第2話 私がやりました
「……私がやった」
自分の口からこぼれた言葉が、やけに重く響いた。
アンナはまだ床にうずくまり、片腕を庇うように抱え込んでいる。こちらを見ようともしない。
ヴェティアは一歩だけ近づいた。
「アンナ、その腕――」
「……っ」
アンナの身体が、びくりと震えた。
考えて避けたのではない。ヴェティアが近づいたから、身体が反射的に怯えたのだ。
その事実に、ヴェティアの足が止まる。
「……ごめんなさい」
口から出た言葉に、アンナが恐る恐る顔を上げた。
その表情には、怯えと同じくらい驚きが浮かんでいる。
当然だった。
今までのヴェティアなら、自分から謝るなど考えられなかった。まして、相手は使用人だ。
「お、お嬢様……?」
「動かなくていいわ」
もう一度近づこうとして、やめる。
今、自分が触れようとすれば、アンナを余計に怖がらせるだけだ。
「誰か!」
ヴェティアは扉へ向かって声を上げた。
ほどなくして、騒ぎを聞きつけていた使用人たちが恐る恐る室内を覗いた。
割れたティーカップ。倒れた家具。床に散らばった小物。紅茶で汚れたドレス。
そして、床にうずくまっているアンナ。
何が起きたのか正確には分からなくとも、ヴェティアの魔法が関わっていることくらいは察したのだろう。使用人たちの顔が強張った。
その反応を見て、胸の奥がわずかに疼く。
以前の自分なら腹を立てていただろう。
そんな目で見るな。
私を怖がるな。
そう怒鳴っていたかもしれない。
「アンナが怪我をしているの」
声がわずかに震えた。
「すぐに診てもらって。医師を呼んで」
使用人たちは一瞬、動かなかった。ヴェティアの口から出た命令が予想外だったのかもしれない。
「早く!」
「は、はい!」
数人が慌ててアンナへ駆け寄る。
その姿を見て、ヴェティアは自分から一歩後ろへ下がった。
アンナは使用人たちに支えられ、ゆっくりと部屋を出ていく。
最後まで、こちらを見なかった。
胸が痛んだ。
けれど、それは当然のことだった。
◇
アンナが別室へ運ばれ、医師が呼ばれたあと、ヴェティアは自室に一人残った。
正確には、一人にしてもらった。
先ほどまで床へ転がっていた物は、使用人たちが最低限だけ片付けていった。それでも紅茶で汚れたドレスは、まだ部屋に残っている。
ヴェティアはしばらく、それを見つめていた。
ほんの少し前まで、この一着のために人を傷つけようとしていた。
(……嘘でしょう)
両手で頭を抱える。
宮田茜としての記憶。
ヴェティア・ブュッフェとしての記憶。
二つの人生を覚えている。
けれど、だからといって自分の中に二人の人間がいるわけではなかった。
どちらも自分だ。
それが何より苦しかった。
(もし、茜の記憶だけが戻ったなら……)
言い訳できたかもしれない。
悪役令嬢ヴェティアがやったことだ。
私は違う。
私は宮田茜だ。
そんなふうに、二人を切り離せたかもしれない。
けれど、それはできなかった。
アンナを叱りつけたときの怒りも、紅茶をこぼされた瞬間に湧いた苛立ちも、魔法で罰してやろうと思ったことも、全部自分の感情として覚えている。
(私がやった)
心の中で、もう一度繰り返した。
すると今度は、別の恐怖が浮かび上がった。
(婚約破棄……)
記憶にある未来。
ロンドとの婚約を失い、そこからヴェティアはルミエを逆恨みする。王権派へ近づき、やがて禁忌へ手を染め、最後には鮮血姫となる。
「嫌……」
身体が震えた。
死にたくない。
あんな未来には行きたくない。
そして何より、もうあんな人間にはなりたくない。
では、どうすればいいのか。
事件を隠す。
アンナへ口止めし、他の使用人にも話さないよう命じる。
魔法が勝手に暴発した事故だったことにする。
実際、暴発したのは事実だ。あれほど大きな衝撃を起こすつもりではなかった。
それに、アンナがドレスへ紅茶をこぼさなければ、自分だって怒らなかった。
(そうよ。アンナが失敗したんだから)
そんな考えが、あまりにも自然に胸の奥から湧いてきた。
ヴェティアは顔を上げる。
怖くなるほど、いつもの自分だった。
(あそこまで傷つけるつもりではなかった。……いや、それもおかしい)
程度の問題ではない。
最初から、傷つけるつもりで魔法を向けたのだ。
