手記2
私には分からなかった。人がどういった薬、あるいは毒であの姿になったのか。それとも手術だろうか。特殊メイクという手も考えられる。また最初は私の見間違いとも思ったが、その生物の声を聞く度に脳髄の奥まで体が震え上がるので、この震えは明らかに錯覚ではないと思った。
そしてこの生物のことを明らかに知っているであろう友人の事を待った。私の知る限り、この屋敷には私と友人しかいないはずだ。私がこの牢屋に閉じ込められている以上、目の前の生物を牢屋に入れたのは友人しか考えられなかった。
私が目の前の生物について様々な想像を巡らしていると、友人は私の朝食と共にそれほど待たずにやって来た。今日の朝食は近所のレストランの宅配であった。おそらくそれをレンジで温めたのだろう。プラスチックの容器からは白い湯気が出ている。
私は友人が現れてすぐに目の前の生物の事を聞いた。友人が差し出した弁当を開けもせずに。
友人は言った。彼女は仲間だと。同じ存在になったのだと。
私は言った。どういう意味だと。
友人は詳しく説明してくれた。この生物は元々は友人の恋人であったと。そして友人の最も信頼する知人の一つだと。もしも友人に隠し事があれば最初は私に話し、次に彼女に話すと言った。そして無限の可能性を持つ杯を一人で抱えるのには大きすぎると言い、専攻は違うが同じ医学の研究者である彼女の手を借りたのだ。最初に彼女に説明したのは杯の持つ力と、そこから湧き出る素晴らしい赤い液体。その効能もラットやモルモットの実験で次々と明らかになっている。
ドーピングなどでは考えられないほどの筋力増強。また失った体の部位の再生。それは最新医学でも考えられほどであり、また味もどこかの不味い薬ではなくこの世で最も美味しい美酒だと言った。
だからこそ、彼女もこうなったのだという。
友人は言う。この杯は人の欲望の成れの果てだと。一口飲むごとに訪れる幸福感。それは酒やセックスとは比べ物にならず、また人の一生では足りないほどの充実感が得られる。また赤い液体は飲む度に、人の願望を叶えると言った。友人は体の調子がよくなったと以前に聞いたが、どうやら唸り声を上げる彼女は違ったようだ。
最初に彼女が求めた美貌だった。顔にあった沢山のそばかすを一口目で消し、二口目で目を大きくして、三口目で鼻を高くしたと友人は言った。次は胸を大きくし、腰をくぼませ、臀部を魅力的にし、次は肌を白くし、髪を美しい黒髪にしたという。それだけでも彼女は止まらなかったらしい。次は視力を高めて眼鏡を捨てて、指を長くし、スタイルも変化させた。もちろん顔は小さくした。彼女はどうやら美しくなる度に鏡を見て確認し、恍惚の笑みを浮かべると、また杯から無限に生まれる赤い液体を丁寧に、一滴も残らずコップに移し替えて飲み、また鏡でより美しくなった自分を見る。
友人も最初はそんな彼女の行動を止めなかったみたいだ。何故なら杯から無限に液体は生まれるので、どれだけ彼女が飲もうと問題ないと思ったのだから。
だが、異変は杯からではなく、彼女から現れた。数分間彼女から離れると、知らぬ間に彼女の様子は変わっていた。先程までコップに移し替えた赤い液体を飲んでいたはずなのに、いつの間にか杯に口をつけてごくごくと赤い液体を飲む。そんな赤い液体を飲む彼女の喉は先程まで白魚のようであったのに、いつの間にか血のように赤く染まっていた。その変化は全身に現れており、また頭からは角が生えて、彼女の体は著しく肥大していたと友人は語る。そして先程までやっていた行動は変わらず、赤い液体を飲み、鏡を見ながらうっとりと自分の姿を見つめる。彼女はそんな行動を繰り返す化物となっていた。赤い液体を一口飲む度に彼女の体に異常な変化が訪れる状況を見た友人は、すぐに彼女から杯を奪ったが、彼女は怒りの笑みで友人を睨みつけたという。そこから部屋にある本棚を倒す程の激しい取っ組み合いがあり、筋力を赤い液体で強化している友人が何とか彼女を気絶させることに成功し、このように牢屋に閉じ込めたと言った。
私は言った。やはりこの杯は危険な物なのだと。彼女のような異形の生物を生み出さないためにも、やはりこの杯は廃棄するべきなのだととうとうと友人に語るが、彼は聞く耳を持たなかった。
