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現代に残る聖杯伝説について  作者: 乙黒


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聖杯


「出口が……無い、なんて――」


 僕は思わず悪態をついてしまった。唇を噛む歯に力が入る。すっと血が流れた。

 この本にかかれていた内容から、それが自身の目的――この世界から逃げ出すことを達成するのが困難だと告げているからだ。あのオレンジの霧に入った時点で、自分には二つの道しか無かったことを悟る。クラウドか、餌か。友人は二人共餌になってしまった。そして運良く、僕はこの屋敷まで辿り着いた。ここで僕に待っている運命はこの本が言う通りなら一つだ。彼らの仲間となるか、それともここから逃げ出して力尽きるまで餌になることから逃げるか。


 この本を書いた主人はおそらくこの屋敷にいると思う。そして自分と出会うと、彼もしくは彼女は言うのだろう。共に素晴らしい存在にならないかと。先程の本の通りに。


 本を持つ手が震えていることに気づいた。だけど、物音は立てないように必死に体を抑えながら元あった場所に本を戻す。僕はその本棚に背中の体重を預けると、すっと膝が抜けたように腰を落とした。そして体育座りをしたまま顔を床に向ける。赤い絨毯が敷かれた場所に、一つ二つと黒い染みが生まれた。涙だった。叫びたい気持ちもある。今すぐこの現実から逃避して、泣き狂って、自分が陥った状況を考えたくなかった。


 夢だと思いたいのだ。

 この夢が覚めれば、いつもの自分のベッドで起きて、母が温かい朝食を作って待ってくれている。それを自分は完食して行きたくないなーと思いながらも重たいカバンを持って学校に行くのだ。新聞部に行くと向日葵さんや伊集院君がいるだろう。そして退屈な授業を受けて一日が終わる。もしかしたら別のクラスの中には噂の転校生の神宮がいて、彼女が笑うだけで自分はどきっとするかもしれないのだ。もしかしたら行方不明だった灰崎君もただの家出で学校に来ているかも知れない。そんな大してスリルも無ければ感動もない幸せな毎日に戻れるのだ。


 だが、現実は変わらない。

 夢から醒めることも無ければ、噛んでいる唇は今も痛いままだ。自分はいるのは確かにクラウドの主がいる総本山であり、この屋敷で自分はクラウドの主から同じ仲間にならないかという誘いを待つだけの存在なのだ。


 嫌、だった。

 だが、他に道もない。

 例の液体を飲んでクラウドになるか、それとも餌になるか。

 どちらになるかはまだ決まっていない。クラウドという化け物になる生の苦しみか、生きたまま体を八つ裂きにされて喰われるという死の苦しみか、どちらも選ぶ気にならなかった。


 どうしてこうなったのだろうか?

 そんな無念が、僕の頭を占める。あの時にこうすればよかった、ああしたらよかった、そんな考えばかりが浮かぶのだ。

 きっと、それは僕が弱いからだろう。今と成っては、幼い時に訪れた天白村で食べた神のお供え物に手を出した事も、今回の不幸につながったとさえ思ってしまう。


 きっと汗や土埃などで汚れていた顔が、涙によってぐちゃぐちゃになっていたと思う。

僕は現実逃避をするように顔を上げた。部屋は狭かった。天井にかかってある小さなシャンデリアを見る。そこには幾つかの炎が輝いていた。それに照らされるようにあるのは、小さな机と椅子、それに部屋の四方を埋め尽くされるようにある本棚に中に入った数多くの本。もちろん市販されているのが大多数であり、先程の本のようにこの館の主人の直筆の本は極僅かだ。菊花は既に今まで必死に走ってきた疲れによって、ここから動き出す元気もなく、ゆっくりと左右を交互に見渡す。視界を埋めるのは沢山の本だけだ。


