第3話 言い訳をしない
扉の向こうから、二人分の足音が近づいてくる。
父と母だ。
自分で呼んだ。
それなのに、ヴェティアの心臓は、今にもここから逃げ出したいと言わんばかりに激しく脈打っていた。
(怖い)
当然だった。
これから、自分がアンナへしたことを話さなければならない。
言い逃れをせずに。
「ヴェティア」
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、父アルベール・ブュッフェだった。
ブュッフェ公爵家の当主である父は、普段より険しい表情をしている。その後ろから、母セレスティーヌが続いた。
「何があったのです?」
二人の視線が室内を巡る。
まだ完全には片付けられていない部屋。
床に残る細かな破片。
倒れたままの小物。
そして、紅茶の染みが残ったドレス。
アルベールの眉間に皺が寄った。
「先ほど、使用人からアンナが怪我をしたと聞いた」
「……はい」
「お前がやったとも」
「はい」
父の目がわずかに細くなる。
母も黙ったまま、ヴェティアを見ていた。
責められる。
そう思った。
いや。
責められて当然なのだ。
ヴェティアは膝の上で両手を握った。
「最初から説明しなさい」
「……はい」
喉が乾く。
何から話せばいいのか、一瞬迷った。
アンナが紅茶をこぼしたことから。
それは事実だ。
けれど、そこばかりを強調すれば、また自分に都合のいい話へ変えてしまう。
「アンナが……私のドレスに紅茶をこぼしました。それで、私は怒りました」
父も母も何も言わない。
「そのドレスは、ロンド様にお会いするときに着ようと思っていたものです。だから腹が立って……アンナを罰しようとして、魔法を向けました」
セレスティーヌの表情が変わった。
「魔法を?」
「はい」
「使用人へ?」
「……はい」
母の声は静かだった。
だからこそ、余計に胸へ刺さる。
「どのような魔法を使うつもりだったのです?」
「火です」
「ヴェティア」
父の低い声が響いた。
「お前は、自分が何をしようとしたのか分かっているのか?」
「……はい」
そう答えながら、本当に分かっていたのかと、自分へ問い返したくなった。
少し懲らしめるだけ。
身をもって覚えさせるだけ。
そんなふうに考えていた。
人へ炎を向けることを、まるで叱ることの延長のように。
「アンナへ火属性魔法を向けました。その途中で……魔力の制御を失いました」
あの瞬間を思い出す。
火、水、風、土。
四つの力が一斉に乱れ、弾けた。
「暴発して、アンナを吹き飛ばしました。腕を強く打っています。骨には異常がないそうですが、ほかにも打撲があると」
アルベールは目を閉じた。
セレスティーヌも何も言わず、娘を見つめている。
重い沈黙に耐えられず、ヴェティアの口から言葉が漏れかけた。
「でも、わざとあそこまで――」
そこで止まった。
父の目がこちらを向く。
母も同じだった。
言いかけた言葉が、自分の中で響く。
わざと、あそこまで傷つけるつもりではなかった。
だから何だというのだ。
暴発だったから、仕方がなかったとでも言うのか。
「……いいえ」
「ヴェティア?」
「今のは、違います」
ヴェティアは首を振った。
「魔法が暴発したことは事実です。でも……私は最初から、アンナを傷つけるつもりで魔法を向けました」
声が震える。
「どれくらい傷つくかなんて、関係ありません。私がやりました」
父も母も、しばらく何も言わなかった。
やがて、アルベールが静かに尋ねる。
「アンナは、お前に何かしたのか?」
「紅茶をこぼしました」
「故意に?」
「いいえ」
「では、それだけか?」
「……はい」
言葉にしてしまうと、ひどく恥ずかしかった。
たったそれだけのことで、自分は人へ魔法を向けたのだ。
「そうか」
アルベールの声は低い。
「では確認する。アンナが粗相をした。お前は腹を立て、罰として魔法を使おうとした」
「はい」
「その魔法が暴発し、アンナが負傷した」
「はい」
「間違いないな?」
一言でも『ですが』と続ければ、少しは楽になれるかもしれない。
アンナだって失敗した。
自分だけが悪いわけではない。
そんな逃げ道が、まだ心のどこかに残っている。
ヴェティアは拳を強く握った。
「間違いありません」
父が小さく息を吐いた。
「……分かった」
怒鳴られなかった。
だからといって、安心できるはずもない。
アルベールの表情は明らかに厳しかった。
「ヴェティア。お前は第一王子殿下の婚約者だ」
「はい」
「将来、王家へ入る可能性のある人間でもある。立場の弱い者へ感情のまま魔法を向ける者を、王族の一員として認められると思うか?」
「……いいえ」
胸の奥が冷たくなる。
婚約破棄。
その言葉が頭をよぎった。
「お父様」
「何だ」
「アンナのことで……お願いがあります」
アルベールがこちらを見る。
