第53話 されたことを忘れていません
「……お答えします」
ヴェティアは、膝の上で組んでいた手をほどいた。
逃げるための言葉なら、いくつも浮かんでいた。
あれは魔法の暴走だった。あそこまで大きな傷を負わせるつもりはなかった。すぐに治療を受けさせた。両親にも王家にも報告した。それからは同じことをしていない。
どれも嘘ではない。
けれど、それだけを並べれば、もっと大切な事実を隠すことになる。
ヴェティアはレナードから目を逸らさなかった。
「その件は事実です。私がアンナを傷つけました」
室内が静まり返った。
言葉にした瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちる。
怖かった。
今、この場にいる人たちが何を思ったのか確かめたくなる。ロンドの顔を見たい。ルミエがどんな表情をしているのか知りたい。
けれど、その前に話さなければならないことがある。
「魔法をあの規模で暴走させるつもりはありませんでした。ですが、魔法を向けるつもりはありました」
喉が乾いていた。それでも、声は止まらなかった。
「私はアンナを罰しようとしました。傷つけるつもりで魔法を使いました。そして、実際に傷つけました」
あの日の光景は、今でも残っている。
床に倒れたアンナ。
自分の手。
その手から放たれた魔法。
前世の記憶を取り戻した直後に見た光景だった。
けれど、宮田茜の記憶が戻る前だったから、自分ではないとは言えない。
あれをしたのもヴェティアだった。
今ここにいる自分と、同じ人間だ。
「今回の事件で誰かを助けたことも、闇魔法を使わなかったことも、その事実とは関係ありません」
レナードの目が細くなる。
「関係がない、と?」
「はい」
「あなたは王権派を止めるために動いた。その功績を認められて、この場にいるのでしょう。それでも?」
「それでもです」
自分が人を救ったからといって、昔に傷つけた人の痛みが軽くなるわけではない。
「今回、私が何をしたのかは、今回のことで見ていただけばいいと思います。アンナへ何をしたのかは、アンナへしたことで判断されるべきです」
「では、ご自身も裁かれるべきだと?」
胸がわずかに縮んだ。
怖さは消えていない。
罪が知られれば、すべてを失う。
以前の自分なら、それを何より恐れただろう。
けれど、今は少しだけ違う。
「必要な責任があるのなら、そうしてください」
口にしたあとで、自分の指が震えていることに気付いた。
平気なわけではない。
何も失っていいと思っているわけでもない。
ロンドとの婚約も、家族からの信頼も、ルミエとの関係も、自分がようやく作ってきたものも、失いたくなかった。
だからこそ、それを残すために嘘をつきたくなかった。
「父上」
ロンドの声がした。
ヴェティアは、そこで初めて隣を見る。
ロンドはヴェティアではなく、オーギュストを見ていた。
「この件について、王家にはすでに報告があります」
「ああ」
オーギュストは短く答えた。
「ブュッフェ公爵家から、事件の直後に報告を受けている。負傷の程度、その原因、その後に取られた措置についても確認している」
レナードが口を開きかける。
しかし、その前にロンドが続けた。
「だからといって、ヴェティアの行為をなかったことにはできません」
庇わなかった。
ヴェティアは、そのことに妙な安堵を覚えた。
「ですが、今ここで扱っている王権派の事件と、ヴェティアがアンナ・ローレルを傷つけた件も、同じものではありません」
ロンドはレナードを見る。
「ヴェティアが過去に人を傷つけたからといって、あなた方が人を誘拐し、禁忌研究に関わったかどうかが変わるわけではない。逆も同じです。今回ヴェティアが事件を止める側にいたからといって、彼女が過去にしたことが消えるわけでもない」
ヴェティアは何も言えなかった。
胸の奥が、少し痛んだ。
ロンドは、自分を守るために過去を小さくしなかった。その代わり、過去を理由に今のすべてまで否定することもしなかった。
「それぞれ、事実に基づいて扱います」
オーギュストが告げる。
