第4話 変わったふり
王家へ報告が送られてから、数日が経った。
まだ返事はない。
このまま婚約を続けるのか。それとも、記憶にある未来と同じように、ロンドから婚約を破棄されるのか。
考えないようにしていても、気付けばそのことばかり考えてしまう。
そんな朝だった。
「遅いわよ」
口から言葉が出た。
ヴェティア自身が、それに一番驚いた。
「……え?」
目の前の使用人も固まっている。
朝食の支度が、いつもより少し遅れていた。ただ、それだけだった。
それなのに、胸の奥にははっきりと苛立ちが湧いている。
「いつまで待たせるつもりなの? こんなことも――」
そこまで言って、止まった。
使用人の肩が、わずかに強張っている。
怯えていた。
まただ。
ヴェティアは唇を閉じる。
(何やってるの、私)
記憶が戻った。
自分が乙女ゲームの悪役令嬢だと知った。
アンナを傷つけたことを認め、謝った。両親にも自分から話し、王家へ隠すこともしなかった。
だから、どこかで思いかけていた。
もう以前のヴェティアとは違う、と。
けれど、そんなことはなかった。
朝食が少し遅れただけで、反射的に相手を責める言葉が出たのだ。
「……ごめんなさい」
使用人が目を見開く。
「え……?」
「今の言い方はよくなかったわ」
謝ればそれで終わりにしていいわけではない。
ヴェティアは一度息を整えた。
「何かあったの?」
「い、いえ……その……」
使用人は戸惑いながら答える。
「厨房で少し手間取っておりまして。すぐにお持ちいたします」
「そう」
本当なら、それだけで済む話だった。
少し遅れている。
理由を聞く。
待つ。
それだけだ。
なのに以前の自分は、まず怒った。誰が悪いのかを探し、自分が不快になったのだから誰かが責任を取るべきだと考えた。
(誰のせい?)
無意識に浮かんだ問いに、ヴェティアは目を閉じる。
そして、別の問いへ置き換えた。
(私は、どうすればいい?)
答えは簡単だった。
待てばいい。
「急がなくていいわ」
「……はい?」
「慌ててまた何か起きる方が困るでしょう。準備ができてから持ってきて」
「か、かしこまりました」
使用人は何度か瞬きをしたあと、深く頭を下げた。
扉が閉まる。
ヴェティアは椅子の背へ身体を預け、小さく息を吐いた。
「……全然、変わってないじゃない」
誰に聞かせるでもなく呟く。
前の人生の記憶さえ戻れば、ゲームのヴェティアがどれだけ酷い人間だったか知っている自分なら、もう同じことはしない。
そんなふうに、少しだけ思っていた。
甘かった。
◇
それからヴェティアは、自分の中に生まれる小さな苛立ちを、以前より意識するようになった。
用意された服が気に入らない。
予定していた時間がずれる。
読みたかった本がすぐに見つからない。
頼んだものが、自分の想像と少し違う。
以前なら、
「どうしてこんなこともできないの?」
その一言で済ませていた。
相手が何を考えているかなど知らない。自分が不満なのだから、相手が悪い。
それで終わりだった。
今は、怒りが湧くたびに一度口を閉じる。
(今、何に怒ってる?)
本当に相手が悪いのか。
それとも、ただ自分の思い通りにならなかったから腹を立てているだけなのか。
考える。
たったそれだけのことが、思っていたよりずっと難しかった。
「お嬢様、こちらでよろしいでしょうか?」
使用人が選んだ髪飾りを差し出す。
一目見て、違うと思った。
もっと華やかなものがよかった。
以前なら即座に突き返していただろう。
「……もう一つの方も見せてもらえる?」
「はい」
使用人は慌てて取り替える。
その姿を見ながら、ヴェティアは小さく息を吐いた。
こんな小さなことでさえ、一つずつ立ち止まらなければならない。
前の人生の記憶が戻ったからといって、人格まで入れ替わるわけではなかった。
考えてみれば当然だ。
宮田茜だって、立派な人間ではなかった。
思い通りにならなければ他人のせいにしてきたという意味では、ヴェティアとよく似ていた。
(私は何を期待してたんだろう)
前の人生を思い出した瞬間、悪役令嬢ヴェティアが消えて、代わりに宮田茜というまともな人間が入ってくる。
そんな都合のいいことを、どこかで期待していた。
けれど、どちらも自分なのだ。
癇癪を起こす癖も、人へ責任を向ける癖も、思い通りにならなければ傷つくより先に怒る癖も、何一つ消えてはいない。
「……お嬢様?」
「何でもないわ」
使用人から新しい髪飾りを受け取る。
「こちらにする。ありがとう」
「……はい」
一瞬だけ、使用人が驚いた顔をした。
それから、小さく頭を下げる。
その反応が、少しだけ胸に残った。
◇
アンナとは、できるだけ顔を合わせないようにしていた。
嫌いだからではない。
むしろ話したかった。
怪我はどうか。
痛みはないか。
困っていることはないか。
何度でも聞きたいし、何度でも謝りたい。
けれど、それは自分が安心したいだけなのではないか。
そう考えると、簡単には近づけなかった。
廊下の向こうにアンナの姿を見つけたのは、そんなときだった。
