杯
三月二十九日。
この日、私は恐るべきものを手に入れてしまった。
それは一見するに骨で出来た骨角器のようにも思えた。私は考古学者なので、そのようなものは数多く見たことがある。骨角器自体は日本でも数多く出土しているので、様々な物を私は見てきた。例えば、狼の骨で造られた釣り針、鹿の骨で造られた弓の矢じりや装身具、また骨角器そのものは日本特有の物ではなく、海外でも多く見られる。中国、ヨーロッパなど、太古の人々にとって骨というのはありふれた素材だったのだ。
私が見つけた恐るべき物も、骨でできていたのは間違いなかった。それは美しい白色をしていた。また硬く軽い素材であり、表面がすべすべとしている。さらに骨で作られているそれには、一つの繋ぎ目もない。どうやらこの骨角器は骨を削り出して作り出されたものらしく、大きさ自体も片手に収まるほどであった。
私が見つけた骨角器は、杯つまりコップの形をしていた。それも円柱状であり、中だけが綺麗にくり抜かれている。さらに最近作られたものでもないのに、その杯は表面に傷一つ無い綺麗な保存状態であった。私はそれを見た時、最初は昔の人が作ったであろうただのコップつまり杯と考えたが、この杯には恐るべき特性が隠されていた。
その特性を見つけたのは、私がその杯を手に入れて中を覗いた時だった。私がこの杯に何かを入れた記憶はない。そもそも私は杯を観察する時にあらゆる角度からルーペを使っていたので、何度も逆さにしたりひっくり返したりしたのだから、中身は何も無いはずであった。
だが、私が杯の中を覗き込むと恐るべきことに、その杯は赤い液体で満たされていた。私は最初自分の見間違いかと思ったが、どうやら違うようだ。確かにその杯には赤い液体が入ってあった。その液体は濃厚なワインやブランデーのように、いやそれ以上に芳醇で舌を擽るような甘い匂いがしたが、私は突如として現れたそれを不気味に思い、飲むことはなかった。私はその液体の正体が知りたくて、それを瓶に移した。そして私はまたしても不可解な現象を目にした。私は全ての赤い液体を瓶に移したはずなのに、私が再度杯を覗き込むとやはり杯は赤い液体で満たされていた。
私はこの杯の現象を目にすると、一つの伝説が脳裏に蘇った。
聖杯伝説だ。何も無い所から赤い液体を生み出すなど、神の御業である。どうやら杯は無限に赤い液体を生み出しているらしく、私が用意した瓶は十本ともすぐに全てが満たされ、それでも杯からは覗き込む度に赤い液体が満ちている。その全ての液体の体積は杯を明らかに超えていた。それなのに、杯から赤い液体が尽きる事はなかった。
私は聖杯らしきものを手に入れたことに感動を覚えるよりも、恐怖を感じてしまった。私はそれほど神への信仰心が高くなく、聖杯らしきものを手に入れるとありがたさよりも先に、得体の知れない物へのそれも私の常識が通じないものへの恐ろしさが生まれてしまった。
これは夢なのだろうか。それとも私の頭がおかしくなったのだろうか。今までの常識、また学者として数々の知を得てきた私にとって、その杯は私の知っているこの世界で普遍的な法則――例えば質量保存の法則が通じないことで、私一人がおかしくなったのではないかと言う発想に至ったのだ。だが、私が杯のことは嘘だっただろうと思って杯を覗く度に赤い液体はその中に満ちる。そしてそれをまた開いている容器に移す。この頃には瓶ではなく、石油を入れるタンクに入れるようになっていた。
そして私は遂にこの杯を一人で抱え込むことに精神的に押しつぶされて、やがて一人の友人に相談したのだ。彼とは高校の時に知り合い私は考古学の道に進んだが、彼は医学の道に進んだ。その中でも彼は医者になるよりも研究の方に興味を示したらしく、人体、並びに病のことについて日夜熱心に他の研究者たちと徹夜で頑張っていると聞いている。分野こそ違うもの彼は私と同じ学者であった。彼は私のように未だにうだつの上がらない特に功績もなく、出身大学の権威だけでのし上がってきた考古学者とは違い、一流の大学、博士号取得、それに最近では世間に未発表であるが、ガンの特効薬を見つけたらしいと聞いた。
私の気のおける友人として、彼にこの杯のことを相談することにした。
彼は快く私の相談に乗ってくれた。最初は電話であった。彼はどうやらその時は海外にいるらしく、杯の詳しい情報、それに赤い液体についての詳細について求めてきた。そして私は液体の検査方法など知らなかったので、彼に電話で指示を仰ぎながら液体のことを調べることにした。
