第54話 自分で刈り取る
査問は、その日のうちには終わらなかった。
地下施設から押収された資料だけでも膨大だった。資金の流れ、物資や人員の移送記録、研究資料、関係者の証言。それぞれが何を示しているのか、一つずつ照合する必要がある。
ヴェティアがアンナについて証言したあとも、その手続きは変わらなかった。
誰かが自分の罪を認めたからといって、別の誰かの罪まで決まるわけではない。
数日にわたる確認を経て、再び査問の場が設けられた。
「これまでに確認された証拠をもとに、本査問における事実認定と、それぞれの責任範囲を示す」
オーギュストの声が室内へ響く。
ヴェティアは静かに前を向いていた。
場所は最初の査問と同じだったが、机に積まれた資料の多くには、すでに確認を終えたことを示す印が付けられている。
「エドガー・クラヴェル伯爵については、複数の犯罪行為への直接的な関与が確認された」
エドガーは黙ったままだった。
「本人の意思に反した拘束と移送。人体を用いた研究。禁忌とされる研究への直接的な関与。また、それらを隠すために行われた工作についても、複数の記録と証言が一致している」
以前まで残っていた反論するような力は、もうエドガーの表情には見えなかった。
けれど、ヴェティアはそこに満足を覚えなかった。
彼が追い詰められたからといって、人々が受けた傷まで消えるわけではない。
隣では、ルミエが膝の上で手を握っている。
救出された人々の中には、今も治療を受けている者がいた。身体の傷だけではない。長く閉じ込められていた者も、自分が次に何をされるのか分からないまま研究の対象にされていた者もいる。
救い出せた。
それは事実だ。
けれど、それだけで元の生活へ戻れるわけではない。
「クラヴェル伯については、以上の認定を前提として、今後正式な処分手続きへ移る」
オーギュストはそこで一度言葉を切り、レナードへ視線を移した。
「レナード・ヴァルモン侯爵についても、確認された範囲を明らかにする」
レナードは背筋を伸ばしたまま、王を見ていた。
「まず、あなたが教会と聖女の政治的影響力を警戒していたこと。それ自体は、今回の処分理由とはしない」
室内に小さなざわめきが生じる。
オーギュストは構わず続けた。
「教会が強い権威を持つことを危険視することも、王家と教会の関係について異なる意見を持つことも、政治的な主張の範囲にある」
レナードの目がわずかに細くなる。
「では――」
「だが、その主張を理由として、あなたが実際に何をしたのかは別だ」
低い声が言葉を遮った。
「資金を提供したこと。人員と組織の一部を活動へ利用させたこと。クラヴェル伯から研究の進行について報告を受けていたこと。それらは記録によって確認された」
「私は、すべてを知っていたわけではありません」
「その点も分けている」
レナードが口を閉じる。
「クラヴェル伯が行ったすべてを、あなたが命じたとする証拠はない。研究の細部まで、あなたが常に把握していたとも認定しない」
ヴェティアは、その言葉を聞きながらレナードを見た。
もし、自分の知っているゲームの筋書きだけを根拠にしてよいのなら、もっと簡単だった。
この男は王権派の首魁だった。
原作では自分も、その側へ加わる。
ならば、すべて彼の罪にしてしまえばいい。
けれど、それでは意味がない。
証拠を見る。
実際に何をしたのかを見る。
それは、敵にだけ適用するための基準ではなかった。
「一方で」
オーギュストが続ける。
「違法な活動が行われていることを認識したあとも、あなたが資金と組織の提供を止めなかったことは確認されている。報告の中には、人を本人の意思に反して確保していたと判断できる記述もあった。それでも、あなたは活動の停止を命じなかった」
レナードの口元がわずかに強張る。
「国を守る必要があったのです」
「その主張は、すでに聞いた」
「大聖女という存在が、どれほど人々へ影響を与えるか。陛下もご存じのはずです。今はミュゲ様ご本人が権力を求めておられないから問題になっていないだけだ。次も同じとは限らない」
レナードはルミエへ視線を向けた。
「ましてや、次代の聖女になり得る者が王家に近づけば、教会と王権の境界はさらに曖昧になる」
ルミエの肩がわずかに揺れる。
ヴェティアは、その横顔を見た。
レナードの言葉すべてが間違っているとは思わなかった。
