食事
凛子の前に現れたのは一人の男であった。――クラウド、でもあった。だが、外で会ってきたクラウド達と比べると、いささか人の名残が残っているようにも見えた。角こそ生えているものの控えめであり、あまり目立たない。また肌の色の少し赤いが、日焼けだと言えば誤魔化せるほどの色である。だが、身長は二メートルを超えている。赤い液体の効果だろうか。また体も太く、来ている黒いズボンと黒のジャケットがパツパツであった。
「懐かしい場所に人がいると思ったが、どうやら外からの来訪者のようだね。それも、クラウドではなく、ただの人だと見える。それも可愛らしい子だ。良かったら、食事をご馳走しようか? ここまで来たご褒美と言っていいだろう。そもそもこの世界で、この屋敷を目指す者はいても辿り着くものは少ない。殆どがここに着く前にクラウド達に喰われるからな――」
男は意気揚々と語る。
その口調は得意げであり、同じことを今までに何度も言ったように慣れているようだ。
「……ねえ、その食事に行くのはいいけれど、一つ聞きたいことがあるの。私はこの部屋に置かれている日記を呼んだ。で、あなたはどっちなの? あなたは聖杯を見つけたほう? それとも、聖杯を独占したほうなのかしら?」
凛子の質問に男は嗤う。
「私の過去はクラウドになってから全てを捨てたのだよ。私自身の名前も、過去に会った友人も。私のことはそうだな。こう呼んでくれると嬉しい。クラウドの――赫食い(あかぐい)と」
「なにそれ?」
「私の新しい名前だよ。何なら赫と読んでくれても構わない。そもそも私は名前という文化に最早興味が無いのだ。この世で私のことを名前で呼ぶものはいない。また名前を書く必要もないのだから。で、どうする? 君は私が招待する食事会に参加するのか?」
「……幾つかの質問に答えてくれるなら行こうかしら」
「……分かった。いいだろう。私も久々に人と喋れるのだ。君が疑問に思うことは全て話そう。最も、私の過去以外であるがな」
「じゃあ、行くわ」
男は凛子からいい返事が聞けると、無防備に彼女に背中を晒して地下室から出る。凛子は一瞬、その背中を日本刀で刺そうと思うが、もしもこの男が死んでしまった場合、もしも土の中に聖杯が埋められているとすると場所が分からなくなる可能性がある。凛子はアマシ様を持っている彼に暗い気持ちを持ちながら素直に付いて行く。
男が地下室から出てから案内したのは一階の奥の部屋だった。そこに着くまでの廊下には動物たちの標本が置物のように並んでおり、幾つかの部屋とキッチン、それに食堂があった。男が入ったのは食堂であった。中は荘厳としていた。天井には大きなシャンデリアが飾られており、白いテーブルイクロスが敷かれた机は人が十人以上も座れるほど長い。男はその中でも一番奥の上座に座り、凛子は男と相対するように一番遠い場所に座った。
「さてと、話をする前に――」
赫食いと名乗る男は指を鳴らした。すると、血の気を失った人が奥の部屋から現れた。奥の部屋からは微かにコンロが見えるのは、おそらくキッチンだろう。彼らはキッチンからワイングラスを四つと、透明な水の入ったデカンタと呼ばれる本来ならワインなどを入れる瓶を持ってきた。それらを彼らは凛子と赫食いそれぞれの前に二つずつ起き、その中の一つには水を注いだ。
凛子は給仕をしてくれる者たちを見た。彼らは頭が低かった。まるで老人のように腰が曲がっていたからだ。そして全身を白いローブで隠し、顔は隙間からしか見えないが青白かった。凛子はふと彼らに興味を持ち、水を注ぎ終わった物の一人のフードを取った。するとそこには青白い顔の他に、頭部に微かに生えた角を見つけた。どうやら彼らもクラウドのようだ。また、先程の日記の作者が言っていた杯の奴隷とも思った。
凛子にフードをめくられた杯の奴隷は慌てて顔を隠し、凛子から逃げるように奥のキッチンへと足早に消えた。