片腕の固定は外れている。
まだ重いものを持つ仕事は避けているのだろう。軽い布類を抱えて歩いていた。
ヴェティアと目が合う。
「……お嬢様」
アンナが足を止めた。
その肩が、ほんのわずかに強張る。
まだ怖いのだ。
ヴェティアは近づかなかった。
「腕は?」
「もう、ほとんど痛みません」
「そう」
「はい」
会話が止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
また謝るべきだろうか。
けれど、アンナはもう謝罪を聞いている。
何度も同じことを言えば、いつかアンナが何かを返さなければならなくなる。
『もう大丈夫です』
『気にしていません』
『お嬢様をお許しします』
そんな言葉を、自分が欲しがってしまう。
「……無理はしないで」
「はい」
それだけを伝えた。
アンナが頭を下げる。
「失礼いたします」
「ええ」
横を通り過ぎる瞬間、アンナの身体がほんの少しだけヴェティアから離れるように動いた。
胸が痛んだ。
それでも、呼び止めなかった。
振り返っても、アンナはこちらを見ていなかった。
(これが、今の距離なんだ)
謝ったから。
治療費を出したから。
休ませたから。
それで元通りになるわけではない。
当たり前だった。
傷つけた側だけが、早く仲直りしたい、早く許されたいと願ったところで、相手には相手の時間がある。
ヴェティアはそのまま歩き出した。
今は、これ以上近づかない。
それも、自分が選ぶべきことだった。
◇
夜。
ヴェティアは机へ向かっていた。
目の前には一枚の紙がある。
そこへ、記憶に残っているゲームの流れを書き出していた。
婚約破棄。
ナルシス王立魔法学校への入学。
ルミエ・セルメールとの出会い。
ロンドとルミエが少しずつ惹かれ合う。
それを見て、ヴェティアは嫉妬する。
嫌がらせ。
妨害。
王権派との接触。
陰謀への加担。
そして人体実験。
闇魔法。
鮮血姫。
最後には、ルミエとロンドを殺そうとする。
「……最悪」
宮田茜だった頃、画面の中のヴェティアへ向かって、自分が吐き捨てた言葉だった。
今度は、その言葉が自分自身へ返ってくる。
紙の上に並んだ出来事を見つめた。
(避けなきゃ)
真っ先にそう思う。
婚約破棄されたくない。
王権派にも近づかない。
人体実験なんて絶対にしない。
闇魔法にも手を出さない。
ルミエとは関わらない方がいい。
ロンドにも嫌われないようにする。
そうすれば、生き残れる。
(……生き残る)
その言葉に、少しだけ引っかかった。
もちろん死にたくないし、破滅したくもない。それは本音だし、悪いことだとも思わない。
けれど、もし自分が破滅しないためだけに使用人へ優しくするのなら。
婚約破棄されないためだけに癇癪を我慢するのなら。
自分が処刑されないためだけにルミエを傷つけないのなら。
「……結局、自分のためだけじゃない」
小さく呟いた。
アンナの顔が浮かぶ。
自分が近づいただけで、身体を強張らせた少女。
あの姿を見てもなお、自分が助かる方法だけを考えるのか。
(違う)
破滅を避けたい。
その気持ちは消せない。
けれど、それだけでは駄目なのだ。
ヴェティアは紙から目を離した。
何か大きな答えが見つかったわけではない。
急に善人になったわけでもない。
明日になれば、また誰かに腹を立てるかもしれない。責任を誰かへ押しつけたくなるかもしれない。アンナに許してほしいと思うかもしれない。
そのたびに、止まるしかない。
選び直すしかない。
「……面倒くさいな」
思わず本音が漏れた。
我ながら、ずいぶん自分らしい言葉だった。
「でも……やるしかないか」
一度謝ったから。
反省したから。
前の人生の記憶を取り戻したから。
それだけで変わった人間になれるわけではない。
変わったふりなら、きっと簡単だ。
誰かが見ているときだけ優しくすればいい。
王家の判断が出るまでだけ、行儀よくしていればいい。
けれど、それではアンナへ魔法を向けた自分と、根っこのところでは何も変わらない。
変わりたいのなら、見られていないときも、得にならないときも、自分で選び直さなければならない。
ヴェティアは机の上の紙を畳んだ。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「お嬢様」
「どうぞ」
使用人が入ってくる。
手には、一通の封書があった。
「王宮より、ブュッフェ公爵家へご連絡がございました」
ヴェティアの指先が冷たくなる。
「……王宮から?」
「はい」
使用人が封書を差し出した。
「旦那様と奥様、そしてお嬢様に、登城するようにとのことです」
来た。
ヴェティアは封書を見つめる。
国王オーギュスト。
王妃マリアンヌ。
そして、ロンド。
記憶にある物語では、ここから自分の人生が大きく崩れていく。
怖くないわけがなかった。
それでも、ヴェティアは差し出された封書を受け取った。
「分かったわ」
誰かのせいにするためではなく。
自分がしたことを、自分の口で話さなければならない。




