クラウド
「ああ。君は知らないのかもしれない。これは素晴らしいものであり、麻薬のような依存性があるのは確かだが、もう一つ大きな特徴があるのだ。この杯の持ち主、かつては私達が想像もつかないような銀河系に存在し、幾つもの星すらも手中に収めた『ムクテュ――様』は――」
凛子は赫食いが発する杯の持ち主の名前を聞き取ることが出来なかった。それはまるで日本語のようでありながら、全く違う発音だ。深く唸るようでありながらそっと囁くように呟くのだ。
「――ある者との戦いに負け、体を十八京ほどにも細かく分けられた。その一つが杯――元は脊髄であり、その他は宇宙にばら撒かれている。ああ。いぃうぅ。だが、『ムクテュ――様』は死んではおられない。例え、あのような脊髄だけの姿になっても、その生命力は失われていない。そのような下等なモノではないのだ。私、私はこの杯を使って、眷属を増やさなくてはならない。そして来る(きたる)日を待つのだ。『ムクテュ――様』は復活を待ち望んでおられる。この宇宙の果てで、彼の者に復讐するため、じっと力をためておられるのだ。私はその手助けをしなくてはならない。いぃうぅ。さあ、君の名前は何だったか。何でもいい。さあ、早くそれを飲み干したまえ。そして赤い雫の味に脳を浸らせ、私のように銀河の支配者の叡智に触れるのだ。それこそが私達の幸せであり、目的であり、この世の真理なのだときっと君も知るだろう」
赫食いは嗤いながら語る。
「あなた、何を言っているの?」
だが、その内容を聞いたとしても、凛子は話の半分も理解できない。
赫食いは何を喋っているのだろうか。言いたいことは分かる。要するに、このグラスの中に入っている赤い液体を飲み干せと言っているのだ。だが、話の内容を聞くに、どうやら赫食いは思考が何かに汚染させているようであり、どう見ても正気ではなかった。目は大きく見開き、唇を強く噛み締め、グラスを持っている手が震えている。そして落ち着きを取り戻すようにグラスを持って一気に飲み干した、その際、赤い液体を胸元にこぼしながら乱暴に飲む。
「……ふう。ああ。失礼。少々取り乱してしまった。どうやら私は幸せに満たされていたようだ。まあ、要するに、ここまで彼らに喰われずに来られた君には資格がある。私達と同じ存在――人を超越した者であるクラウドになる資格が。君は杯に興味があると言っていたな? それを飲めば、君の知りたいことが全て分かると思う――」
赫食いは落ち着きを取り戻していた。
それは杯の雫を飲んだからであろうか。
もしくは現在の彼も正気ではないのだろうか。杯の雫を飲んだことでおぞましい何かが、赫食いの体の中で起こっているのではないかと思った。それは幻覚や幻聴などでは説明がつかないことであり、それでいて思考が支離滅裂にはなっていない。恐ろしいことだと思った。あの赤い液体を飲んだ者はこのように〝狂う〟のだろうか、と思った。
そして凛子はすました顔で言う。
「その申し出は嬉しいところだけど、私はこの〝副産物〟には興味がないの」凛子はテーブルの上のグラスを片手で払った。すると、床に二つのグラスが落ちて、地面に赤い液体と水が散らばる。「私はね、杯が欲しいの。返して欲しいの。ねえ、赫食いさん、あなたの大切な杯はどこにあるの?」凛子は腰の日本刀を抜いた。そして机の上に足を乗せて、その切っ先を赫食いに向けた。
「……杯が、欲しいと?」
「ええ。素直に渡してくれるかしら?」
凛子は赫食いを誘惑するように、うっとりとした顔で言う。
だが、その返答は些か乱暴であった。赫食いは机をひっくり返して凛子へと当てようとする。彼女はそれを簡単に避けるが、次に男は机を片手で掴んで凛子へと投げる。凛子は日本刀でそれを両断すると、切られた机は壁に当たって粉々になった。男の怪力のせいだろうか。
「どうやら、君は私が思っていたよりも強欲で愚かな人間のようだ」
赫食いは呆れるように言った。
「あれはね、〝私達〟の物なのよ――」
凛子は日本刀の切っ先を少し下げて、真っ直ぐ赫食いへと駆けて行った。凛子は距離を詰める。日本刀が届く寸での距離まで。いかに赫食いが大男であっても、武器を持っている凛子の方がリーチは長い。凛子は大きく日本刀を振りかぶって、渾身の力を込めて日本刀を振り下ろした。
だが、赫食いは右腕を前に出すだけで、凛子の斬撃を簡単に防いだ。かん、と甲高い音が鳴る。どうやら赫食いの腕は硬質化しているらしく、凛子の刀では傷がつかず、ジャケットの袖が破けただけだ。そしてその隙間から、赤黒い腕が見えた。その皮膚の表面が波打っているように固まっており、それは赤い岩石のようにも見えた。
凛子は日本刀が弾かれると、すぐに一定の距離を取ろうとするが、それよりも早く赫食いの左腕が伸びる。赫食いの左腕も右腕と同じように硬質化しており、特に爪はナイフのように鋭く尖っていた。それは凛子の顔へと伸び、頬を掠った。だが、致命傷にはならない。頬に細い線のような傷がついただけだ。そこから赤い血が流れるが、凛子は苦しむ様子もなく赫食いから離れた。赫食いの腕が届かない所まで。
そして凛子と赫食いはお互いにゆっくりと円を描くように歩きながら、目を決して離さず隙きを探す。未だ両者とも動かない。少しの動向も見逃さないように、二人共瞬きすらせずに伺っている。