 ――しかし、そんな部屋の様子に僕は違和感を覚えた。


 何だろうか。この部屋が不自然だと思うのだ。何がおかしいと思うのだろうか。念のために二階にあった他の部屋の様子を思い出す。この屋敷に住んでいるクラウドの主人の趣味がおかしいのだろうか。いや、それはない。この部屋もそうだが、他の部屋にも中にあるものに違和感を覚えることはなかった。それはこの部屋でも同じなのに、何故かこの部屋のことが引っかかる。何故だろうか。構造だろうか、と考えて、向かいの部屋を思い出す。この屋敷は左右対称の作りになっていることは、屋敷を外から見た時の構造で知っている。だから向かいの部屋のことを思い出せば、この部屋に引っかかる違和感を取り除くことが出来るかも知れないと思ったのだ。だが向かいの部屋もただの客室だったはずだ。殺風景な客室で他の部屋とは何の違いも、そもそも〝広さ〟も変わらないほどの――


「ああ、そうか。分かった。この部屋だけが異様に狭いと思うんだ」


 僕はこの部屋に潜む違和感が分かった。この部屋はそもそも狭いのである。廊下に出て確認してみると、この部屋は大きいと扉があって、さらに向かいの部屋数は五つなのに対して、こちら側の部屋数は四つしか無い。おそらく一つを潰して大きな部屋にしたからだと思われる。もしも先程の書斎が部屋二つ分の広さがあるなら、書斎のあの狭さはおかしいと思った。


 もう一度書斎に入る。

そして本棚を調べた。

中に入っている本自身には既に興味がなく、どこかおかしい部分はないかと本を乱暴に地面に落とすように退けて本棚に様々な方向から力を加える。すると僕の手が動いた。本棚が横にスライドしたのだ。どうやらこの本棚は扉の役割も兼ねていた。僕は自分の予想が当たっていたことに表情を緩ませて先へと進んだ。


 ――そこでは、ベッドの横に置かれた小さな机に一本のロウソクだけが儚い光で部屋を照らしている。ベッドは客室の者と比べても大きく、クイーンサイズだろうか。クッションも分厚く、うえにかかっている布団も上等な素材で作られていると思われる。おそらくこの屋敷の主人の寝台だろう。さらに気になったのは、棚だ。そこに飾ってあったのは数多くの瓶、さらにはポリタンクが置かれてある。殆どの瓶、またポリタンクは空であるが、幾つかの瓶には赤い液体が入っており、それを少しの間見つめていた。おそらくこれが例の聖杯から生じた物なのだろうかと考えながら。


 そして最後に、部屋の隅に置かれている台にひっそりと乗った――杯、を見つけた。色は乳白色で、それも円柱状だ。シンプルな造りをしたコップであるが、骨のような素材でできているため中身は見えない。杯はおどろおどろしくも、静謐で神秘的な空気を纏っており、祭儀用の道具、もしくは呪いの代物であっても不思議ではないだろうか。またそれは丁重な布の巻かれた台の上に置かれており、近づいて上から覗き込むとその杯には赤い液体で満たされていた。この液体は元々入れられてあったのだろうか。それとも――僕が覗き込むことで杯に赤い液体が満たされたのだろうか。


 この杯が、きっと例の〝聖杯〟なのだろう。


 神宮凛子が心の底から欲しがり、この屋敷の当主が持っており、人を鬼に変えた赤い液体を生み出し、また僕たちをこの世界に閉じ込めたオレンジの霧を出す魔性の物体だ。


 また菊花は杯からオレンジの霧が僅かに漏れ出していることに気がついた。それは杯から溢れ出すように少しずつ器から溢れている。さらに台からもオレンジの霧は溢れ出して地面に落ち、それが部屋の床を数ミリだけ滞留していることに今更ながら気がついた。この部屋から溢れ出した霧が、外に出て、川を伝って下まで流れているのだろう。


 この杯を何とかすればこの世界から出られるのだろうか。例えば、杯を壊せれば、ここからオレンジの霧が消えて無くなり、元の世界に帰れる――そこまで考えて、現実逃避を止めた。この杯を壊すことで内包するオレンジの霧や赤い液体が無限に溢れるかも知れないと考えたからだ。


 やはり、この世界から出るには、先程の本の執筆者が言うとおり、クラウドになるしかないのだろうか。それもクラウドの中でも特別な存在になるしかないのだろうか。僕は自分の頭から角が生えて体表が赤くなることを想像すると嫌だった。あんな姿には絶対になりたくないと思いながらも、僕は――聖杯へと右手を伸ばす。

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