最初に用いたのはリトマス試験紙だ。酸性かアルカリ性かを調べてみたが、どうやら中性のようでどちらにも反応は示さなかった。また友人は赤い液体を蒸発させてどんな物質が出るか知りたかったようで、友人の指示通りに私はそれを試験官で蒸発させてみた。すると、ある程度沸騰し、オレンジの煙が発生した。私はそれを毒物か何かかと思い、すぐに沸騰させることを止めて換気扇を回し、外に出て深呼吸をした。だがどうやらオレンジの煙を吸い込んでも体に不調はなかった。むしろ気分がよくなり体が軽くなったような気がして、その感覚がお酒を飲んだ時と似ており、それを友人に報告すると、「今度は日本に帰ってから話そう。それまで、この事は誰にも言わないほうがいいと言われた。
私は友人の言うとおりに行動した。それから友人が仕事を終わるまでに二週間ほどかかっただろうか。私は学者としての仕事に精を出し、家に帰らない日が続いた。そして友人と会う約束の日に、もう一度確認として杯を覗き込んでみるが、やはり杯には赤い液体が満ちていた。
友人はどうやら液体を調べる装置を色々と用意していたみたいだ。その中には、空港にあるような液体を調べる装置があった。また幾つかの液体は、特定の物質と反応するようにできているのでそれを使って赤い液体を調べるらしい。また顕微鏡などの機材と共に、私の見つけた杯が本当に骨で作られているのかを調べる装置を、だがどれも簡易的な物であり、本当に詳しく調べるなら大学に持っていくしかないと友人は語っていた。
そして私は杯を友人に見せた。彼はすぐに杯へと近づこうとしたが、それを手で止めて、まずは杯をひっくり返したところを見せた。そして何も落ちないことを友人に確認してもらってから友人に杯を渡した。
友人はこの時、たしかに驚きのあまり嗤っていたと思う。
友人はすぐに杯の中に赤い液体が満ちていることを確認すると歓喜の声を上げて、用意していたビーカーに赤い液体を注いだ。一杯、二杯、三杯で止めると今度は杯の特定に急いだ。友人は機材の準備、またどの特定方法から行うかをまずは外見を何度も観察しながら友人は楽しそうにノートへと乱暴な字で吟味していた。
それを見て途中で飽きた私は、暫くの間友人がいる部屋を離れて仮眠を取ることにした。友人もそのほうがいいと言い、聞いたことがないような喜び声を上げるのを聞きながら私はその部屋を後にして、ベッドの上で眠りについた。
そして私は目が覚めると、この鉄格子のついた牢屋にいたのだ。扉には鍵が賭けられてある。誰の仕業だと最初は思ったが、犯人は一人しかいなかった。友人だ。何故なら今この家には私と友人しかいないからである。最初は鉄格子を何度も揺らしてみるが、やはり鉄格子は音を立てるだけでびくともしなかった。
私は固いベッドへと腰掛けて、友人が来るのを待った。それからどれだけ経ったかは分からない。ロウソクしか明かりのない薄暗い地下室の牢屋の中で、まともな時間感覚など私は持ち合わせていなかった。
やがて友人はロウソクの火が灯しある燭台を持って地下室へと現れた。もう一方の手にはあの杯を持ったまま。
私は言った。現れた友人に対して、どういうつもりでこんな事をしたのだと。
友人は言った。この杯は素晴らしいものだと。
質問の答えになっていなかったが、友人はそれから杯について語る。特に友人は赤い液体の効能について述べた。どうやら友人は赤い液体を見た時に、本能的にそれを口にしたくなったようだ。だが、正体不明の液体を口にするには勇気がいるので、まずは持ってきたマウスに飲ませてみるとマウスはごくごくと赤い液体を飲み、体が筋肉で異常に膨れ上がり、マウスは入っていた飼育ケースを突き破ったという。どうやらプラスチックのケースを簡単にネズミは抜け出したようだ。すぐに友人が始末したようだが、その恐るべき効能について、友人はこのように説明した。
友人は医学の知識から、この赤い液体は毒や薬に似ていると言う。その高価はドーピングのような効果であり、また友人が知る限りどんなドーピングよりも強力で、飲んだ者に人知を超える力を授けるようだ。そんな夢のような液体を無限に生み出す杯も、友人は大変素晴らしいものだと語った。
私は言った。どうして短時間の間に赤い液体が素晴らしいものだと分かるのだ? もしかしたら何か副作用がある危険な物かも知れない、と。




