第8話 原作ヒロイン
ナルシス王立魔法学校での生活は、ヴェティアが想像していたよりも普通に始まった。
朝になれば教室へ入り、決められた席へ座る。
教師の話を聞き、教本を開き、必要なことを書き留める。
周囲の生徒たちも、最初こそ公爵令嬢であるヴェティアを気にしていたものの、授業が始まれば、いつまでもこちらばかり見ているわけではなかった。
それぞれに友人を作り、授業へついていこうとし、休憩時間になれば楽しそうに言葉を交わしている。
当たり前だ。
誰も、ヴェティア・ブュッフェのために学校へ来ているわけではない。
ただ、だからといって、向けられる視線がすべてなくなったわけでもなかった。
「……あの方でしょう?」
「ええ。ブュッフェ公爵家の」
「使用人へ魔法を使ったって……」
廊下ですれ違えば、小さな声が耳へ入ることもある。
ヴェティアは足を止めなかった。
以前なら、聞こえるように陰口を叩いた相手を呼び止めていたかもしれない。
『誰に向かって口を利いているの』
『言いたいことがあるなら、私の前で言いなさい』
そんなふうに。
(……でも、実際にやったし)
アンナへ魔法を向けたことは事実だ。
自分がしたことについて話されているのに、腹を立てて相手を黙らせても何も変わらない。
その後の自分まで見てもらえるかどうか。それは、自分には決められない。
ヴェティアは何も言わず、そのまま教室へ戻った。
◇
昼休み。
教室には、早くもいくつかの小さな集まりができていた。
同じ家格。同じ地方。以前からの知り合い。
理由はさまざまだろう。
ヴェティアは窓際の席で教本を閉じた。
そのとき、少し離れたところから話し声が聞こえてくる。
「光魔法っていうだけで、随分と待遇が違うのね」
「授業料もかなり支援されているのでしょう?」
「平民なのに、王立魔法学校ですもの」
名前は出ていない。
けれど、誰の話なのかはすぐに分かった。
視線の先にルミエがいたからだ。
少し離れた席で、一人教本を読んでいる。
聞こえているのか、聞こえていないのか。少なくとも、顔を上げる様子はなかった。
「まあ、光魔法は珍しいもの」
「それは分かるけれど……」
「実力が伴っていればいいのですけれどね」
声は大きくない。
直接ルミエへ浴びせているわけでも、露骨な悪罵でもなかった。
だからこそ、妙に生々しかった。
ヴェティアは黙って、その会話を聞いていた。
そして覚えている。
ゲームの中では、ああいう言葉を一番多く口にしていたのは自分だった。
『平民の分際で、ロンド様へ馴れ馴れしく話しかけないでくださる?』
『珍しい魔法が使えるからといって、身分まで変わったわけではありませんのよ』
『少しは身の程を知りなさい』
宮田茜だった頃、画面越しにそれを見て何度思ったことか。
何様なんだ、こいつ。
(……何様も何も、私なんだけどね)
今となっては笑えなかった。
かといって、ここで立ち上がり、
『平民だから何なのです』
とルミエを庇う気にもなれなかった。
正しいことを言えば、それですべて上手くいくほど単純ではない。
ルミエからすれば、自分は評判の悪い公爵令嬢だ。しかも第一王子の婚約者。
突然庇われたところで、むしろ何か裏があるのではないかと警戒されてもおかしくない。
何より、ヴェティア自身がまだルミエへ近づくことを怖がっていた。
(関わらないって決めたんだから)
嫌がらせには加わらない。同調もしない。
けれど、必要もないのに自分から近づかない。
今はそれでいい。
幸い、話していた生徒たちも、それ以上ルミエへ直接何かをすることはなかった。
しばらくすると別の話題へ移り、笑い声が聞こえ始める。
ヴェティアは小さく息を吐いた。
学校全体が、ルミエを敵視しているわけではない。
光魔法へ興味を持ち、話しかける者もいる。平民だと知っても、特に気にしない者もいる。逆に、よく思わず距離を置く者もいる。
いろいろな人間がいる。
ただ、それだけだ。
(ゲームだと、ルミエを中心に全部動いてるように見えたけど)
現実は違う。
誰もが、自分自身の事情を持ってここへ来ている。
それはヴェティア自身についても、同じなのだろう。
◇
午後の授業。
教師の説明を聞きながら、ヴェティアはふと斜め前へ視線を向けた。
ルミエがいる。
姿勢を正し、真剣な顔で板書を書き写していた。教師が説明を付け加えるたび、すぐに筆を走らせる。
しばらくして、その手が止まった。
分からないところがあったらしい。
ルミエは少し眉を寄せ、前の頁を確認する。教本を何度かめくり、それでも分からなかったのか、隣の生徒へ小声で何かを尋ねた。
相手が教本の一箇所を示すと、ルミエは何度も頷いた。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
