第52話 思想と罪
査問の場に立っても、ヴェティアは自分が正しい側にいるとは思えなかった。
王宮の一室には、あの地下施設から運び出された記録の写しが並べられている。
研究日誌。資金の出入りを記した帳簿。人員と物資の移送記録。保管されていた禁忌資料。関係者から回収された報告書。
それだけではない。
救出された人々から得られた証言も、医師の確認を経たうえで整理されている。
一つだけなら、言い逃れはできたのかもしれない。
記録が間違っている。
証言者が誤解している。
金の流れだけでは、用途までは分からない。
けれど、王家が確認しているのは一つの証拠ではなかった。別々の場所から得られた記録が、互いを補うようにつながっている。
だからこそ、ヴェティアは怖いとも思った。
証拠というものは、知っている未来よりずっと冷たい。
自分に都合よく姿を変えてはくれない。
「エドガー・クラヴェル伯爵」
室内に、オーギュスト王の低い声が響いた。
少し離れた場所で、エドガーが顔を上げる。
拘束されているとはいえ、罪人として判決を受けたわけではない。そのためか、彼の表情にはまだ何かを主張しようとする力が残っていた。
「この帳簿について、確認する」
王の傍らに控えていた文官が、一冊の記録を開いた。
「複数回にわたり、あなたの管理下にある資金から、仲介者を経由して研究施設へ金が渡っている。こちらは仲介者側から押収された記録だ。日付と金額が一致している」
「研究への出資そのものが罪になるのですか」
エドガーは答えた。
「内容によります」
返したのはロンドだった。
王子として父王の隣に座るその姿は、いつもの学園での彼とは少し違って見えた。
「普通の研究だったなら、それだけで罪にはならない。けれど、ここでは人が本人の意思に反して拘束されていた。被害者の証言もある。移送に使われた記録も残っている」
「私が、その一人一人を連れて来いと命じた証拠でも?」
「だから、それを今確認している」
ロンドの声は強くなかった。
「君が何をしたのか。何を命じたのか。どこまで知っていたのか。分けて見る」
ヴェティアは膝の上で指を組んだ。
以前なら、その言葉を聞いて少し安心したかもしれない。
敵の罪が明らかになる。
自分たちは正しかった。
そう思いたかったかもしれない。
けれど今は違う。
正しかったかどうかではない。
何をしたのか。
それだけを見る。
エドガーについては、すでにかなりの部分がつながり始めていた。
研究施設へ送られた物資。
拘束された人々の移送。
仲介者への支払い。
研究の進行を尋ねる書状。
禁忌とされる資料の入手経路。
さらに、あの施設で確保された者たちの証言。
証言だけで決めるのではない。記録だけでも決めない。
互いに独立していたはずのものが、少しずつ同じ場所へ集まっていく。
その一方で、レナード・ヴァルモン侯爵については事情が違った。
彼の名が記録に現れる回数は、エドガーほど多くない。
資金の一部は彼に近い経路を通っている。報告を受けていた形跡もある。
だが、地下施設で行われていたことのすべてを、彼が細部まで把握していたと断定できる資料はまだなかった。
「侯爵」
オーギュストが呼ぶ。
レナードは静かに立ち上がった。
追い詰められた男には見えなかった。
少なくとも、表面上は。
「あなたが以前から、教会と聖女の政治的影響力について懸念を示していたことは確認している」
「はい」
「その考えそのものを問うつもりはない」
レナードの目がわずかに動いた。
王は続ける。
「王家と教会は異なる役割を持つ。互いの影響が大きくなりすぎることを警戒する意見があることも理解している」
「でしたら――」
「最後まで聞け」
短い言葉で、レナードが黙る。
「懸念を持つことと、人を攫うことは同じではない。政治的な主張と、禁じられた研究を行うことも同じではない」
室内が静かになった。
ヴェティアはレナードを見た。
彼が以前に語っていたことを思い出す。
教会が力を持ちすぎる危険。
聖女という存在が民衆から大きな支持を集めること。