力を持つ者がいれば、その力がどう扱われるのかという問題は生まれる。本人が権力を望んでいなくても、周囲が利用しようとすることもある。
聖女だから正しい。
王家だから正しい。
そんな単純な話ではない。
「侯爵」
ヴェティアが口を開いた。
レナードがこちらを見る。
「私も、その問題を考える必要はあると思います」
「ならば――」
「ですが、それはあの人たちを使っていい理由にはなりません」
地下施設で見た光景が蘇る。
並べられた寝台。器具。怯えた顔。
助けに入った自分たちを見ても、何をされるのか分からず身を縮めていた人々。
「聖女が危険かもしれない。教会が強くなりすぎるかもしれない。それを議論することと、本人の意思を無視して人を研究材料にすることは、同じではありません」
レナードはしばらくヴェティアを見つめていた。
「……あなたが、それを言いますか」
「はい」
胸の奥が少し痛んだ。
けれど、もうその痛みから逃げようとは思わなかった。
「私も、人を傷つけました」
「ならば分かるはずでしょう。目的のためには――」
「だから分かるんです」
ヴェティアの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「自分の中では理由があっても、傷つけられた側にとって、その理由が傷を消してくれるわけではありません」
『されたことを忘れたわけではありません』
アンナの声が蘇る。
それでいい。
それが、あったことなのだから。
「私は、侯爵の考えそのものを裁きたいわけではありません。私にそんな資格があるとも思っていません。ただ……自分で選んだことは、自分で引き受けなければならないと思います」
レナードは答えなかった。
その顔に納得はなかった。
最後まで、自分の懸念そのものには正当性があったと考えているのかもしれない。
それでもよかった。
心の中まで変えさせることが、今回の目的ではない。
王家が判断したのも、そこではなかった。
エドガーが直接行ったことは、エドガーへ。
レナードが命じたこと、知りながら許容したことは、レナードへ。
証拠のないことまで背負わせず、証拠によって確認されたことからも逃がさない。
その責任範囲が、この場で正式に認定された。
具体的な処分は、認定された罪状と被害の内容に基づき、これから定められる。
少なくとも、王権派という一つの名前だけで、すべてをまとめて終わらせることはなかった。
それでいいのだと、ヴェティアは思った。
その後、救出された人々についても報告があった。
治療を受け、少しずつ回復している者。
家族のもとへ戻る準備をしている者。
すぐには元の生活へ戻れず、王家の保護を受け続ける者。
証言したことで不利益を受けないよう、今後も保護が必要な者もいた。
誰一人として、「助かった」の一言だけでは終わらない。
事件を止めることはできても、起きたことまで消すことはできなかった。
査問が終わり、ヴェティアたちが部屋を出る頃には、窓から差し込む光が傾いていた。
「終わった……のでしょうか」
廊下へ出たところで、ルミエが呟いた。
「事件としては、一つの区切りだと思う」
ロンドが答える。
「誰が何をしたのか、その責任範囲は決まった。処分の手続きも、被害者への支援もこれから続くけど、もう曖昧なままにはしない」
「そうですね」
ルミエは頷いたあと、ヴェティアを見た。
「ヴェティア様」
「はい?」
何かを言おうとして、ルミエは口を閉じた。
それから、少し困ったように笑う。
「……いえ。また今度にします」
「気になります」
「今は、まだうまく言えないので」
「そうですか」
ヴェティアは、それ以上聞かなかった。
言葉にならないものを、無理に答えへ変えなくてもいい。
以前なら、そうは思えなかったかもしれない。
自分は悪い人間なのか。
許されるのか。
償えるのか。
幸せになっていいのか。
分からないことがあるたび、誰かに正しい答えを決めてもらいたかった。
「ヴェティア」
ロンドに呼ばれ、振り返る。
「今回の件で、君の過去についても人の口に上るだろう」
「……はい」
分かっていた。
アンナを傷つけた過去。
かつて問題を起こした公爵令嬢。
第一王子の婚約者として相応しいのか。
社交界で何を言われるのか。
これから先、自分の立場へどんな影響が出るのか。
怖くないと言えば嘘になる。
