第6話 変わった未来
王宮での面会から、しばらく時間が経った。
その間、ヴェティアの日常が大きく変わったわけではない。
朝になれば起き、食事をする。魔法の訓練をして、入学を控えたナルシス王立魔法学校の準備を進める。
両親と顔を合わせ、使用人たちに身の回りの世話をしてもらう。
以前と同じ、公爵令嬢としての日常だった。
けれどヴェティアにとっては、その「以前と同じように過ごす」ことの方が難しくなっていた。
「お嬢様、こちらへ置いてよろしいでしょうか?」
「ええ。お願い」
「かしこまりました」
使用人が本を机へ置く。
ただ、ヴェティアが頼んだ順番とは違っていた。
一瞬だけ、胸の奥に苛立ちが湧く。
(違うのに)
こちらを先に置いてほしいと言った。
どうして言った通りにできないの。
そんな言葉が、反射的に浮かんだ。
ヴェティアは口を閉じ、一度だけ息を整える。
「ごめんなさい。一冊だけ、こちらへ移してもらえる?」
「はい」
それだけで済んだ。
使用人が本を動かす。
「ありがとう」
「……はい」
相手が少し驚いた顔をした。
こういう反応は、まだ時々ある。
そのたびに胸の奥がわずかに痛んだ。
今まで、どれだけ「ありがとう」と言ってこなかったのだろう。
どれだけ、人に何かをしてもらうことを当然だと思っていたのだろう。
(急には変わらない)
それは、もう分かっている。
怒らなくなったわけではない。
自分勝手な考えが浮かばなくなったわけでもない。
気に入らないことがあれば、今でも誰かのせいにしたくなる。
ただ、そのまま口に出す前に一度止まる。
(誰が悪い?)
ではなく。
(私は、どうすればいい?)
そう考え直す。
簡単なようで難しい。
それでも、一つずつ繰り返すしかなかった。
◇
アンナの怪我は、順調に回復していた。
治療費はブュッフェ公爵家が負担し、休養中の給与も予定通り支払われている。必要な治療についても、父アルベールが手配してくれた。
だからといって、ヴェティアとアンナの関係まで元に戻ったわけではない。
「お嬢様」
ある日、廊下の向こうからアンナが歩いてきた。
腕の怪我はかなり良くなっているようだったが、以前のようにヴェティアの身の回りの仕事へ戻ってはいない。
まだ負担の少ない仕事を任されているのだろう。
ヴェティアは、それでいいと思っていた。
「アンナ」
「はい」
アンナが足を止める。
以前ほどあからさまに怯えてはいない。
それでも、身体にはまだわずかな緊張が残っていた。
ヴェティアは距離を詰めなかった。
「腕はどう?」
「もう、ほとんど問題ございません」
「そう。無理はしていない?」
「はい。皆様にも気遣っていただいております」
「なら……よかった」
「はい」
会話は、それだけだった。
以前のヴェティアなら、もっと話せと命じていたかもしれない。
いつまで怖がっているのだと、腹を立てたかもしれない。
けれど今は、アンナがこれ以上話したくないのなら、それでいいと思える。
「引き止めてごめんなさい。仕事へ戻って」
「……はい」
アンナが頭を下げ、静かに歩いていく。
ヴェティアはその背中を追わなかった。
(まだだよね)
謝った。
治療を受けてもらった。
休養も、給与の補償もした。
けれど、それは傷つけた側がするべきことをしただけだ。
だからといって、アンナが自分を許さなければならない理由など、どこにもない。
ヴェティアは歩き去るアンナを見送ると、自分も反対方向へ歩き出した。
◇
「最近は、どうだ?」
夕食後、父にそう尋ねられた。
「どう、と言いますと?」
「お前自身のことだ」
アルベールは短く答えた。
母セレスティーヌも、静かにヴェティアを見ている。
「……よく分かりません」
ヴェティアは正直に答えた。
「分からない?」
「はい」
変わった、と自分から言う気にはなれなかった。
「以前より、怒る前に少し考えるようにはしています。でも、腹が立たなくなったわけではありません」
むしろ、自分の感情へ目を向けるようになったからこそ、どれだけ身勝手な考えが浮かんでいるのか分かるようになった。
「誰かのせいにしたくなることもあります」
セレスティーヌがわずかに表情を変える。
「それでも?」
「そのまま相手へぶつけないようにはしています」
ヴェティアは少し迷ってから続けた。
「……今までの私は、思ったことをそのまま相手へぶつけていたので」
「そうですね」
母の返事は容赦がなかった。
「あなたは昔から、気に入らないことがあるとすぐ顔にも言葉にも出していました。注意をすれば、今度は私たちへ怒りましたね」
