第7話 ナルシス王立魔法学校
「お嬢様、こちらでよろしいでしょうか」
鏡越しに声をかけられ、ヴェティアは顔を上げた。
背後に立っているのはアンナだった。
淡い色合いの制服に合わせ、髪は丁寧に整えられている。その横には、小さな髪飾りが一つ。
ヴェティアは鏡の中の自分を確認した。
「……ええ。ありがとう」
「はい」
アンナが一歩下がる。
それだけだった。
笑顔を向けられたわけではない。
けれど以前のように、ヴェティアが少し動いただけで身体を強張らせることもなくなっていた。
腕の怪我はほとんど治り、仕事にも少しずつ戻っている。
必要な仕事をする。
必要な言葉を交わす。
そして、必要以上には近づかない。
今の二人は、そんな距離にいた。
「鞄は?」
「こちらにございます」
「ありがとう」
差し出された鞄を受け取る。
アンナの指先へ触れない程度の距離。
ヴェティアはそれ以上何も言わなかった。
以前のような関係へ戻りたい。
そんなことを自分の都合で求めるつもりは、もうなかった。
「行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
アンナが頭を下げる。
ヴェティアは一度だけ振り返り、それから部屋を出た。
今日から、ナルシス王立魔法学校での生活が始まる。
◇
馬車が正門をくぐった瞬間、ヴェティアは思わず窓の外を見上げた。
白い石造りの校舎。
高くそびえる塔。
広い中庭。
王国各地から集まった、大勢の新入生。
(……本当にある)
見覚えがあった。
もちろん、ヴェティアとしてここへ来たことがあるわけではない。
宮田茜として、画面の向こうから何度も見ていた場所だ。
ヒロインが王子と出会う場所。
多くの人物との関係が始まる場所。
そして、原作のヴェティアが少しずつ取り返しのつかない道へ進んでいく場所。
馬車が止まる。
扉が開き、ヴェティアが外へ降りた。
その瞬間、周囲からいくつもの視線が向けられた。
「ブュッフェ公爵令嬢よ」
「第一王子殿下の婚約者でしょう?」
「でも、あの方……」
そこで声が小さくなる。
聞こえないふりをした。
何を言われているのかは分かっている。
ブュッフェ公爵家の令嬢。
第一王子ロンド・ナルシスの婚約者。
火、水、風、土。
四つの属性すべてへ高い適性を持つ魔法の才女。
それだけでも、十分に目立つ。
けれど今のヴェティアには、もう一つの評判があった。
使用人へ魔法を向け、怪我をさせた令嬢。
事件の細かな経緯まで知られているわけではない。
だが、公爵家が事件そのものを隠さなかった以上、ヴェティアが問題を起こしたという噂まで消えるはずもなかった。
そもそも、事件以前から自分の評判は決して良くない。
傲慢。
我儘。
気に入らない相手には容赦がない。
どれも、誰かが勝手に作った悪評ではない。
自分が積み重ねてきたものだった。
(まあ……見るよね)
胸が痛くないと言えば嘘になる。
けれど、ほんの短い間、態度を改めたくらいで、
『全部誤解だったんだ』
などと思ってもらえる方がおかしい。
今さら一人ずつ捕まえて弁解するつもりもなかった。
何を言われるかは、自分には決められない。
決められるのは、今日、自分が何をするかだけだ。
ヴェティアは背筋を伸ばし、校舎へ向かって歩き出した。
「ヴェティア」
ほどなくして、聞き慣れた声がした。
顔を向ける。
「ロンド様」
第一王子ロンド・ナルシスが立っていた。
王宮で会って以来だ。
ヴェティアと同じ十六歳。
今日から同じ学校へ通う、婚約者。
幼い頃から何度も顔を合わせてきた人物であり、宮田茜としては画面越しに何度も見てきた攻略対象でもある。
その二つの記憶が重なる感覚には、まだ少し慣れなかった。
「今日からだね」
「はい」
「緊張している?」
「……少し」
素直に答えると、ロンドがわずかに目を瞬いた。
以前のヴェティアなら、
『私が緊張するわけありませんわ』
くらいは言っていただろう。
けれど実際、今日は普通に緊張している。
「そう」
ロンドはそれ以上、何も言わなかった。
「じゃあ、また後で」
「はい」
短いやり取りだけを残し、先へ歩いていく。
婚約者ではある。
婚約も継続された。
だからといって、二人の関係まで以前と同じに戻ったわけではない。
『僕は、まだ君を信用していない』
王宮で言われた言葉を、ヴェティアは覚えている。
当然だと思う。