暴発したかどうかは、自分が何をしようとしたのかを変えてはくれない。
(原作通りに起きただけ)
そんな考えまで浮かぶ。
この世界がゲームで知っている世界と同じなら、これは最初から決められていた出来事だったのかもしれない。
なら、自分の意思ではなかった。
そう思えば、少しは楽になれる。
『私がこうなったのは、誰のせいだと思ってるの』
宮田茜だった頃の、自分の声が蘇った。
教師のせい。
親のせい。
環境のせい。
運のせい。
何かあるたび、自分以外の理由を探していた。
「……また同じ」
ヴェティアは両手で顔を覆った。
前の人生では、自分の人生がうまくいかなかった原因を周囲へ押しつけた。
今は、アンナの失敗。魔法の暴走。ゲームの筋書き。
言葉が違うだけで、やっていることは何も変わらない。
「何にも変わってないじゃない……」
記憶が戻っただけだ。
それだけで、自分がまともな人間になったわけではない。
むしろ記憶が戻ったからこそ、宮田茜とヴェティア・ブュッフェが、どれほど似ていたのか分かってしまった。
嫌っていたはずの女と、嫌われても仕方のない自分。
その二人は、どちらも自分だった。
◇
「お嬢様」
しばらくして、扉の外から声がした。
ヴェティアは顔を上げる。
「アンナの診察が終わりました」
心臓が強く跳ねた。
「入って」
使用人が一人、静かに入室する。
今までなら、もっと自然に近くまで来ていたはずなのに、今日はわずかに距離を取っている。
それに気付いてしまった。
「どうだったの?」
「腕を強く打っております。骨に異常はないとのことですが、しばらく安静にするように、と」
「他には?」
「いくつか打撲がございます。ただ……大きな怪我ではないそうです」
「そう……」
息が漏れた。
よかった。
そう安堵した直後に、胸が痛む。
大怪我ではなかったから何だというのだ。
怖い思いをさせ、実際に傷つけた事実は変わらない。
「治療は?」
「すでに始まっております」
「必要なものは全部用意して。薬も。追加で診てもらう必要があるなら、すぐに医師を呼んで」
「かしこまりました」
使用人が頭を下げる。
ヴェティアは少し迷ってから尋ねた。
「……アンナは、私と話せそう?」
使用人の動きが、わずかに止まった。
その反応だけで、自分が何を求めようとしているのか考え直す。
「無理ならいいの」
「……」
「本当に。私が呼んでいるからって、無理に来させないで」
これまでのヴェティアなら、呼べと言えば呼ばせた。
使用人が嫌がっているかどうかなど考えなかった。自分が話したい。それだけで十分だった。
けれど今は、アンナに会いたいから呼ぶことも、謝りたいから呼ぶことも、自分の都合なのだと分かる。
「もし、アンナが私と話してもいいと思っているなら……そのときは教えて」
「かしこまりました」
使用人が退室しようとする。
「あの」
「はい」
「……お父様とお母様は?」
「旦那様は書斎に。奥様は先ほどお戻りになられたところです」
「そう」
喉が鳴った。
怖い。
事件を話せば、両親にも知られる。
その先には、王家への報告があるかもしれない。
記憶にある未来では、この事件が婚約破棄へつながっていく。
「……まだ、いいわ」
そう言いかけた。
先にアンナと話して、それから考える。
できるだけ穏便に済ませる。
少しでも自分が不利にならない方法を探す。
そんな気持ちは、確かにあった。
「お嬢様?」
「……何でもない」
ヴェティアは息を吸う。
ここで隠したら、結局また、自分を守るために都合のいい理由を探すだけになる。
「お父様とお母様を呼んでください」
使用人が目を見開いた。
「こちらへ、でございますか?」
「ええ」
「何とお伝えすれば……」
ヴェティアは一瞬、言葉に詰まった。
短く。
逃げずに。
「私が、アンナを傷つけたと」
口にした瞬間、胸が締めつけられた。
それでも続ける。
「私から話したいことがあると伝えて」
「……かしこまりました」
使用人が深く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ヴェティアは一人残された。
逃げられない。
いや。
逃げないと、自分で決めたのだ。