「……はい」
耳が痛い。
けれど、否定できない。
セレスティーヌはそんな娘をしばらく見つめたあと、静かに言った。
「少なくとも、今は聞けるようになったようですね」
それだけだった。
褒められた、というほどの言葉ではない。
それでもヴェティアは、なぜか少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「……はい」
父もそれ以上は何も言わなかった。
完全に信じられたわけではない。
今は、それでよかった。
◇
そして、その日が来た。
「ヴェティア」
父に呼ばれ、ヴェティアは書斎へ入った。
母もいる。
机の上には、王家から届いた封書が置かれていた。
それを見た瞬間、身体が強張る。
「王宮から……ですか?」
「ああ」
アルベールが頷いた。
「お前とロンド殿下の婚約について、正式な判断が届いた」
心臓が大きく鳴る。
とうとう来た。
王家はこの間、ブュッフェ公爵家からの報告だけで判断していたわけではない。
アンナを診た医師。
当時屋敷にいた使用人たち。
そして、アンナ本人。
それぞれから必要な範囲で話を聞き、事件後の補償やヴェティアの振る舞いについても確認していた。
ロンドからも、王宮でのヴェティアの様子について話を聞いているはずだ。
それらを踏まえた上での、正式な結論。
記憶にある物語では、この先でヴェティアの人生は崩れていく。
婚約を失い、ロンドを失い、それをルミエのせいにして、少しずつ取り返しのつかない方向へ進んでいった。
(大丈夫)
自分へ言い聞かせる。
もし婚約を破棄されても、受け入れる。
自分がしたことの結果なら、逃げない。
そう決めたはずだった。
それでも。
(嫌だ)
心の底では、やはり思う。
失いたくない。
ロンドのことが好きだった。
ヴェティアとして、幼い頃からずっと。
婚約者としてそばにいて、いつか彼の妻になるのだと信じてきた。
その想いが、やがて歪んだ執着へ変わっていく未来も知っている。
それでも今、ロンドを失うことが怖いという気持ちまで嘘になるわけではなかった。
「読み上げるぞ」
「……はい」
アルベールが封書へ視線を落とす。
ヴェティアは膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「今回のアンナ・ローレルへの加害について、王家は重大な問題として扱う」
「はい」
「医師、使用人、アンナ・ローレル本人への確認により、公爵家から報告された事件の経緯について、大きな相違は認められなかった」
ヴェティアは黙って続きを待った。
「また、事件後の治療、休養、給与補償についても適切に行われていること。お前自身が事件を隠さず、自らの加害を認め、その後も使用人へ同様の行為を行っていないことについても確認されている」
胸が小さく鳴った。
許されたわけではない。
けれど、見られていた。
王家は王宮での一度の言葉だけではなく、その後の自分まで確かめていたのだ。
「その上で、ヴェティア・ブュッフェが将来王家へ入る可能性のある立場である以上、今後もその行状を継続して確認する。また、今後同様の行為が確認された場合、第一王子ロンド殿下との婚約について改めて検討を行う」
当然の判断だった。
ヴェティアは次の言葉を待つ。
「その上で――」
父が一度だけ娘を見る。
「現段階では、婚約を解消しない」
「……え?」
思わず声が漏れた。
「今……何と?」
「婚約は継続する」
「……」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「継続……?」
「ああ」
婚約破棄は、されない。
「……本当に?」
「王家からの正式な判断だ」
アルベールの声は変わらない。
ヴェティアだけが動けなかった。
(違う)
記憶にある未来とは違う。
ゲームでは、この事件がロンドとの婚約を失う大きな原因になった。
そしてヴェティアは、そのまま破滅へ向かって進んでいった。
けれど、今は婚約が続いている。
「どうして……」
思わず呟くと、アルベールの眉が動いた。
「どうして、とは?」
「あ……いえ。何でもありません」
ゲームでは婚約破棄されたから。
そんな説明ができるはずもない。
ヴェティアは視線を落とした。
何か特別な力が働いたのだろうか。
自分が転生者だったから。
宮田茜の記憶を取り戻したから。
だから未来そのものが勝手に書き換わった?