むしろ赤い液体を飲んだ友人自身が何も体に異常な変化が何もないのだから、彼女が飲み方を間違えたからこうなったのだと失敗を嬉しそうに語り、次は失敗せずにもっと上手くやると言った。
私はその言葉に恐ろしくなった。すぐに友人に人ではなく、ラットやモルモットのような実験体で赤い液体を試してくれと牢屋の中から大声で叫んだが、牢屋の中に彼女を置いた友人は振り返ることなく牢屋から出ていった。
それからまた五度ほど私は寝たのであった。
毎日私は彼女の唸り声がうるさくて、耳障りであったが、この日に私が起きてみるといる牢屋のある地下室から、彼女の唸り声は消えていた。
どうやら私の真正面の部屋にいた彼女は消えたみたいだ。以前と変わらない静けさが、辺りに満ちる。だが、私が気になって彼女がいたであろう牢屋を覗き込むと、彼女が消えた理由が分かった。ひしゃげた鉄格子。正面にできた穴は明らかに人よりも大きい生物が通るための物であり、そこから彼女が逃げたのは明らかであった。何故なら部屋の中は真っ赤に染まり、そして赤い足跡が牢屋から出ていくように続いていたからだ。
私はあのような怪物がこの地下から出たことで、外がどのようなパニックに落ちているのか非常に気になって鉄格子を両手で何度も揺らした友人の名を読んだ。そろそろ朝食の時間の筈だ。早く友人に彼女が逃げたことを知らせて、彼女を世間に出さない方法を友人と考えるしかないと思ったのだ。
私が待っていた友人が来るのは、今日は少しだけ遅れていた。いつも通り友人は私の朝食である宅配弁当をトレイに乗せてきたが、この日はいつもの様子が違った。思わず彼女が牢屋から逃げ出したことを口ごもるほどに、彼は異様な姿をしていた。
何故なら服を真っ赤に染めてトレイを持っている右手とは別の左手に、角の生えた人の首を抱えていたからだ。その首は彼女ではなく、見知らぬ男のものだった。白目を向いて、口から舌がだらしなく飛び出ている。
友人は言った。赤い液体について更なる実験を行ったと。そして得られた結果は大変素晴らしいものだったとも言った。
私は言った。その実験は人で行ったのかと。医学の法で人体実験は禁じられているはずだ。そんな非人道的なことは即刻に辞めるべきだ。君の彼女があんな姿になり、この牢屋から破って抜け出したのだ。町でどんな事をしでかすか分からない。即刻に彼女を止めて、あの杯は処分するべきだと私は語りかけるように言う。
だが、友人は嗤うだけであった。抜け出した彼女が何を求めて外へ出たかは知っていると言った。友人は続けた。あれから老若男女様々な人に杯から湧き出る赤い液体を飲ませたと。ただ前回の彼女の失敗から彼らの大多数に杯は見せずに、例えば道端で試供用として紙コップに入れて配ったり、また屋敷に呼んで高いワインだと言って赤い液体を飲ませたと言った。
実験内容としては素晴らしかったようだ。ある者は記憶力がよくなり、また受験前の学生の中には睡眠時間が少なくなった者もいた。また彼女にように美貌を手に入れた者もいるらしい。その効果は様々であり、赤い液体を飲んだ物の欲望を叶えたと友人は語る。
だが、その欲望を自ら止められた者もいないようだ。彼らはその効果、またこの世のものではない美味しさに一口飲むと、もう一口赤い液体を求めたようだ。そして何杯か飲んでいる内に彼女のように欲望が抑えられなくなり、赤い液体を永続的に求めるように鳴って、それと同時に角が生えて体表が赤くなり、体が肥大したと言った。その姿を友人はまるで桃太郎に出てくる鬼のようだと言い、その姿は大変醜く、そうなった時点で友人は鬼となった人の前から姿を消したようだ。友人が手にしている首も鬼のような姿になった人の一人であり、この首は運悪く友人を見つけたので殺されたと楽しそうに彼は笑いながら言う。
また、友人は鬼になった人の行末も調べたと言った。鬼と鳴った人は最初の内は杯を求めるらしい。赤い液体を求めるらしい。それを探すために誰もいない町を彷徨い歩き、やがて杯が無いことを悟ると発狂して謎の言語を発するようだ。そんな過程を経た鬼は、次に生身の人間に会うと喜々として襲い、その血を啜り、肉を美味しそうに食べると言った。




