま右腕を雑に振るった。既に凛子は距離を離れようとしていたが、赫食いはもう一歩踏み込んだ。早い。赫食いは痛みからか先程よりも動きが早くなり、そのまま右の拳を凛子へと突き出した。避けられない。凛子はそう思い、日本刀を前に出すが、拳と日本刀の衝撃に耐えきれなかった凛子は刀ごと押しつぶされて、二メートルも吹っ飛んだ。何とか後ろに飛んで威力は粗方殺すが、それでも峰が鼻に当たって、鼻血が流れて口の中に入った。嫌な鉄の味が舌に感じる。
凛子はすぐ後ろが壁ということに気付いた。既に赫食いは二撃目を当てようと近づいてきている。その姿はまるで重機のようであり、床を大きく軋ませていた。右腕を大きく引く。またしてもテレフォンパンチだ。初動作が大きい。避けるのは簡単だ。どうやら赫食いは筋力、耐久力、スピード、どれも人外であるが、武術などは修めていないらしく、全てが素人技だった。だが、凛子は自分に迫りくる拳を見る。赤々と丸い溶岩のような拳を。避けるのは簡単なはずだ。速度を予測し、それに合わせて体を動かす。簡単なはずなのに、赫食いの攻撃には圧力がある。ねっとりと凛子の体にへばりつき、足をすくませる怖さがあった。
凛子は赫食いの攻撃を潜るように避けるが、その前に赫食いは大声を出した。ぃあぁぃあうぅい。それは言葉にならない声であり、人では絶対に発声出来ない言葉だ。それを聞いた瞬間、凛子の感情に恐怖が募り、足が一瞬だけ遅れた。凛子の頭に拳が掠る。髪の毛が触れただけであった。凛子はそのまま左胸を刺そうとするが、赫食いの雄叫びのせいで手元がぶれる。右胸に刃は突き刺さるが、日本刀は弾かれた。凛子は赫食いの足に引かれないように、転がりながら横に移動する。その間にも赫食いの拳は止まらない。壁を全力で殴った。壁が破れる。木材ごと大きな穴が開いた。その先は玄関であった。先程見た人体模型のガラスケースも砕き、床に模型がばらばらになる。
赫食いは武道を習っていない。だから拳を引くのも怠慢だ。凛子はそんな赫食いの背中に回り込み、全力で日本刀を振るう。前に体重をかけていた赫食いは、前方に体勢がぐらついた。凛子は二撃目の斬撃を放つ。傷はつかない。だが、赫食いは前に頭から倒れた。そんな赫食いの背中へと全体重をかけてもう一度刃を突き立てるが、やはり背中には刃は刺さらない。それどころか赫食いが凛子を払おうとした裏拳が当たり、胸にまともに当たってしまった。上から退かされる。玄関に置いてあるティラノサウルスの置物に当たった。体にダメージがあったのか、凛子は低い呻き声を出した。
「まさか、ここまで君が強いとは思わなかった。これまで私に歯向かって来たどんなクラウドよりも、君は強いだろう。だから――私も君には全力を出そう」
赫食いは立ち上がって言う。