ヴェティアの席まで、かろうじて届く程度。
(……真面目だな)
知っていた。
宮田茜だった頃から。
ルミエ・セルメールは努力家だ。
勉強を怠らない。魔法の練習もする。失敗すれば落ち込む。
けれど、誰かを恨んで終わるより、次に自分が何をすればいいのかを考える。
だから宮田茜はルミエが好きだった。
自分にはできなかったことを、この少女は続けていたから。
けれど、画面の向こうから見るのと、実際に目の前で見るのでは少し違った。
ゲームなら、
『ルミエは勉強を頑張った』
それだけで済む。
けれど、今目の前にいる少女は、分からないところで手を止め、まず自分で調べる。
それでも分からなければ誰かへ尋ね、教えてもらえばきちんと礼を言う。
そして、また教本へ向かう。
(努力するって……こういうことなんだ)
何か一度、大きなことを頑張るのではない。
小さなことを、誰にも褒められないところで、一つずつ積み重ねていく。
さらに別の授業では、貴族社会で使われる礼法について触れられた。
王立魔法学校には、将来宮廷や国の機関へ進む生徒も多い。そのため、身分にかかわらず最低限の作法も教えられる。
ルミエは、そこで少し苦戦していた。
教師の動きを見ながら姿勢を直し、周囲を確認し、自分の手の位置までこっそり修正している。
隣の生徒より半拍遅れて動き、間違えたことに気付いたのか、少し頬を赤くした。
(あ)
その姿が妙におかしくて、ヴェティアは危うく笑いそうになった。
もちろん、馬鹿にしたわけではない。
むしろ逆だった。
(こういうところもあるんだ)
ゲームの中で、ルミエは『主人公』だった。
多少失敗することはあっても、基本的には物語を前へ進める側にいる。
けれど今、目の前にいる少女は、知らないことは知らないし、できないことはまだできない。
平民として育ったのなら、貴族社会の作法に慣れていないのも当然だ。
それでも、
『私は平民だから』
そう言って投げ出したりはしない。
知らなければ教わり、できなければ覚えようとしている。
ヴェティアは自分の教本へ視線を戻した。
(……やっぱり、好きだったんだな)
宮田茜は、このヒロインが好きだった。
恵まれた主人公だったからではない。何でも簡単に手に入れていたからでもない。
足りないものがあっても、失敗しても、まず他人を責めるのではなく、自分にできることを探そうとする。
そこが好きだった。
だから、原作のヴェティアがそんなルミエへ向かって、
『あなたさえいなければ』
と言い続けることが、どうしようもなく腹立たしかった。
そのはずなのに。
(……この子が、ロンド様と)
そこだけは、どうしても頭から消えてくれなかった。
視線の先で、ルミエが何かに気付いたように顔を上げる。
目が合いそうになり、ヴェティアは反射的に教本へ視線を落とした。
(何してるのよ、私)
別に悪いことをしていたわけではない。少し見ていただけだ。
それなのに、妙に気まずい。
原作では、ルミエとロンドは惹かれ合い、最後には結ばれる。
その未来を知っている以上、何も感じるなという方が無理だった。
今のヴェティアは、ロンドを以前のように自分の所有物だとは思っていない。
婚約が継続されたからといって、将来まで自分の隣にいることを約束されたとも思っていない。
それでも、幼い頃から婚約者だった人が別の少女を好きになる未来を知っている。
それを平気で眺めていられるほど、まだ割り切れてはいなかった。
(……だから、やっぱり距離を取った方がいい)
余計なことを考えずに済む。
ルミエを嫌わずに済む。
自分だって、昔のような気持ちへ戻らずに済む。
そう思っているのに。
授業が終わり、ルミエが教本を抱えて立ち上がった。
「あっ」
一冊が机から滑り落ちる。
慌てて拾い上げ、近くにいた生徒へ申し訳なさそうに会釈をする。
そして今度は落とさないよう、両腕でしっかりと教本を抱え直した。
ヴェティアは、その姿を見つめた。
(……本当に、普通の女の子なんだ)
未来の聖女でもない。
ロンドと結ばれる女性でもない。
自分を倒す原作ヒロインでもない。
少なくとも今はまだ、知らないことを覚えようと必死で、失敗すれば恥ずかしそうにして、教えてもらえば嬉しそうに礼を言う。
ルミエ・セルメールという。
一人の少女。
まだ、近づくつもりはない。
友達になるつもりだってない。
けれど。
(原作ヒロインってだけで、この子を見てたら駄目なのかもしれない)
ヴェティアが知っているのは、ゲームの中で描かれたルミエの一部分だけだ。
目の前にいる少女には、画面に映らなかった時間も、知らなかった感情も、きっといくらでもある。
翌日、本格的な魔法実技の授業が始まる。
そこでヴェティアは、画面越しでしか知らなかったルミエの光を、初めて自分自身の目で見ることになる。




