手記
だが、友人はその質問を大きく嗤った。この時、友人の口の端に赤い液体がついていることに気がついた。
答えは最初から簡単だったのだ。私はこの時、友人があの赤い液体の、この世のものとは思えぬような甘い香りに誘われて飲んだのだと理解した。また赤い液体を飲んだことで、彼自身が実験体となり、赤い液体が持っている効力をその身で実感したのだと思った。
友人は鉄格子の隙間から赤い液体の入ったガラスの小さなコップを一つだけ置いた。
そして友人は早くそれを飲んで、同じ仲間になろうと言った。
この杯が生む赤い液体を飲めば、天国に昇ったかのような幸福感と、まるで人とは違う生物になったかのような全能感。さらにはそれすらも副産物であるという事に、どうやら友人は大変な感動とさらなる研究をしたいようだ。
友人は言った。
この赤い液体を飲まない者を信用出来ないようだ。同じ存在にならなければ、もしかして裏切るかも知れない。この杯を誰かに譲るかもしれない。この杯の液体があれば、あらゆる病気、あらゆる怪我、果てには死すらも克服し、人間が新しい存在になる可能性があると。実際に友人も長年患っていた腰痛、さらには抜けていた前歯が復活したと語り、その証拠も見せてくれた。
だが、私はその液体を飲む気にはなれなかった。あの優しかった友人が今では別のように見えたからだ。確かに体はよくなったみたいだが、あの優しかった笑顔は無くなり、今では欲望に取り憑かれた獰猛な獣のように口角が上がりながらこっちを見ている。また体も以前は細かったのに対し、筋肉が膨れ上がっているようである。同じような姿になるのなら、私は飲みたくなかった。
そもそも赤い液体がどれだけ希少で有能な物であったとしても、薬や毒のようなものとは一線を画するような得体のしれぬものを口にする気は私にはなく、そっと友人に赤い液体の入ったコップを差し出した。
私は言った。これを飲む気にはなれない。その杯は既に私には興味がないので譲るから、どうかここから出してくれないだろうか。
だが、友人は首を横に振り、こう言ったのだ。もしかしたら私がこの杯の事を世間に公表するかも知れないから、ここからは出せないと。これはどんな薬にも勝る霊薬であり、使い方を間違えなければ例えば不老不死のような人類に更なる神秘と栄光が待っていると。
友人は言った。
この杯、それに赤い液体を研究し、人類に更なる進化をもたらすことが与えられた使命だと。それをこの液体を飲んで気付いたので、早く私にも赤い液体を飲んで、同じ使命に目覚めてほしいと言う。それこそが杯を見つけた私の天命であり、義務であり、そして友人の友達としての願いだと言った。
私が暫く赤い液体を見つめていると、友人はこの牢屋で自分を見つめ直し、同じ使命を持つ覚悟を持ってほしいと言い、地下から消えていった。赤い液体の入ったコップは置いたまま、それから私の牢屋生活が始まった。
この部屋にはベッドとトイレ、それに簡単な机と椅子、それにこのノートとペンしか用意されていない。私は起きてすることが無かったので、日記をつけてみることにした。それ以外にすることが無かったからだ。
それから数日。三回ほど睡眠を取ったが、友人からのアクションは何も無かった。牢屋の中には静けさが広がるばかりである。友人は私の説得にも現れなかった。どうやら赤い液体の研究で忙しいようだ。
そして私が何よりも意外だったのは、友人が毎日の食事を持ってきてくれた事だった。赤い液体を目の前に起き、極度の水分不足からの飢餓状態に私を追い込むことによって赤い液体を飲まそうと考えていると最初は思ったのだが、どうやらそのような低俗で野蛮な行動は古くからの付き合いである私にはしたくないと言った。あくまで私の自由意志で赤い液体を飲み、同じ仲間になって欲しいと言うのだ。
それからまた、四回ほどの睡眠を取った。友人も朝昼夜と一日三食をこの牢屋に届けてくれた。どれも宅配の弁当であるが、どうやら栄養バランスは考えているらしく、野菜の比率が多く味が薄めである。去年に、医者から高血圧の事を注意された私としてはありがたかった。