◇
しばらくして、再び扉が叩かれた。
「お嬢様」
「どうぞ」
先ほどの使用人が顔を出す。
「アンナが……お嬢様がお望みでしたら、お話をすると申しております」
ヴェティアの胸がざわついた。
「本当に?」
「はい」
「無理をさせていない?」
「お嬢様が無理に来させないように、と仰っていることも伝えております」
それでも来ると言ったのだ。
ヴェティアは少し迷ったあと、頷いた。
「……分かったわ。入ってもらって」
「かしこまりました」
使用人が下がり、代わりにアンナが静かに部屋へ入ってきた。
「アンナ……」
ヴェティアは思わず立ち上がる。
「っ……」
アンナの身体が強張った。
その反応を見て、すぐに動きを止める。
「ご、ごめんなさい。近づかないから」
アンナは片腕を布で固定していた。顔色もまだ悪い。
「座って」
「いえ。このままで……」
「……そう」
無理に勧めることはせず、ヴェティアも座り直した。
二人の間には、十分な距離が残っている。
「アンナ」
「はい」
返事は硬い。
「さっきのこと……ごめんなさい」
アンナが顔を上げた。
驚きと戸惑い。その奥には、まだ消えていない恐怖があるようにヴェティアには見えた。
「あなたが紅茶をこぼしたことに腹を立てた」
「……はい」
「それで、私はあなたへ魔法を向けた」
アンナは黙ったまま聞いている。
「魔法が暴発したのは予定外だった。でも、それは言い訳にならない」
喉が震える。
それでも、続けた。
「私は最初から、あなたを傷つけるつもりで魔法を使おうとした」
アンナの顔が強張る。
その反応を見た瞬間、逃げたくなった。
そんなつもりではなかった。
そこまで酷いことをするつもりではなかった。
そう言って、自分を少しでも軽く見せたくなる。
けれど、言わない。
「紅茶をこぼしたのは、あなたです」
ヴェティアは膝の上に置いた自分の手へ視線を落とした。
「でも、それと私が魔法を向けたことは別よ。あなたが失敗したから悪い、なんて……言えない」
沈黙が落ちた。
実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。
けれどヴェティアには、何分にも感じられた。
「……お嬢様」
「うん」
「私は……」
アンナは一度、唇を結んだ。
「何と申し上げればよいか、分かりません」
「そうよね」
ヴェティアは頷いた。
「分からなくていい」
「え……?」
「今すぐ許さなくていい」
自分で言いながら、胸の奥が苦しくなる。
本当は許してほしい。
謝ったのだから、反省しているのだから、少しくらい安心できる言葉がほしい。
けれど、それを求めるのもまた、自分のためだ。
「怖かったでしょう」
アンナの指が、わずかに震えた。
「……はい」
小さな返事だった。
それで十分だった。
「……そうよね。ごめんなさい」
ヴェティアは、もう一度だけ謝った。
それ以上は繰り返さない。
何度も謝れば、いつかアンナが『もう大丈夫です』『許します』と言わなければならないような空気を作ってしまう気がした。
そんなことは、させたくなかった。
「しばらく休んで」
「ですが、お仕事が――」
「仕事のことはいい」
「でも……」
「あなたが怪我をしたのは、私のせいだから」
アンナの目が揺れた。
「休んでいる間のお給金も減らさない。治療に必要なものも、全部こちらで用意する」
言い切ってから、ヴェティアは小さく息を吐いた。
「それで許してもらえるなんて、思ってないけど」
「お嬢様……」
「ただ、私がするべきことだから」
アンナは何も答えなかった。
それでいい。
今は、それでいい。
「もう戻って休んで」
「……はい」
アンナはゆっくりと頭を下げ、扉へ向かった。
歩みはいつもより遅い。
片腕を庇っているからだ。
その背中を見送りながら、ヴェティアは自分がどれだけのことをしたのか、改めて思い知らされた。
扉が閉まる。
ほどなくして、廊下の向こうから二人分の足音が聞こえてきた。
父と母だ。
もう隠せない。
いや、隠さない。
ヴェティアは震える指を握りしめた。
破滅するかもしれない。
婚約を失うかもしれない。
それでもまずは、自分がしたことを、自分の口で言わなければならない。




