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現代に残る聖杯伝説について  作者: 乙黒


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手記3

友人は鬼のそんな行動についての予測も語る。要するに、人を食べるという行為は血を飲み、肉を食べるのも含めて、フロイトの娘が提唱した防衛機制の一つである置換だと言う。簡単に説明すると、杯の赤い液体を飲めないのだから、似たような物である人の血、もしくは肉で代用しようと鬼は思ったのだと友人は語る。その証拠に、彼らが人を食べる時は赤い液体を飲むときのように、恍惚の顔で食べるのだ。


私は言った。そんな鬼が町中にいるのなら、この国はパニックに陥っているのではないか。早く鬼達を何とかする方法を考える方がいい、と私は友人に進言するが、彼は気がおかしくなったように嗤い、またも地下室から姿を消した。

去る前に友人は言う。既にここは異界なのだよ。外界とは別の場所にあり、たまに人を招き、迷い込んでくるだけだと。


私は友人の言葉の意図を知りたくて、友人の後ろ姿に向かって何度も質問を重ねるが、やはり友人から答えが返ってくることはなかった。


また、次の日から鬼の唸り声が牢屋に増えた。それも一つではない。二つ、三つ、酷い時には牢屋の全ての部屋が埋まるほどの声が聴こえる。またこの時から友人が私の前に現れることも少なくなり、代わりに血の気を失った角を生えた人が渡しに食事を届けるようになった。彼らは鬼であった。だが、友人に絶対服従のようで、私が話しかけてもまともな声すら発しない。「いぃうぅ」と不気味で、身の毛もよだつような声をあげるだけだった。そして彼らは一日ごとに入れ替わるのだ。決して同じ物が私に料理を届けることはない。

 たまに私のもとに来る友人に聞いた。彼らは何なのだと。曰く、杯の奴隷だと言った。彼らは杯から出る赤い液体――友人はそれを杯の雫と呼び、彼らは杯の雫のとりこであり、その甘露を求めて友人に従っていると。裏切ることはなく、適度に餌を与えておけば逆らうこともないと言った。


私はまた聞く。杯の奴隷は一日ごとに入れ替わるのだが、他の者はどこに行ったのだと。まさか処分したのではないのかと友人に駆け寄り、鉄格子を強く握りしめながら訴えた。

友人は言う。そんなことはない。彼らは自ら飛びだったのだと。またこの牢屋にいる者たちもそうだ。彼らは提供される杯の雫の量に満足できず、屋敷の外に彼女と同じものを探しに行ったのだろうと。


私は聞いた。それは人の血肉ではないのかと。

友人は嗤いながら答えた。まさにそうだと。彼らは外の世界に人を求めて彷徨っている。だが、既にこの近辺は異界であり、私達が住んでいた世界とはオレンジの霧で切り離された世界だと言う。だから人どころか虫一匹もいない世界を、彼らはまだ見ぬ人を求めて彷徨っているのだ。そして友人が招いたか、この世界にたまたま落ちてしまった人を見つけて、彼らは貪り食べるのだと言う。


友人は彼らのことを、杯の奴隷も含めてこう呼んだ。

鬼ではなく、〝クラウド〟と。

人を喰らう人だから、喰人くらうどと。


そして友人は続ける。もしも彼らがクラウドであるならば、おそらくは友人自身もクラウドなのであろうと。彼らとは違い、毎日欠かすことなく杯の雫を飲んでいるから、どのクラウドよりも力が強く、またこのように容姿も人のように保っていると。だが、どうやら体の半分は赤黒く、また髪の下に隠れているが角もしっかり生えているらしいが。最後に友人は私に瓶を渡した。酒瓶である。元は私の好きなバーボンウイスキーが入っていた瓶であるが、中身は別の物と置き換えられていた。赤い液体である。彼はそれと、飲みくちが広いグラスであるオールドファッションドグラスを私に渡し、早くこれを飲んで同じクラウドになるように言った。また透明の円柱状のビンの上から奇妙な模様が描かれた瓶は大切に持っておくようにも言った。それから友人が現れることはなかった。


