第1話 最悪の瞬間
「申し訳ございません、お嬢様……!」
少女の震える声が響いた。
けれど、ヴェティア・ブュッフェの怒りは収まらなかった。
「申し訳ないで済むと思っているの?」
目の前では、一人の侍女が床へ膝をついている。
アンナ・ローレル。ヴェティア付きの若い侍女だ。
青ざめた顔に、小刻みに震える肩。怯えきった瞳の傍らには、床へ落ちたティーカップと、茶色い染みの広がったドレスがあった。
近日、第一王子ロンド・ナルシスと会う際に着るつもりだったものだ。淡い色合いの生地には、紅茶の染みがはっきりと残っている。
「あなた、自分が何をしたか分かっているの?」
「はい……本当に、申し訳ございません。すぐに染み抜きを――」
「そういう問題ではないわ!」
鋭い声が部屋へ響き、アンナの身体がびくりと震えた。
「これはロンド様にお会いするときに着るつもりだったのよ!」
「申し訳ございません……」
「楽しみにしていたのに。あなたのせいで台無しじゃない!」
謝り続けるアンナを見ても、ヴェティアの怒りは冷めなかった。むしろ、その言葉を聞くたびに腹が立つ。
どうして自分が、使用人の失敗を我慢しなければならないのか。
間違えたのはアンナだ。大切なドレスを汚したのも、自分を怒らせたのもアンナだ。
ならば、罰を受けるのも当然だった。
「少しは身をもって覚えなさい」
ヴェティアが右手を上げた。
空気が震え、掌の前へ赤い光が集まっていく。やがて小さな炎となって揺らめいた。
「お嬢様……?」
アンナが顔を上げる。
炎を見た瞬間、その目が大きく見開かれた。
「お、お許しください……!」
「だったら最初から失敗しなければよかったでしょう」
「……っ」
火、水、風、土。
魔法使いには、それぞれ得手不得手がある。しかしヴェティアは、その四属性すべてに高い適性を持っていた。
ブュッフェ公爵家が誇る天才。
幼い頃からそう呼ばれ、魔法はできて当然、自分の思い通りになって当然だと、ヴェティア自身も信じて疑わなかった。
だから、目の前の侍女を少し懲らしめる程度なら何の問題もないと思っていた。
掌の炎が大きくなる。
その瞬間だった。
「……え?」
妙な感覚がした。
炎が揺らいだ。
ヴェティアは眉を寄せる。いつもと違う。火属性の魔法として安定していたはずの力が、掌の周囲で不規則に乱れている。
「何……?」
赤い光の中へ、別の色が混じった。
青。
緑。
茶。
火だけではない。
水、風、土。
本来なら別々に制御しているはずの四属性の力が、激しい感情に引きずられるように一斉に浮かび上がっていた。
「お嬢様……?」
「待って」
ヴェティアの顔から怒りが消え、代わりに戸惑いが浮かぶ。
「待ちなさい。これは――」
止めなければ。
そう思ったときには、もう遅かった。
制御を失った四属性の力が弾けた。
「きゃあっ!」
轟音とともに、衝撃が室内を駆け抜ける。
机の上に置かれていた物が吹き飛び、カーテンが激しくはためいた。アンナの身体も衝撃に煽られ、そのまま床へ投げ出される。
「アンナ!」
ヴェティアが叫んだ。
その直後、頭の奥で何かが壊れた。
「――っ!」
視界が真っ白になる。
知らないはずの景色が、濁流のように押し寄せてきた。
高い建物。舗装された道路。電車。パソコン。スマートフォン。
学校。家族。
友達の少なかった学生時代。
うまくいかなかった恋愛。
大学受験の失敗。
苛立ち、家族へ怒鳴る自分。部屋へ閉じこもり、何もかも周囲のせいにしていた自分。
そして、画面の向こうにいる一人の女。
『ほんっと、こいつ嫌い』
「……え」
誰の声だろう。
いや、違う。
知っている。
これは、自分の声だ。
宮田茜。
その名前が脳裏へ浮かんだ瞬間、さらに大量の記憶が流れ込んできた。
乙女ゲーム。
『平民の私が光魔法に目覚めたら、王子様と大聖女様に見初められました!?』
主人公、ルミエ・セルメール。
平民の家に生まれながら、非常に珍しい光魔法へ目覚める少女。
第一王子、ロンド・ナルシス。
ルミエと惹かれ合う攻略対象。
そして――悪役令嬢。
ロンドの婚約者であり、嫉妬深く、傲慢で、自分の失敗を認めず、何でも他人のせいにする女。
最後には人をさらい、人体実験と拷問を繰り返し、禁忌の闇魔法を手に入れる。
鮮血姫。
物語の最後に立ちはだかる、ラスボス。
「……ヴェティア」
唇から、その名前が漏れた。
ヴェティア・ブュッフェ。
茜が、ずっと嫌っていた女。
『何でも人のせい。自分は絶対悪くない』
『私がこの世界の住民だったら、もっと上手くやるのに』
『公爵令嬢で、魔法の才能もあって、王子様の婚約者でしょ?』
『私だったら絶対もっと上手くやるわ』
「……うそ」
ヴェティアはふらついた。
意味が分からない。
宮田茜は死んだ。
老人を車から助けて、代わりに自分がはねられた。そこで人生は終わったはずだった。
なのに、今ここにいる。
それだけではない。
ヴェティアには、ヴェティアとして生きてきた記憶も確かにあった。
公爵令嬢として育った日々。
両親との暮らし。ロンドとの思い出。幼い頃から続けてきた魔法の訓練。
使用人へ無理を言ったことも、自分より身分の低い者を当然のように見下してきたことも覚えている。気に入らないことがあれば癇癪を起こし、注意されれば相手へ怒りを向けてきた。