「後悔している?」
ロンドが尋ねた。
ヴェティアは少し考えてから答えた。
「怖いです」
「うん」
「失いたくないものもあります」
そう言って、ヴェティアはロンドを見る。
一瞬だけ、目を逸らしたくなった。
「でも、隠して残したものを、自分のものだと思える気がしません」
ロンドはしばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
けれど、歩き出した彼はヴェティアの先へは行かなかった。
横へ並ぶ。
以前、王宮で言われた言葉を思い出した。
『僕は、まだ君を信用していない』
『だから、これから見る』
ロンドは、その言葉どおりに見てきた。
何を言ったかではなく、何をしたのかを。
失敗したときも、迷ったときも、逃げそうになったときも。そして、それでも選び直したときも。
過去を知らないから、今ここにいるのではない。
知ったうえで、まだ隣を歩いている。
反対側にはルミエがいた。
ルミエも、もうヴェティアを「自分を助けてくれた優しい人」だけだとは思っていないだろう。
アンナを傷つけたことを知っている。苛立つことも、怖くなれば逃げたくなることも、自分を嫌って一人で抱え込もうとすることも見られてきた。
それでも、今ここにいる。
なぜ二人がそうしてくれるのか。
その答えまで、ヴェティアが代わりに決める必要はないのかもしれない。
屋敷へ戻ると、玄関でアンナが迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……ただいま戻りました」
昨日までと同じやり取りだった。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
アンナは何も特別なことを言わない。
ヴェティアも、査問での証言について改めて礼を言わなかった。
今ここで、何かをきれいに終わらせる必要はない。
アンナが屋敷の奥へ歩き出す。
ヴェティアも、そのあとを追った。
傷つける前へ戻れるわけではない。
なら、過去を残したまま、これから積み重ねていくしかない。
自室へ戻ると、ヴェティアは窓辺の椅子へ腰を下ろした。
長い一日だったはずなのに、不思議と眠気はなかった。
自分の手を見る。
この手でアンナへ魔法を向けた。
事故に巻き込まれたルミエへ、この手を伸ばした。
闇魔法へ続く研究を目の前にし、そして完成させないと決めた。
どれか一つだけが本当の自分なのではない。
全部、自分がしたことだった。
善いことをしたから罪が消えるわけではない。
罪を犯したから、その後の選択まで無意味になるわけでもない。
今までのヴェティアは、その二つを一緒に抱えることが怖かった。
だから、自分は悪い人間なのだと決めてしまおうとしていた。
幸せになってはいけない。
苦しみ続けることが償いなのだと。
そう決めてしまえば、その先を考えなくて済む。
けれど、それもまた、責任とは少し違うのかもしれない。
アンナへしたことは消えない。
もし、これからも許されないとしても、それは受け止める。
必要な責任からも、今回の告白によって生じる結果からも逃げない。
それでも、自分から何もかもを捨てる必要まではない。
『自分で作った罪障は、自分で刈り取らねばなりません』
ミュゲの言葉が、静かに蘇った。
最初に聞いたとき、ヴェティアはそれを罰の言葉だと思っていた。
自分が作った罪なのだから、自分が苦しんで消さなければならないのだと。
けれど、きっと違う。
刈り取るというのは、なかったことにすることではない。
自分がしたことから目を逸らさず、その結果を引き受けること。
そして、そのあとに何を選ぶのかまで、他人へ委ねないこと。
ヴェティアは窓の外へ目を向けた。
これまで未来を考えるときには、いつも同じ問いから始まっていた。
破滅しないためには、どうすればいい。
罪を償うためには、どうすればいい。
誰かを傷つけないためには、どうすればいい。
どれも必要だった。
けれど、自分の人生には、もう一つ問いが残っている。
(私は――これから、どう生きたいんだろう)
答えは、まだ出なかった。
それでもよかった。
ヴェティアは膝の上に置いた手を、ゆっくりと開いた。
過去は消えない。
それでも、次に何を選ぶのかは、自分で決めていい。
ようやく、そう思えた。