友人は私に食事を届けてくれる度に、杯、そして赤い液体の研究の進行状況について語った。友人はまず、赤い液体の効能よりもどのような仕組みで無限に赤い液体を生み出しているのかを探ったみたいだ。そもそも永久機関などこの世には存在しない。限りなく近いものはあるが、どれも有限であり、本当に無限のものなど地球上には存在しないのにも関わらず、杯は今のところ永遠に赤い液体を生み出している。自身の容量すらも無視したままに。
それが不可解であり、疑問に思った友人は杯を徹底的に調べた。すると友人の今までの医学の知識、それに研究の経験から一つの答えにたどり着いたという。
杯は骨角器ではなく、骨そのものであり、未だにこの骨角器は生きていると。つまりこれは何らかの生物の骨であり、私達人間が骨髄の中から血液を作るように、杯も赤い液体つまり血を生み出していると言った。友人自身も信じられないことであり、いくら調べてもそうとしか考えられないのだ。そもそも顕微鏡で杯を調べてみると見た目には何の変化もないが、未だに細胞分裂を目まぐるしく行っているようだ。その証拠に杯の表面に傷がつけば自己修復すると証拠まで語った。
そして友人は言った。
この杯が生物の骨であるならば、繋ぎ目もないこの骨を持つ生物は調べてみた所地球上には一つも存在しないと。それは友人曰く、骨の持ち主は現代にはおろか地球上にかつていた恐竜やその他の巨大生物、いずれにも属さない骨の特徴を持っているらしい。それは骨の主成分がリン酸カルシウムではなく、どうやら未知の元素、物体で構成されており現代の科学でもどんな元素で構成されているか不明らしい。友人曰く、もしかしたらまだ地球上では誰も発見していない元素でこの杯は出来ていると言った。
私はどうしてそんな物が地球にあったのか、どこからもたらされたのか、考古学の観点から非常に興味があったが、この牢屋では調べることも出来ず、私は友人にここから出すように懇願することしか出来なかった。
だが、友人が私を牢屋から出すことは無かった。友人は、赤い液体を飲み同じ仲間になればここから出す、と言うことは変わらない。
それから私は何回か寝た。
いつもは地下の牢屋の中には私しかいないので、朝起きてみても静寂の中に私の生あくびの声が虚しく響くだけであるが、この日は違った。朝目が覚めると、低い唸り声が聞こえたのだ。その唸り声は、聞いた瞬間に私の脳髄まで染み渡り、心の奥から恐怖が湧き上がる。ぞっとしたようにベッドの上から体を跳ね上がらせた。そして私がいる狭い牢屋の中で声から一番遠い位置まで移動する。ベッドの上にあった薄い掛け布団を頭から被り、唸り声がする方向にゆっくりと目を向けた。
場所は、私のいる牢屋の真向かいの牢屋であった。その部屋の中心で端座し、こちらを真っ直ぐ見ているのは、人の形であったが、明らかに人の形ではなかった。歪に膨れ上がった右足と左腕。頭部に生えた二つの角。そして人のものとは明らかに違う大きく発達した犬歯。
私は過去の知識が蘇った。類人種だろうか。かつてこの地球にいた人と猿の間の種だ。だが私の記憶の中に類人種、また猿であっても角を生えた生物はいない。私は好奇心から薄い掛け布団を退けて鉄格子まで近づいた。
この時、私は確かに自分の目を疑った。
その生物は確かに人の原型を伺えたのだ。例えばその生物が来ている服もそうだ。白いワンピースを着ていた。裸足には青いマニキュアが塗られた名残があり、両耳にはピアスがつけられてある。かつては女性だったのだろうか。細い唇。薄い眉。切れ長の目。中々の美人だった形跡が見られるが、現在のその生物は人ではなかった。
私はあれを、私と同じ人とは呼びたくなかった。人と呼べるには、あまりにもかけ離れていたからだ。皮膚が裂けて滲み出る赤い肌。太く発達した指。人のものとは思えない、まるで血が避けるような唸り声。
人と呼ぶにはあまりにもお粗末であった。