(違う)
そんな都合のいい話ではない。
アンナを傷つけた事実は何も変わっていない。
王家も、その行為を許してはいない。
今後の行動次第では婚約を改めて検討すると、はっきり告げられている。
では、記憶にある未来と何が違ったのか。
(……その後の私が、違うことを選んだ)
アンナを傷つけたところまでは同じだった。
けれど、そのあと事件を隠さなかった。
アンナのせいにしなかった。
治療と休養を受けてもらった。
両親にも自分から話した。
王家の前でも、自分がしたことを認めた。
そして、それ以降も完璧ではないなりに、自分の振る舞いを選び直そうとしてきた。
もちろん、それだけで今回の結果が決まったわけではない。
両親の対応もある。
医師や使用人の証言もある。
アンナ本人の言葉も。
王家の判断も。
ロンドの考えも。
いくつもの事情を確かめた末に出された結論だ。
それでも。
事件のあとも記憶にあるヴェティアと同じように責任を押しつけ、反省することもなく振る舞い続けていたなら。
きっと、同じ結論にはならなかった。
「……変わった」
「ヴェティア?」
母が呼ぶ。
ヴェティアはゆっくり顔を上げた。
「いえ……何でもありません」
けれど、初めて実感した。
(未来が変わった)
最初から、すべて決められていたわけではない。
ゲームで知っている出来事は、絶対ではない。
少なくとも、自分が違う選択をすれば、その結果も違うものになる可能性がある。
胸の奥から、強い安堵が込み上げた。
(じゃあ……)
破滅しなくてもいい?
鮮血姫にならなくてもいい?
死ななくてもいい?
ルミエを憎まず、王権派と手を組まず、人体実験などせずに生きていける?
嬉しかった。
素直に、そう思った。
けれど、その直後。
『来ないで……!』
アンナの声が蘇った。
「……」
浮かびかけた笑みが消える。
未来が変わったからといって、過去まで変わったわけではない。
アンナを傷つけたことは消えない。
婚約が続くからといって、あの事件が許されたわけでもない。
そして、もう一つ。
(破滅しないために、か)
それだけを目的に人へ優しくするのなら、結局また自分のことしか考えていないのではないか。
宮田茜だった頃も。
ヴェティアとして生きてきたこれまでも。
自分がどうしたいか。
自分が損をするか。
自分が傷つくか。
そこばかりを見ていた。
破滅回避だけを新しい目的にしたところで、根っこの部分まで変わったことにはならない。
(……難しいな)
未来は変えられるかもしれない。
けれど、どう変えるのか。
そこまではゲームも教えてくれない。
「ヴェティア」
父の声で顔を上げる。
「婚約が継続されたからといって、今回の件が終わったわけではない」
「はい」
「そこを間違えるな」
「分かっています」
今度は迷わず答えられた。
「アンナにしたことは、婚約がどうなったかとは別です」
アルベールがほんの少し目を細める。
「そうか」
短い返事だった。
それ以上、何も言わなかった。
◇
自室へ戻ったヴェティアは、机の上へ一枚の紙を広げた。
記憶にあるゲームの流れを書き出したものだ。
その最初の方に、
婚約破棄。
そう書いてある。
「……起きなかった」
小さく呟いた。
未来は決まっていない。
なら、この先も記憶にある通りになるとは限らない。
いや。
もうすでに、変わり始めている。
ゲームでは、次に物語が大きく動き始める場所がある。
ナルシス王立魔法学校。
ヴェティアも、間もなくそこへ入学する。
そして、そこには一人の少女がいる。
「ルミエ・セルメール……」
ゲームの主人公。
平民の家に生まれ、非常に珍しい光魔法へ目覚め、その力を認められて王立魔法学校へ入学する少女。
宮田茜だった頃、好きだったキャラクターだ。
努力家で、優しく、自分の境遇を誰かのせいにしない少女。
そして、記憶にある物語でヴェティアが最も憎むことになる相手でもある。
ロンドを奪ったと逆恨みし、何度も傷つけ、最後には殺そうとする。
「……会うんだ」
ゲームの画面越しではない。
今度は、本当に一人の人間として。
同じ場所で。
ヴェティアは紙を見つめた。
未来が決まっていないのなら、ルミエとの未来だって同じである必要はない。
ただ、どうなるのかはもう分からない。
少し怖い。
それでも以前とは、違う種類の怖さだった。
ヴェティアは紙を静かに畳んだ。
未来は変えられる。
けれど、過去にしたことまで消えるわけではない。
だからこれからも選ばなければならない。
一度ではなく、何度でも。
自分が、どう生きるのかを。