だから今は、婚約者なのだからもっと親しくしてほしいとも、自分を信じてほしいとも言わない。
ロンドが見ると言ったのなら、自分は自分の行動を選び続けるだけだ。
ヴェティアも校舎へ向かおうとした。
そのときだった。
視界の端に、一人の少女が入った。
「……」
足が止まった。
新入生たちの中、少し離れた場所に一人の少女が立っている。
華美ではない制服。
両手でしっかりと握られた鞄。
周囲を見渡すたび、どこか落ち着かない様子で視線が揺れている。
けれど、その顔をヴェティアは知っていた。
(……ルミエ)
何度も。
何十回も。
画面越しに見てきた少女。
ルミエ・セルメール。
平民の家に生まれながら、非常に珍しい光魔法への適性を認められ、特別な支援を受けて王立魔法学校へ入学した少女。
そして、この乙女ゲームの主人公。
原作では、ここからロンドと出会い、大聖女ミュゲと出会い、やがて聖女への道を進む。
そして最後には、鮮血姫となったヴェティアを倒す。
(本当に……いる)
胸の奥がざわついた。
宮田茜は、ルミエが好きだった。
真面目で、努力家で、自分の境遇が恵まれていなくても何でも誰かのせいにはしない。
失敗すれば落ち込む。
けれど、次に自分が何をすればいいのかを考える。
そんな少女だった。
だからこそ、そのルミエを妬み、傷つけ、何もかも彼女のせいにするヴェティアが嫌いだった。
けれど今、目の前にいる少女は、記憶の中にいる堂々とした『ヒロイン』とは少し違って見えた。
鞄の持ち手を握り直す。
近くを通った上級生へ慌てて道を譲り、ぺこりと頭を下げる。
大きな校舎を見上げ、少しだけ不安そうに息を吐いた。
(……緊張してるんだ)
そんなこと、ゲームでは考えたこともなかった。
画面に登場したとき、ルミエはすでに『主人公』だった。
けれど今は、初めての学校へ来たばかりの十六歳の少女だ。
(……普通の女の子なんだ)
当たり前のことだった。
なのに、その当たり前が妙に胸へ残った。
そのとき、ルミエがこちらを向いた。
「……!」
目が合った。
一瞬だけ。
ルミエの表情が、わずかに強張ったように見えた。
ヴェティアは息を呑む。
(私のこと……知ってる?)
公爵令嬢。
第一王子の婚約者。
そして、評判の悪い令嬢。
どれを聞いていても、おかしくない。
ルミエは少し迷ったあと、小さく会釈をした。
ヴェティアも反射的に会釈を返す。
それだけだった。
話しかけない。
近づかない。
ルミエもそのまま校舎へ顔を向け、人の流れへ混ざっていった。
ヴェティアはその背中を見送った。
原作では、自分はあの少女を憎む。
ロンドを奪われたと思い込み、平民のくせにと見下し、嫌がらせを始める。
けれど今なら分かる。
ルミエがロンドを奪ったのではない。
原作のヴェティアは、自分自身の行動でロンドとの関係を壊していった。
その後、ルミエはルミエで努力し、人を助け、功績を積み重ね、自分の力で未来を手に入れた。
宮田茜だった頃は、そんなこと分かっていたはずなのに。
ヴェティアとして生きる今になって、ようやくそれを自分自身の問題として考え始めている。
それでも。
(……関わらない方がいい)
今のヴェティアは、そう判断した。
嫌うつもりはない。
もちろん、傷つけるつもりもない。
けれど、だからといって積極的に近づく必要もない。
未来は変えられる。
それはもう分かった。
だが、原作と正反対のことをすれば、それだけで正しい未来になるわけではない。
ロンドとの関係も、自分の人生も、これからどうなるのか分からない。
まして原作の中心人物であるルミエと親しくなれば、未来はもっと読めなくなるかもしれない。
(静かにしていよう)
余計なことはしない。
ルミエを敵にもしない。
けれど、自分から近づきもしない。
自分のするべきことをして、できるだけ穏やかに過ごす。
(……うん。それが一番いい)
そう決めて、ヴェティアは校舎へ向かって歩き始めた。
数歩進んだところで、なぜか一度だけ振り返った。
もうルミエの姿は、人混みの向こうへ消えていた。
原作ヒロイン。
未来の聖女。
ロンドと結ばれる少女。
自分を倒す相手。
知っている言葉はいくつもある。
けれど。
今、ヴェティアの頭に一番強く残っていたのは、そのどれでもなかった。
初めての学校で。
少し不安そうに鞄を握っていた。
自分と同じ十六歳の、一人の少女だった。