「ヴァルモン侯爵。あなたがブュッフェ公爵令嬢の過去を指摘したことは、この査問におけるあなた自身の責任を軽くするものではない」
レナードの表情から、初めてわずかに余裕が消えた。
「……承知しております」
「ただし」
王の視線がヴェティアへ向く。
「本人が認めた以上、この件を曖昧にするつもりもない」
「はい」
ヴェティアは頷いた。
これでいい。
そう思おうとしたが、心臓はまだ速く打っている。
自分で認めた。
それで終わりではない。
傷つけられた側がいる。
オーギュストは側近へ視線を向けた。
「一度、確認のため席を外す」
レナードがアンナの件を持ち出した以上、ヴェティア本人の証言だけで扱うわけにはいかなかった。
短い中断が置かれ、その間に王家は、すでに保管されていた当時の報告内容を改めて確認した。
そして本人の意思を確かめたうえで、アンナにも証言を求めることになった。
再び査問が始まったとき、オーギュストは静かに告げた。
「アンナ・ローレル本人にも、話を聞く」
扉の方へ視線が集まる。
まもなく、王宮の者に案内されて一人の女性が入ってきた。
アンナだった。
いつもの屋敷で見る侍女服とは違い、落ち着いた色の服を着ている。歩みはしっかりしていた。
けれど、その姿を見た瞬間、ヴェティアの呼吸が浅くなる。
アンナと目が合った。
すぐに逸らされた。
それだけで、あの日から何もかもが消えたわけではないと分かった。
当然だ。
ヴェティアは自分の手を見る。
傷つけた側がどれだけ反省しても、傷つけられた側の記憶まで自由にはできない。
「アンナ・ローレル」
「はい」
「先ほど、この場でブュッフェ公爵令嬢が、あなたを魔法で傷つけた事実を認めた」
「はい」
アンナの声は小さかったが、震えてはいなかった。
「あなた自身の認識を聞きたい。無理に令嬢を擁護する必要も、非難する必要もない。あなたが経験したことを、そのまま話してほしい」
アンナは一度だけ息を吸った。
そして、ヴェティアを見る。
逃げたくなった。
自分が傷つけた人の目から。
その目に何があるのかを見ることから。
けれど、ヴェティアは視線を逸らさなかった。
「……私は、お嬢様に魔法を向けられました」
アンナの言葉が、静かに落ちる。
「怖かったです」
胸の奥が締め付けられた。
「あのときのことは、今でも覚えています。倒れたことも、痛かったことも……お嬢様が怒っていた顔も」
ヴェティアは唇を結んだ。
言い訳をしないと決めたのに、心のどこかで願っていたのかもしれない。
アンナが少しだけ軽く言ってくれることを。
もう平気だと。
昔のことだと。
そんな期待をしていた自分が、ひどく恥ずかしかった。
「されたことを忘れたわけではありません」
アンナは、はっきりと言った。
ヴェティアは目を閉じなかった。
「今のお嬢様が以前と違うからといって、あの日のことがなくなったとは思っていません」
「……はい」
思わず声が出た。
アンナが少しだけこちらを見る。
「私も、なくなったとは思っていません」
それ以上は言わなかった。
許してほしい。
分かってほしい。
今の自分を見てほしい。
そう言う資格がないとは思わない。
ただ、この場でアンナにそれを求めるのは違う。
アンナはしばらく黙っていた。
やがて、両手を身体の前で重ねる。
「あの日、お嬢様は私に謝りました」
ヴェティアは顔を上げた。
「治療を受けさせてくださいました。旦那様と奥様にも話されました。王家へ報告することになったときも、止めませんでした」
アンナの声は淡々としている。
「私が、すぐには許せないと言っても……許すようには言われませんでした」
あの日の会話が戻ってくる。
『今すぐ許さなくていい』
あの言葉を口にしたとき、自分が何をすれば正しいのかなど分かっていなかった。
ただ、許してほしいと言えば、さらにアンナへ何かを押し付ける気がした。
それだけだった。
「それからも、お嬢様は、あったことをなかったことにはしませんでした」
アンナが少しだけ言葉を探す。
「私はずっと、お嬢様が怖くなくなったわけではありません」
