プロローグ 嫌いだった女
お読みいただきありがとうございます。
本作は、乙女ゲームの悪役令嬢へ転生した主人公が、ただ破滅を回避するのではなく、自分がしてしまったことと向き合いながら、これからの生き方を選び直していく物語です。
悪役令嬢もの、魔法学園、聖女、王子との関係などの要素を楽しみつつ、主人公や周囲の人物が少しずつ変わっていく過程を描いていきます。
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
宮田茜には、嫌いな女がいた。
会ったことはない。そもそも、実在する人間ですらない。
「ほんっと、こいつ嫌い」
薄暗い自室で、茜は吐き捨てるように言った。
パソコンの画面には、一人の少女が映っている。
長く美しい髪。誰もが振り返るほど整った顔立ち。公爵令嬢という恵まれた身分。
そして、火、水、風、土――四つの属性魔法すべてに高い適性を持つ、紛れもない天才。
ヴェティア・ブュッフェ。
乙女ゲーム『平民の私が光魔法に目覚めたら、王子様と大聖女様に見初められました!?』に登場する悪役令嬢である。
主人公ルミエ・セルメールの前へ立ちはだかり、最後には禁忌の闇魔法へ手を染める女。
第一王子ロンド・ナルシスの婚約者だったヴェティアは、自らの行いによって婚約を失う。それなのに――。
『あの女が現れなければ! ロンド様は私を捨てなかった!』
画面の中で叫ぶヴェティアを見て、茜は思わず顔をしかめた。
「いや、お前のせいだろ」
婚約を失ったのは、自分の行動が原因だ。それを認めず、平民の少女であるルミエがロンドを奪ったのだと逆恨みする。
嫌がらせに始まり、妨害、陰謀への加担。ヴェティアの行動は、物語が進むほど過激になっていった。
最後には、人目につきにくい者たちをさらい、人体実験と拷問まで行う。
目的はただ一つ。光魔法を操るルミエを殺せる力を手に入れるためだった。
何人もの犠牲者を踏み台にして禁忌の闇魔法を完成させたヴェティアは、やがてこう呼ばれる。
――鮮血姫。
そして最終的には、自分を選ばなかったロンドと、自分からロンドを奪ったと思い込んでいるルミエ、その二人を殺そうとする。
「最悪」
茜は頬杖をついた。
「何でも人のせい。自分は絶対悪くない。人が幸せになるのは気に入らない。だからって、殺そうとするとか意味分かんないし」
どうしてこんな女に、これほど恵まれた人生が与えられたのだろう。
美人で、公爵令嬢で、魔法の才能にも恵まれている。そのうえ王子様の婚約者だ。
最初から何もかも持っていた。
それなのに、自分が持っているものへ感謝することもなく、手に入らなかったものばかりを見て周囲を恨み続ける。
「私がこの世界の住民だったら、もっと上手くやるのに」
茜は画面へ向かって鼻を鳴らした。
「公爵令嬢で、魔法の才能もあって、王子様の婚約者でしょ? 人生イージーモードじゃん。普通にしてれば幸せになれるって」
少なくとも、自分ならこんな馬鹿なことはしない。
ルミエに喧嘩を売ったりもしない。王権派なんかと手を組むこともない。人体実験など、もってのほかだ。
「ほんと、もったいな。私だったら絶対もっと上手くやるわ」
そう言ってから、茜は少しだけ黙った。
画面の中では、ヴェティアがルミエへ憎悪の目を向けている。
『――どうして、あの女ばかり』
表示された台詞を見た瞬間、胸の奥がざらりとした。
茜はすぐにマウスを動かし、台詞を送る。見なかったことにするように。
考えたくなかった。
その言葉を、茜自身も何度も思ったことがあったからだ。
どうして、あの子には友達がいるのに。
どうして、あの子には彼氏ができたのに。
どうして、あの子は大学に受かったのに。
どうして、あの子はちゃんと就職できたのに。
どうして、あの子は結婚したのに。
――どうして、私だけ。
思えば、中学の頃から友達は少なかった。クラスには馴染めず、高校へ進んでもそれは変わらなかった。恋愛だってうまくいかなかった。
大学受験にも失敗した。
あのとき、茜は学校が悪いと思った。
教師がちゃんと教えてくれなかったから。親がもっといい塾へ通わせてくれていたら。家がもっと裕福だったら。もっと恵まれた家庭に生まれていたら。
自分だって、あいつらみたいになれたはずだ。
そう思った。
大学へ行けなくなってからは、外へ出ることも減った。家族から何か言われるたびに腹が立った。
『これからどうするの?』
そんなこと、私が一番知りたい。
『少しでも外に出てみたら?』
簡単に言わないで。
『いつまでもこのままじゃ――』
うるさい。
私がこうなったのは、誰のせいだと思ってるの。
何度も怒鳴った。物を投げたこともあった。