どちらかが夢だったわけではない。
宮田茜としての人生も、ヴェティア・ブュッフェとして生きてきた日々も、どちらも自分の記憶だった。
「私が……ヴェティア……?」
自分の手を見る。
白く細い指。
見慣れている。ずっと自分のものだった。
けれど同時に、宮田茜だった自分には決して存在しなかった手でもある。
胸が激しく脈打った。
(待って)
ゲームの世界。
ヴェティア・ブュッフェ。
そして、この時期は――ナルシス王立魔法学校への入学前。
そこまで考えた瞬間、床へ倒れている少女の名が意識に浮かぶ。
「……アンナ」
一つの出来事が、鮮明に蘇った。
ヴェティアがロンドとの婚約を失う、大きな原因となった事件だ。
魔法学校へ入学する直前、粗相をした侍女へ激怒したヴェティアは、魔法を使って彼女を罰した。
その噂は王家へ伝わる。それまでの傲慢な振る舞いも重なり、将来王家へ迎える人間として問題があると判断される。
そして学校入学後、ロンドとの婚約は破棄された。
「これ……」
ヴェティアの息が止まった。
視線を落とす。
紅茶の染みがついたドレス。割れたカップ。
そして、床へ倒れているアンナ。
「……この事件……?」
ようやく、ヴェティアは目の前の現実を見た。
「……っ」
アンナは片腕を庇うように身体を丸めている。
先ほどの暴発によって吹き飛ばされたのだ。
「アンナ!」
反射的に近づこうとした。
「来ないで……!」
か細い声だった。
ヴェティアの足が止まる。
アンナ自身も、自分が何を口にしたのか気付いたのだろう。次の瞬間には顔から血の気を失い、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません、お嬢様! その、今のは……!」
床へ伏せるように身体を縮める。
「お許しください……! お許しください……!」
何度も謝る少女を前に、ヴェティアは動けなかった。
アンナが怯えている。
誰に、などと考える必要もなかった。
自分だ。
自分に怯えている。
ゲームで見たアンナ・ローレルではない。
画面に表示された立ち絵でも、物語を進めるためだけの登場人物でもない。
目の前で息をしている。
震えている。
痛みに顔を歪めている。
その少女を、自分が傷つけた。
「……私」
喉が乾く。
魔法が暴発した。
事故だった。
そう言えるかもしれない。
アンナが紅茶をこぼした。大切なドレスを台無しにした。自分が怒ったことにも理由はあった。
そう言うことだってできる。
そもそも、これはゲームで起きるはずだった出来事だ。記憶にある通りの未来が、予定された通りに起きただけ。
そう考えれば、少しは自分の責任ではないと思えるかもしれない。
『何でも人のせい』
頭の中で、宮田茜だった自分の声が響いた。
『自分は絶対悪くない』
「……っ」
ヴェティアは唇を噛んだ。
アンナが紅茶をこぼした。
それは事実だ。
けれど、怒ったのは誰だ。
魔法を向けたのは誰だ。
罰を与えて当然だと考えたのは、誰だ。
アンナが失敗したから。
魔法が暴走したから。
ゲームで起きる出来事だったから。
そうやって、自分以外の何かへ責任を押しつけようとしている。
宮田茜だった頃と、何も変わらない。
画面の中で散々嫌っていたヴェティアとも、何も変わらない。
『私がこの世界の住民だったら、もっと上手くやるのに』
「……何が」
声が震えた。
「何が、もっと上手くやるよ……」
自嘲することすらできなかった。
記憶を取り戻したときには、もう自分は、自分が一番嫌っていた女と同じ場所に立っていた。
ヴェティアはゆっくりと右手を見る。
まだ魔法の乱れが残っていた。
赤い火花。淡い水の粒。頬を撫でる細い風。床からわずかに浮き上がった土埃。
四つの力が、乱れた感情へ引きずられるように震えている。
「消えて」
息を整える。
「お願いだから……止まって」
一つずつ、力を抑えていく。
火花が消えた。
水滴が床へ落ち、風が静まり、浮いていた土埃も元の場所へ戻っていく。
やがて、部屋へ静寂が戻った。
ヴェティアはもう一度、アンナを見る。
少女はまだ震えている。こちらを見ようともしない。
見ることすら怖いのだ。
胸の奥が痛んだ。
婚約破棄。
ルミエへの嫉妬。
王権派との結託。
鮮血姫。
そして最後には、すべてを失って破滅する未来。
記憶にあるものが、一気に頭へ押し寄せる。
怖い。
死にたくない。
婚約だって失いたくない。
あんな未来には行きたくない。
けれど、今最初に見るべきなのは、自分の未来ではなかった。
目の前で、自分が傷つけた少女だ。
「……アンナ」
名前を呼ぶ。
アンナの肩が震えた。
それだけで、胸を抉られるようだった。
ヴェティアは拳を握る。
逃げるな。
事故だったからではない。
ゲームで起きる出来事だったからでもない。
アンナが紅茶をこぼしたからでもない。
紅茶をこぼしたことと、自分が魔法を向けたことは別の話だ。
魔法を向けたのは自分だった。
怒りに任せ、罰を与えようとしたのも自分だった。
この少女を傷つけたのは――。
「……私がやった」
その言葉を、ヴェティアは初めて自分自身へ向けて口にした。




