第5話 婚約者の目
王宮へ向かう馬車の中で、ヴェティアはほとんど口を開かなかった。
向かいには父アルベール。隣には母セレスティーヌが座っている。
誰も「大丈夫だ」とは言わなかった。
それが、今はありがたかった。
何を言われても、きっと素直には受け取れなかったからだ。
膝の上で重ねた指先が冷たい。
(婚約破棄……)
何度考えないようにしても、結局そこへ戻ってくる。
記憶にある物語では、アンナへの加害が王家へ知られたことをきっかけに、ロンドとの婚約は大きく揺らいだ。
そして、魔法学校へ入学したあと、正式に破棄される。
(今回も……)
そうなるかもしれない。
いや、普通に考えれば、そうなってもおかしくない。
第一王子の婚約者。将来、王家へ入る可能性がある人間。
その自分が、たった一着のドレスを汚されたという理由で侍女へ魔法を向けたのだ。
それだけ聞けば、自分だってそんな人間を王族へ迎えたいとは思わない。
「ヴェティア」
父の声に顔を上げる。
「はい」
「まだ間に合ううちに確認しておく」
アルベールは真っ直ぐ娘を見た。
「陛下の前で、私から説明することもできる」
「……」
「お前自身が話す必要はない」
助け舟なのだと分かった。
公爵家当主である父が、家として事件を報告し、必要な説明をする。それ自体は何も不自然ではない。
むしろ父に任せた方が、きっと上手く話してくれる。
余計なことは言わず、自分に不利になるような言葉を選ぶこともないだろう。
「……いいえ」
ヴェティアは首を振った。
「私が話します」
アルベールは何も言わなかった。
代わりに、セレスティーヌがそっと娘を見る。
「怖くはありませんか?」
「怖いです」
即答だった。
「とても。でも……私がしたことなので」
母の目がわずかに揺れる。
「私の口から話します」
それ以上、誰も何も言わなかった。
◇
案内された部屋へ入った瞬間、ヴェティアは息を止めそうになった。
国王オーギュスト・ナルシス。
王妃マリアンヌ・ナルシス。
そして、第一王子ロンド・ナルシス。
三人が待っていた。
見慣れたはずの顔だった。
特にロンドとは、ヴェティアとして何度も会ってきた。
婚約者。
幼い頃から、いつか結婚する相手なのだと教えられてきた人。
そして宮田茜としても、ゲームの画面越しに何度も見てきた。
(本当にいる)
そんな今さらな感想が浮かぶ。
ゲームの立ち絵ではない。
ロンドは今、険しい表情でヴェティアを見ていた。
「ブュッフェ公爵。公爵夫人。それから、ヴェティア嬢」
オーギュストの低い声が響く。
「掛けなさい」
「はい」
勧められた席へ座り、ヴェティアは背筋を伸ばした。
逃げたい。
今すぐ、ここから。
「公爵から報告は受けている」
オーギュストが言った。
「だが今回は、ヴェティア嬢本人から話を聞く。事実と異なる点があれば、その場で訂正しなさい」
「承知いたしました」
思ったよりも、声は震えなかった。
「では聞こう。侍女アンナ・ローレルが負傷した件について、お前自身の言葉で説明しなさい」
来た。
ヴェティアは膝の上で指を握る。
「アンナが、私のドレスへ紅茶をこぼしました」
「それで?」
「私は怒りました」
視線を逸らしたくなる。
特に、ロンドから。
「そのドレスは……ロンド殿下にお会いするときに着たいと思っていたものでした」
口にした途端、恥ずかしさで顔が熱くなった。
そんな理由で、人を傷つけたのだ。
「私は腹を立てて、アンナを罰しようとしました」
オーギュストもマリアンヌも、表情を変えず静かに聞いている。
「どのような罰を?」
「魔法です」
王妃の目がわずかに細くなった。
「火属性の魔法を向けました」
「使用人へ?」
「はい」
「故意に?」
その問いに、一瞬だけ息が止まる。
魔法は暴発した。
だから、『故意ではありませんでした』と答えることもできる。
大きな爆発を起こすつもりはなかった。アンナを吹き飛ばすつもりも、あれほど怪我をさせるつもりもなかった。
それは嘘ではない。
けれど、聞かれているのはそこではなかった。
「……魔法が暴発したこと自体は、意図したものではありません」
ヴェティアは言った。
「ですが、アンナを傷つけるつもりで魔法を向けました。ですから……故意ではなかった、とは言えません」
室内が静まり返る。
ロンドの表情が、ほんのわずかに変わった。
驚いたように見えたのは、一瞬だけだった。
「アンナにも非があったのではないか?」
オーギュストが尋ねる。
試されている。
ヴェティアには、そう感じられた。
「粗相をしたのはアンナです」
紅茶をこぼした。それは事実だ。
「ですが、紅茶をこぼしたことと、私が魔法を向けたことは別です」
何度も自分へ言い聞かせてきた言葉だった。
「怒ったのは私です。魔法を使おうと決めたのも私です。アンナの失敗を、私がしたことの理由にはできません」
マリアンヌが、じっとヴェティアを見つめる。
「ヴェティア嬢」
「はい」
「あなたは、自分が将来どのような立場になる可能性があるのか理解していますね?」
「……はい」
「王族となれば、多くの者より強い権限を持つことになります」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉は厳しい。
「その者が、自分より立場の弱い人間へ、感情のまま力を向けた。それを私たちが重大視する理由も?」
「理解しております」
「本当に?」
胸へ突き刺さるような問いだった。
「今までも、あなたは何度か周囲の者へ厳しく当たってきたと聞いています」
否定できない。
ヴェティア自身にも、その記憶がある。
「今回だけ反省していると言われても、それだけで私たちが安心できると思いますか?」
「……いいえ」
当然だ。