それから私の話し相手はクラウドになった。決して友人ではない。彼はもう私がクラウドになるまで現れないつもりなのだ。彼らは私に食事を届けるだけだ。何か話しかけても「いぃうぅ」と答えるばかり。まともな返事など一度も帰ってこなかった。さらに地下の同居人もクラウドであった。彼らは部屋を暴れながら大声を上げ、その一声は私を強烈に怯えさせた。また時々牢屋をこじ開けるクラウドもいて、彼らは私を見ると鉄格子まで顔を近づけ、私を極上の餌を見る目でにたあと嗤うのである。だが、私の部屋の中には入ってくる様子はない。またこじ開ける様子もなかった。クラウド達は友人が置いていった瓶を見ると、すぐに地下から逃げ出すのだ。


 その瓶には、稲妻が瞳を貫いているような絵――いや文字らしき物が書かれているだけで、他には何もおかしい点はないと言うのに。

 だが、私の身は安全であったが、精神面ではそうではなかった。


 クラウド達は四六時中騒ぐ。私にまともに睡眠を取らしてくれる様子もなく、彼らの声を聞くだけで私の体は緊張するのだ。筋肉に力が入り、顔がこわばる。そして時折訪れて来る食事を配るクラウドである杯の奴隷は、話し相手にはならず、心の安らぎにもなりはしない。私自身、彼らのことは気にしないようにした。だが、彼らの叫び声が私を地獄へと誘うのだ。私に赤い液体の快楽を訴えるように言い、またその瓶を寄越せ寄越せと囁いてくる。だが、それを渡してはならない。渡したら最後、瓶にかけられた魔法は解けて、彼らは私の血肉もきっと赤い液体のように味わうのだから。


また杯の奴隷も私に食事を渡しに来ると、恐ろしい形相をしながら酒瓶へと必死に手を伸ばすようになった。その度に私は瓶を扉から離すのだ。杯の奴隷たちは鉄格子を必死に揺らすが、まだ鉄をひしゃげられる力はないらしく、いつも瓶を名残惜しそうに見つめて、私を睨み帰っていくのだ。また頭のいい杯の奴隷は食事を鉄格子の元に置き、取りに来ようと近づいてきた私の胸ぐらを掴んで鼓膜が破れそうな声で訴えた。瓶を指差し、あれを渡せと。


だが、私は取りに行くふりをして、鉄格子から最も遠い位置で瓶を抱えながらいつも書いているこの手帳を前に自分の世界に閉じこもる。内面を書き殴る。この地下室は何だ。敵しかいないではないか。誰もが私の血を狙っている。肉を狙っている。友人が守ってくれなければ、私は自分の命一つ守れないようなか弱い存在なのだ。さらにこの部屋には何もない。本当に何もないのだ。私の心の拠り所はおろか、人としての理性を保つものさえも。


「いぃうぅ」


彼らの声だ。私は最近、この声しか聞いていないように思える。食事を受け取る時も、眠る時も、また起きている時も、まともに聞き取れるのはこの不確かな単語だけだ。あとは汚物のような叫び声。それが耳を潰さんとばかりに地下に響く。逃げたくもなる。だが、逃げる場所など無い。鉄格子の周りでは淡々とまだ若いクラウド達が私を狙っている。そして時が経つと彼らは地下を出て、おそらく屋敷を出て、人の血肉を求めるのだ。本当に私に逃げる場所など無い。この部屋から出れば、おそらく彼らに八つ裂きにされるのだ。ここは私を閉じ込める檻であると同時に、外敵から身を守るシェルターでもあるのだ。私はこの日記を書くのを止めて、振り返る。やはりそこにはクラウド達がいた。うようよと。どれもが獰猛な目つきで私を欲している。鉄格子から腕が伸びる。まるでそれは闇への誘いだ。あれに身を任せれば、私はここにいる苦しみから解放されるが、それは同時に生から解放されるだろう。


 私は心が金切り声を上げているのが聞こえる。彼らの声は私の精神を犯し、延々に途切れることのない緊張と悪夢を与える。もう何日もまともに寝ていない。食事をいつとったかも分からない。分かることと言えば、あの獰猛な瞳が増えて、減って、増えていくだけだ。がたがたと鉄格子が揺れる。止めてくれ! 鉄格子の耐久はそれほど強くない。もしも外れたらどうするのだ。ああ、誰か。誰かここから私を救ってくれ。クラウド達の叫び声のオーケストラが見せる地獄とも思えるような場所から、私を救ってくれ。今ならセミの鳴き声の中に入れられてもいい。工事現場の中でもいい。心臓を鷲づかみにされるような音よりかはマシだ。