もし、その聖女が王家と近い位置へ入れば、政治的な均衡が変わる可能性。
ヴェティアは、それらをすべて愚かな話だとは思っていなかった。
実際、ミュゲの言葉には人を動かす力がある。
彼女自身が権力を求めていなくても、周囲が意味を与えることはある。ルミエにも、いつか同じことが起こるかもしれない。
その危険について議論することまで禁じてしまえば、それこそ健全ではないだろう。
「……私も」
ヴェティアが口を開くと、何人かの視線が向いた。
「ヴァルモン侯爵の懸念が、すべて間違っているとは思いません」
レナードがこちらを見る。
「聖女へ大きな影響力が集まること。教会と王家の関係。そこへ政治的な問題が生じる可能性について考えること自体は、必要だと思います」
隣に座るルミエが、何も言わずに聞いている。
自分がその話の対象になり得ると理解しているからだろう。
「ですが」
ヴェティアは続けた。
「それと、人を傷つけてよいかどうかは別の話です」
以前にも、同じようなことを言った。
けれど、そのときより今の方が重く感じた。
実際に人が傷つけられた場所を見たからだ。
助け出された人の身体を見た。
誰かの思想や目的を形にするために、人間が材料のように扱われていた。
「考えが正しいと思っていたとしても、そのために何をしたのかは、別に見なければならないと思います」
レナードはしばらく答えなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「なるほど」
声にはまだ余裕があった。
「随分と立派なことを仰るようになられた」
ヴェティアの背中に、かすかな緊張が走った。
「ブュッフェ公爵令嬢。あなたは今、自分が人を傷つける側ではないとでもお考えですか」
「……いいえ」
即座に答えられた。
それが意外だったのか、レナードの眉がわずかに動いた。
「そうですか。では、あなたは今回の件で、自分が正しい側へ移ったと?」
「それも違います」
「ですが、ここにいる方々はあなたの言葉を聞いている。事件を止めた功労者として扱っている」
「侯爵」
ロンドが口を挟もうとした。
しかしヴェティアは、小さく首を振った。
止めなくていい。
そう伝えるつもりだった。
ロンドは一瞬だけこちらを見て、それ以上言わなかった。
レナードの視線がヴェティアへ戻る。
「人を傷つけた者が、別の場所では他人の罪を語る。随分と都合のよい話ではありませんか」
胸の奥が冷たくなる。
何を言おうとしているのか。
もう分かっていた。
「ブュッフェ公爵家の侍女」
その言葉が出た瞬間、ヴェティアの指先が強く重なった。
「アンナ・ローレル」
名前まで知っている。
不思議ではない。
王家へ報告された出来事だ。隠し通せる秘密ではなかった。
それでも、室内にいる者たちの前でその名を聞いた瞬間、古い恐怖が身体の奥から戻ってきた。
知られたらどうなるのだろう。
ロンドは。
ルミエは。
周囲の人々は。
自分を見る目を変えるのではないか。
せっかく積み上げてきたものが、なくなるのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
昔の自分なら、ここから逃げる方法を探した。
事故だったと言う。
暴走だったと強調する。
今は違う人間だと言う。
今回の事件で人を救ったことを持ち出す。
いくらでも言葉は作れる。
けれど、そのどれも、あの日の事実を変えない。
「あなたは、自分の侍女へ魔法を向けた」
レナードが言った。
「彼女は怪我を負った。違いますか?」
ヴェティアは答えなかった。
答えられなかったのではない。
どう答えるのかを、初めて自分で選ぼうとしていた。
視線を落とさない。
レナードを見る。
その向こうにいる王を見る。
そして、隣にいるロンドとルミエの気配を感じた。
怖くないわけではない。
失うものがないわけでもない。
それでも、隠すための言葉を探すのは、もうやめる。
ヴェティアはゆっくりと息を吸った。
「……お答えします」
自分の声が、思っていたよりもはっきりと室内へ響いた。