やがて家族も、あまり茜へ何も言わなくなった。
静かになって、せいせいした。
そう思っていたはずなのに。
「……私は、こいつほどじゃないし」
誰に聞かせるでもなく、茜は呟いた。
当然だ。
自分は誰かをさらったことなんてない。拷問なんてしていない。人を殺そうとしたこともない。
だから違う。
ヴェティアとは違う。
もし本当に自分がヴェティアだったなら、きっともっとまともに生きられる。
そうに決まっている。
茜はパソコンの画面から目を逸らし、胸の奥に残った小さな不快感を、いつものように無視した。
◇
その日は、久しぶりに外へ出た。
目的は、例の乙女ゲームの関連イベントだった。
普段なら近所のコンビニへ行くことさえ億劫なのに、こういう日だけは不思議と身体が動く。
電車へ乗り、人混みに揉まれ、会場まで歩く。面倒ではあったが、会場へ着けば気分は変わった。
大きく掲げられたゲームのイラスト。並べられた設定資料や限定グッズ。同じ作品が好きな人たちの楽しそうな声。
ステージに映し出されたルミエとロンドを見ている間だけは、茜も素直に楽しかった。
「やっぱルミエ可愛いなぁ」
イベント限定の冊子を抱えながら、茜は小さく笑った。
ルミエは好きだった。
平民の家に生まれ、非常に珍しい光魔法へ目覚め、その力を認められて王立魔法学校へ特待生として入学する少女。
努力家で、優しくて、自分の境遇を誰かのせいにしない。大聖女ミュゲに憧れ、人を助けられる聖女になろうと努力し続ける。
だからこそ、ヴェティアが余計に嫌いだった。
何も持っていないところから頑張るルミエを、何もかも持っているヴェティアが妬む。その姿を見ていると、どうしても腹が立った。
イベントを十分に楽しみ、いくつかグッズも買った。
帰宅する頃には、もう日が傾いていた。
駅から家へ向かう道を、茜は購入した冊子の入った袋を抱えて歩いていた。
(帰ったら、もう一周やろうかな)
そんなことを考えていたとき、ふと前方に老人の姿が見えた。
白髪の、ごく普通のおじいさんだった。特に気に留めるようなところはなく、茜はそのまま通り過ぎようとする。
その瞬間、耳障りなエンジン音が響いた。
「……え?」
顔を上げる。
一台の車が走ってきていた。
速い。
それ以上に、おかしい。
まっすぐ走っていない。蛇行するように車体を揺らしながら、こちらへ向かってくる。
その先には、さっきの老人がいた。
「ちょっ……!」
老人も車に気付いた。
けれど、遅い。
身体が固まってしまったように、その場から動けていない。
車が迫る。
危ない。
そう思った次の瞬間には、茜は走り出していた。
どうしてそうしたのか、自分でも分からなかった。
誰かを呼ぼうとも思わなかった。自分まで巻き込まれるかもしれないとも考えなかった。
助けたところで、何の得にもならない。
そんなことを考える時間すらなかった。
「危ない!」
老人の身体へ両手を伸ばし、思い切り突き飛ばす。
老人が歩道側へ倒れた。
(よかった)
そう思った直後、視界いっぱいに車が迫った。
衝撃が身体を貫いた。
足元が消え、身体が宙へ浮く。
何が起きたのか理解するより先に、茜は地面へ叩きつけられた。
痛い。
はずなのに、不思議とよく分からなかった。
音が遠い。
誰かの悲鳴も、急停車する車の音も、全部、水の底で聞いているようだった。
息がうまくできない。身体も動かない。
(……私、死ぬのかな)
妙に冷静な考えが浮かんだ。
まだ買った冊子も読んでいない。限定グッズだって開けていない。
ゲームだって、まだ――。
「お嬢さん!」
声が聞こえた。
さっきの老人だった。
歩道へ突き飛ばしたはずの老人が、茜のそばへ駆け寄ってくる。
「お嬢さん、しっかりなさい! 今、誰かを呼びますから!」
老人の声は震えていた。
無事だった。
ちゃんと歩いている。
怪我はしているかもしれない。それでも、生きている。
「どうして……どうして、私なんかを……」
老人が何かを言っている。
けれど、もうよく聞こえなかった。
茜は、その顔をぼんやりと見上げる。
名前も知らない。
どこの誰かも知らない。
助けたところで、自分には何も返ってこない。むしろ、自分はここで死ぬのかもしれない。
それなのに、不思議と後悔はなかった。
「……助かったなら、いいや」
声になったかどうかも分からない。
ただ、それだけを呟いた。
老人が何かを叫んでいる。その声も、次第に遠くなっていった。
茜の視界がゆっくりと暗くなる。
最後に思ったのは、どうして自分がこんなことをしたのか、やっぱりよく分からないということだった。
それでも。
あのおじいちゃんが助かったなら。
まあ。
いいか。
そこで、宮田茜の意識は静かに途切れた。