「言ってみなさい」
「治療費は、すべてこちらで負担してください」
「当然だ」
「それから、怪我が治るまで十分に休ませてください」
「そのつもりだ」
「休んでいる間のお給金も、減らさないでください」
アルベールがわずかに眉を動かした。
母も驚いたようにこちらを見る。
「ほかに治療や薬が必要なら、それも全部。必要なら、私のお金から出してください」
「お前の?」
「はい」
父はしばらく娘を見つめ、それから尋ねた。
「そこまでして、アンナに許してもらいたいのか?」
その言葉に、ヴェティアは息を止めた。
許してもらいたい。
できることなら、もう怖がらないでほしい。
以前のように話してほしい。
けれど、それを目的にしてはいけない。
「……許してもらえるとは思っていません」
母の表情がわずかに揺れた。
「謝りました。でも、アンナはまだ私を怖がっています」
先ほどの姿が蘇る。
近づいた瞬間、アンナは考えるより先に『来ないで』と口にした。
身体そのものが、ヴェティアを拒んだのだ。
「当然です。私が怖い思いをさせたんですから」
「ヴェティア……」
母が小さく名前を呼ぶ。
ヴェティアが顔を上げると、セレスティーヌはひどく戸惑った表情をしていた。
それを見て、少しだけ胸が痛んだ。
(そりゃ、そうよね)
ヴェティアとして生きてきた記憶がある。
両親が何度、自分を諫めたかも覚えている。
使用人へきつく当たるな。
自分の立場を考えなさい。
思い通りにならないからといって、癇癪を起こしてはいけない。
そのたびに、ヴェティアは反発した。
私は悪くない。
向こうが悪い。
お父様もお母様も、どうして私の味方をしてくれないの。
そう怒ってきたのだ。
今さら一度謝ったくらいで、両親が信じられるはずもない。
「お母様」
「何です?」
「今まで……ごめんなさい」
口にしてから、ヴェティアは首を振った。
「……いえ。今は、アンナのことでした」
セレスティーヌは何か言いかけたが、結局口を閉ざした。
アルベールが椅子から立ち上がる。
「アンナへの治療と休養、給与については私が手配する」
「ありがとうございます」
「お前の金から出す必要はない」
「ですが」
「家の使用人が、家の中で、公爵令嬢であるお前によって傷つけられた。これはブュッフェ家として責任を取るべき問題でもある」
「……はい」
「ただし、それで終わりではない」
父の声が一段低くなる。
ヴェティアは顔を上げた。
分かっていたはずなのに、身体が強張った。
「今回の件は、王家へ報告する」
心臓が大きく鳴る。
記憶にある未来と、同じ流れだった。
「お前はロンド殿下の婚約者だ。このような問題を家の中だけで伏せることはできない」
「あなた……」
セレスティーヌが夫を見る。
「当然だ」
アルベールは静かに答えた。
「後から別の経路で陛下の耳へ入れば、それこそブュッフェ家が意図的に隠蔽したと受け取られかねない」
正しい。
分かる。
けれど、怖かった。
王家へ伝わる。
国王オーギュストへ。
王妃マリアンヌへ。
そして、ロンドへ。
『ヴェティア。君との婚約は、ここで終わりにする』
記憶の中にあるロンドの声が蘇る。
そこから、すべてが始まった。
婚約破棄。
ルミエへの憎悪。
王権派。
人体実験。
闇魔法。
鮮血姫。
そして破滅。
(嫌だ)
婚約を失いたくない。
死にたくない。
あんな未来には行きたくない。
「……お父様」
「何だ」
報告しないで。
お願い。
家の中だけで処理して。
アンナへ十分な補償をして、誰にも言わなければ、記憶にある未来を避けられるかもしれない。
喉まで言葉が出かかった。
そのとき、アンナの姿が浮かんだ。
負傷した腕を庇い、自分を見ることさえ怖がっていた少女。
もしここで事件を隠したら、自分は何のために謝ったのだろう。
自分が不利にならない範囲で責任を取っただけではないのか。
(また、自分だけ助かろうとしてる)
宮田茜だった頃と同じだ。
都合が悪くなれば理由を探し、自分は悪くないと言って逃げる。
それでは何も変わらない。
ヴェティアはゆっくりと息を吐いた。
怖さは消えない。
手も震えている。
それでも。
「……報告してください」
父の目が、わずかに見開かれた。
「いいのだな?」
いいわけがない。
怖い。
婚約破棄などされたくない。
それでも、ヴェティアは頷いた。
「はい。私がしたことを、そのまま報告してください」
アルベールはしばらく娘を見つめたあと、短く答えた。
「分かった」
母は何も言わなかった。
ただ、二人の視線がこれまでとは少し違っているように、ヴェティアには見えた。
信じてもらえたわけではない。
許されたわけでもない。
自分がしたことも消えない。
それでもヴェティアは初めて、自分に都合の悪い事実を、自分から外へ出すことを選んだ。
王家への報告は、その日のうちに行われることになった。