ヴェティアの胸が痛む。
けれど、その痛みから目を逸らしてはいけない。
「前にもお伝えしました。私は、忘れていません」
「……はい」
「でも」
アンナの指が、重ねた手の上でわずかに動いた。
「あの日から、お嬢様が逃げなかったことも知っています」
ヴェティアは息を止めた。
アンナは微笑まなかった。
涙も流さなかった。
ただ、自分が知っていることを話すように続ける。
「されたことを忘れていないことと、その後にされたことを知らないことは、私の中では同じではありません」
ヴェティアは何も言えなかった。
「私は、お嬢様に傷つけられました。それは変わりません。でも、そのあと、お嬢様がどうされてきたのかも見てきました」
許します。
その言葉はなかった。
それでよかった。
むしろ、なかったからこそ、アンナの言葉をそのまま受け取ることができた。
傷つけたこと。
そのあと逃げなかったこと。
二つは、どちらか一方を消すものではない。
両方とも、あったことなのだ。
「ありがとうございます」
ヴェティアがそう言うと、アンナは少しだけ目を伏せた。
「お礼を言われることではないと思います」
「……そうですね」
小さく息が漏れた。
アンナらしいと思った。
その瞬間だけ、屋敷で交わしてきた日常の会話が重なる。
けれど、以前と同じ関係へ戻ったわけではない。
そもそも、戻るべきなのかも分からない。
あの日より前の自分とアンナの関係が、アンナにとって良いものだったとは限らないのだから。
新しく作っていくしかない。
過去を残したまま。
アンナの証言が終わり、王宮の者に付き添われて席を離れる。
扉の前で、アンナが一度振り返った。
ヴェティアと目が合う。
今度は、すぐには逸らされなかった。
それだけだった。
扉が閉じる。
ヴェティアはゆっくりと息を吐いた。
何かが許されたわけではない。
けれど、今まで自分が一つのものだと思っていた考えに、小さな亀裂が入っていた。
自分はずっと、傷つけたのだから苦しむべきだと思っていた。
責任を取るなら失うべきだ。
償うなら、幸せを望んではいけない。
そう考えることが、どこかで誠実なのだと思っていた。
けれど、それは本当にアンナが望んだことだったのだろうか。
アンナは一度も、
『ずっと不幸でいてください』
などと言っていない。
許していないことと、ヴェティアが苦しみ続けることを望むことは同じではない。
なのに自分は、自分自身へ罰を与えるために、いつの間にかアンナの気持ちまで勝手に決めようとしていたのではないか。
『責任を負うことと、すべてを一人で背負うことは同じではありません』
ミュゲの言葉が浮かんだ。
あのときは、まだ分かったつもりになっていただけだったのかもしれない。
責任から逃げないこと。
傷つけた事実を忘れないこと。
相手が許してくれなくても、それを受け止めること。
同じことを繰り返さないこと。
それらと、自分を罰し続けることは、本当に同じなのだろうか。
まだ、答えは出なかった。
ただ、今まで一つだと思っていたものの間に、初めて細い境目が見えた気がした。
ふと、隣から小さな気配がした。
ルミエだった。
何も言わず、机の下で握りしめていたヴェティアの手の近くへ、自分の手をそっと置く。
触れてはいない。
それでも、そこにいると分かる距離だった。
反対側を見ると、ロンドもこちらを見ていた。
目が合うと、彼は何も慰めず、ほんの少しだけ頷いた。
大丈夫だとも、気にするなとも、もう許されたとも言わない。
それが、今はありがたかった。
ヴェティアは前を向き直る。
査問はまだ終わっていない。
レナードとエドガーが何をしたのか。
どこまで知り、何を命じ、何を許したのか。
それはこれから、集められた事実によって決められる。
自分のことも同じだ。
したことを消すことはできない。
けれど、消せないものを抱えることと、自分の人生をすべて罰に変えることまで、本当に同じなのか。
ヴェティアは、まだ震えの残る手を膝の上で静かに開いた。
逃げなかった。
今日は、それだけでいいと思った。