 だが、助けが現れる様子はない。ああ。もう私は駄目なのだろうか。何も考えられない。クラウド達が揺らす鉄格子の音を、私は何度も数えている。もう四万回であった。いつあれは壊れるのか。壊れた時が私の命日だ。あれは私を守る檻なのだ。瓶のクラウド避け効力は弱くなってきたのだと思う。おそらく私が握りしめたおかげで文字が掠れているからだろう。


ああ、来た。遂にその時がやって来た。鉄格子が折れる音だ。私は振り返らない。右手にペンを、そして左手に口の空いた瓶を持ったまま耳だけを後ろに注意を向ける。鉄格子は次々と折られていく。それと同時に、クラウド達は歓声を上げた。「いぃうぅ」「いぃうぅ」と耳障りの悪い言葉で、彼らは穴が大きくなれば、部屋に入るつもりなのだ。もう逃げ道はない。私はもうどうにでもなれと思った。ああ、きっと私はもうまともではないのだろう。今すぐこの右手にペンで耳を貫いて彼らの声を聞けないようにし、次に心臓を貫いて彼らの姿を見ずにこの牢屋から抜け出したかったのだ。


だが、私にそんな勇気はない。そして思う。喉が渇いていた。杯の奴隷たちがここに来なくなってからどれぐらい経ったのだろうか。分からない。だが、クラウド達がかける緊張によってかいた汗によって、私の服はびっしょりだ。また口も乾いている。何か飲みたかった。私の左手に瓶がある。中にはちゃぷんと液体が入っている。中身が何だったのか、最早定かではない。覚えていない。私は何も考えずに瓶の中身を飲み干そうと思った。


 ――ここから、凛子はページが飛んでいることに気がついた。一ページめくると全てが黒いインクがばらまかれており、次のページからはこれまでの理路整然とした字とは違い、字の大きさや形がそれぞれ明らかに狂っていた。それはかろうじて日本語と分かるものであった。


 今のところ、私は生きている。クラウド達が隣にいるのに彼らは私を殺そうとする気配はない。いや、そんな事はどうでもいい。私が飲んだ美酒は何だ? この世のどんな物より濃厚で、芳醇で素晴らしく美味しい物であった。思わず一気に飲み干してしまうほど。私は夢の世界にいる気分だ。心がふわふわと飛び、妙な高揚感と満足感によってこの狭い牢屋から旅立とうと思うほどに。私は素晴らしいものを口にしたのだ。


いぃうぅ!


私の体に訪れた変化は素晴らしいものだ。体に若さが溢れ、これまでにない希望と活力が生まれてくる。私はもう一度この感覚を得るために、あれを探しに行こうと思う。そもそもあれは元々私の物だったはずだ。それを彼が奪ったのだ。あの杯は私のものだ。絶対に奪い返してやる。彼のように強欲な人間にあんな素晴らしい物を独占させてはならない。あれは皆で分け与えるものだ。以前の私が間違えていた。あれを利用すれば、世界中の皆が幸せに、そして同じ存在になれる。そもそもクラウドは人であり、私の仲間の筈だ。何を畏れることがあるのだろうか!


いぃうぅ!!


さあ、探しに行こう。人をより高位の存在へと変え、幸せを与えるあれを。あれを人類皆で共有すれば、おそらく戦争は無くなり世界が平和になるはずだ。何故ならあれは無限に生み出せる。世界中の人間に供給するのを無理ではない。さあ、行こう。角の生えた仲間たちよ。私も君たちの気持ちが分かった。きっと人の血は美味しいのだろう。私も一度は食べてみたい。飲んでみたい。そもそも私達の仲間になるのを拒み、新たな歴史を刻む私達と同じ存在になろうとしない者は食べられても仕方がないのだ。そして私達の血肉となって同じ存在になれば彼らも幸せなのだ。


いぃうぅ!!!


さあ私の友たちよ。宴が待っている。大いなる支配者の下で、素晴らしい宴を――


――そこで、凛子が読むのを止めた。何故ならそこまでがまだ凛子が日本語だと理解できる場所だったためだ。その後は言葉にならない線が続いている。ノートの左上端から右下端に行ってそのままもう一度左上端に戻ると言った一定の規則がありそうで、また何らかの文字らしきものが書かれてあったのだ。


そして凛子が手帳の読める所全てを見終わった時、地下室の入り口から足音が聞こえると、すぐに凛子は牢屋らか出た。何も見えない暗闇であるはずの一回へと続く階段が、炎によって照らされていた。それは明らかにこちらへと向かっている。


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