一度謝ったから。
反省したと言ったから。
それだけですべてを信じてもらえるはずがない。
「私も……そう思います」
ヴェティアは自分から口にした。
「私が今までしてきたことまで、今回謝ったからなくなるとは思っていません」
怖い。
それでも言う。
「今までの私なら……アンナが悪かったと言っていたと思います。魔法が勝手に暴走しただけだとも」
ロンドの視線を感じた。
「でも、それでは……また、自分以外の何かを悪者にするだけなので」
ロンドの眉が、わずかに寄る。
「また?」
しまった。
心臓が跳ねた。
「……今までの私も、という意味です」
完全な嘘ではない。
「自分が悪いと言われるのが嫌で、誰かのせいにすることが多かったので」
ロンドは何も言わない。
ただ、ヴェティアを見ていた。
その視線が痛い。
(知ってるよね)
ロンドは、以前のヴェティアを知っている。
どれほど彼へ執着していたか。
誰かに注意されれば不機嫌になり、気に入らないことがあれば周囲へ当たり、それでも自分は彼の婚約者なのだから愛されて当然だと思っていた。
「ヴェティア」
そこで初めて、ロンドが口を開いた。
「はい」
名前を呼ばれただけなのに、胸が大きく跳ねる。
「一つ聞きたい」
「……はい」
「なぜ、急にそんなことを言うようになった?」
答えられない。
「先日までの君なら、父上や母上の前でもアンナが悪いと言ったはずだ」
「……」
「少なくとも、僕はそう思っている」
痛い。
けれど、それはロンドが勝手に自分を悪く見ているからではない。
そう思われるようなことを、自分がしてきたのだ。
「今回の件だけじゃない。僕が何かを注意しても、君は自分が悪いとは認めなかった」
「はい」
「それなのに、なぜ今になって?」
本当の答えは分かっている。
前の人生の記憶が戻ったから。
自分が乙女ゲームの悪役令嬢だと思い出したから。
宮田茜だった人生も、同時に思い出したから。
けれど、それを今ここで話すことはできない。
「……私にも、全部を上手く説明することはできません」
ロンドの目が鋭くなる。
「ただ……アンナが私を怖がっているのを見て、初めて、自分がしてきたことを自分のこととして見た気がします」
それは本当だった。
「今まで私は、自分がどう思うかしか考えていませんでした。でも、アンナは……私が近づいただけで震えました」
あの姿を忘れられない。
「それを見て、それでも私が悪くないと言ったら……もう、本当に何も変われないと思ったんです」
ロンドはしばらく黙っていた。
「……そう」
返ってきたのは、それだけだった。
優しい言葉も、信じるという言葉もない。
当然だ。
それでいい。
◇
「今回の件について」
オーギュストが再び口を開いた。
「王家として、軽く扱うことはできない」
「はい」
「婚約についても同様だ」
胸が締めつけられる。
来る。
そう思った。
記憶の中の光景が蘇る。
ロンドから告げられる、婚約の終わり。
「ただし」
オーギュストが続けた。
「この場で結論は出さない」
「……え?」
思わず顔を上げた。
「陛下」
父アルベールも、わずかに反応する。
「事件については、公爵家からの報告だけではなく、医師や使用人たちからも確認する。アンナ本人にも、必要な範囲で話を聞く」
「……はい」
「また、今回の件だけでなく、お前がその後どう行動しているのかも見る」
ヴェティアは息を止めた。
「言葉だけなら、誰でも反省できる。自分に不利な場だから殊勝に振る舞うこともできる」
その通りだった。
ヴェティア自身も考えていた。
変わったふりなら、きっとできる。
王家の判断が出るまでだけ。
誰かが見ているときだけ。
行儀よく振る舞うだけなら難しくない。
「本当に変わったのかどうかは、今日だけでは判断できない」
「はい」
「したがって、婚約についての判断は保留とする」
婚約破棄は、されなかった。
少なくとも、今は。
胸の奥へ安堵が広がりかける。
けれど、それを表へ出す気にはなれなかった。
何も解決していない。
「ありがとうございます」
そう言いかけて、止めた。
違う。
感謝する場面ではない。
婚約を切られなかったからといって、アンナへの加害が軽くなるわけではない。
「……承知いたしました」
それだけ答える。
マリアンヌが小さく頷いた。
ロンドはまだ、ヴェティアを見ていた。
「ヴェティア」
「はい」
「僕は、まだ君を信用していない」
胸が痛んだ。
分かっていたことなのに、直接言われればやはり痛い。
「はい」
「でも」
ロンドは一度、言葉を切った。
「今日の君が、僕の知っている君と違うことだけは分かった」
ヴェティアは目を見開く。
「だから、これから見る」
「……何を、ですか?」
「君を」
短い言葉だった。
「どうして変わったのか。そもそも本当に変わったのか。僕自身の目で確かめる」
ヴェティアはすぐには返事ができなかった。
怖い。
これから、自分の行動を見られる。
以前なら、疑われていることへ腹を立てたかもしれない。
婚約者なのだから信じてほしい。
そう言ったかもしれない。
けれど、今は違う。
「……はい」
ヴェティアは頷いた。
「見ていてください」
信用してほしい、とは言わなかった。
信じるかどうかは、ロンドが決めることだから。
王家との話を終え、ヴェティアは両親とともに部屋を出た。
婚約は、まだ続いている。
けれど、この先も続くと決まったわけではない。
今日話した言葉が本当なのかどうか。
それはこれから、自分の行動で示していかなければならない。
廊下を歩きながら、ヴェティアは一度だけ握っていた手を開いた。
掌には、爪の跡が残っている。
怖かった。
それでも、言い訳はしなかった。
少なくとも今日は、それだけは自分で選ぶことができた。