「……出来れば、彼らを虐めてほしくないものだな」
そんな凛子の行動に、赫食いは眉を顰めた。どうやらよくは思っていないようだ。
「興味があったのよ。彼らがクラウドかどうか、そして現にクラウドだったわ。やはりここにあの〝杯〟があるのね。あなた達ただの人を、クラウドという摩訶不思議な化物に変えた禁断の物が――」
「……無い、とは言わない。だが、君はあの杯などに興味があったのかね? なら良い物を君にあげよう――」
赫食いはそう言うと、席から立ってキッチンの奥へと消えていった。そして奥から何やら瓶を抱えて出てきた。その瓶の中身は赤く濁っていた。それを凛子の前の開いているグラスに注ぐ。ワインのような赤い液体だった。まるでルビーのように濃い赤であり、グラスにタプタプと注がれる度に部屋中がフルーティな香りで包まれる。
そんな赤い液体の匂いに、杯の奴隷たちは目を点にして我を忘れたように凛子の前にあるグラスへと手を伸ばそうとした。だが、それよりも先に赫食いが咳払いをすると、杯の奴隷たちは背を丸めてこの部屋から退散した。
「……予想は着くけど、これは何?」
凛子の質問に、赫食いは大きく笑ってもう一度先程の席へと座り、みずらかのグラスにも赤い液体を注いだ。そしてグラスを中に入っている赤い液体を眺め、ゆっくりと回しながらこの世のものとは思えないほどの濃厚な匂いを味わう。
「君の想像通り、これは杯から湧き出た物だよ。これを飲むと、私や彼らのようになる」そう言って、赫食いは部屋から消えた杯の奴隷たちを指差した。「そして君も見たとおり、外にいる彼らもこれを飲んでああなった。屋敷にいる彼らと、外にいる彼ら。それから私、誰もがクラウドであるが、飲み方によって大きく違う変化があるんだよ」
「飲み方、ですって?」
先程の日記には書いていなかった情報だ。
「ああ。そうだ。外にいる彼らは際限なく赤い液体――この杯の雫を欲しがり、ここで手に入れられないことが分かると、外に出て赤い液体の代わりに人の血を求めるんだ。この杯の雫の代わりにね。この屋敷にいる彼ら――確か君の呼んだ日記では杯の奴隷と書かれていた者たちだが、彼らはね、どうやら謙虚なようで、私が授けるほんのちょっとの赤い液体の為に、私に奴隷のように尽くしてくれるのだよ」
「それであなたはどうしてそこまで人の姿を保っているの?」
「なに、簡単だよ。私は、定期的に、それも大量に杯の雫を摂取しているだけだ。随分と私も苦労したよ。あれの誘惑に負けず、毎日、一定量だけを体に投与する。すると、体の調子はうんと良くなって、彼らのように体が大きく変化することがなく日常を過ごしている。様々な杯の使い方を考えながらね――」
「つまり、あなたが杯を独占しているのね?」
「人聞きの悪い事を言ってはいけない。私はあれを管理しているのだよ」
「管理ですって、皆に分け与えたらいいじゃない? あれは無限に赤い液体を生むんでしょ?」
「……どうやら君は知らないようだが、杯は無限に赤い液体を出すことが可能だが、一度に出せる量はほんの僅かだ。それも小さな杯を満たす程度だ。そんな量で彼らが満足するはずがない。断言できる。そもそもクラウドになった彼らは杯を独占して、自らだけがあの美酒を味わいたいのだよ。私だってそうであるが、その衝動を何とか抑えてこのように、この屋敷にきた者に振る舞っているのだ。最も、私も以前は君のように考えていたがな」
「だから私にも、このように振る舞ってくれるの?」
「ああ。君のように力が強く、勇気のある若者ならば、私のようなクラウドになることも可能だと思う。ただ、その為には欲に溺れないことだ。いいや、違う。私のように杯の思考に染まることが大切なのだよ」
「杯の思考? どう言いう事?」
凛子は首を傾げる。




