第51話 私が殺すはずだった人
研究施設を出たあとも、ヴェティアの手にはしばらく震えが残っていた。
魔力を使いすぎたせいだけではない。
あの場所で、自分が何をしようとしたのか。そして最後に、何を選ばなかったのか。
頭では理解しているつもりでも、身体の方はまだ追いついていないらしい。
「ヴェティア様。本当に怪我はありませんか?」
何度目になるか分からない問いに、ヴェティアは自分の腕を確かめた。
「擦り傷くらいよ。あなたこそ?」
「私も大丈夫です」
ルミエの服には埃が付き、髪も少し乱れている。それでも、大きな怪我は見当たらなかった。
その向こうでは、ロンドが調査員から報告を受けている。
エドガー・クラヴェル伯爵はすでに王家側の管理下へ置かれ、研究施設から救い出された者たちも治療を受けていた。確保された資料については、これから既存の記録と照合されることになる。
事件のすべてが終わったわけではない。
エドガーがどこまで研究へ関わっていたのか。さらに上から、どのような指示が出ていたのか。レナード・ヴァルモン侯爵が何を知り、何を命じていたのか。
それらはこれから、証拠に基づいて一つずつ確かめなければならない。
けれど、少なくとも今は、二人ともここにいる。
ヴェティアがロンドへ目を向けると、ちょうど報告を聞き終えたところだった。調査員へ短く指示を出したあと、彼はこちらへ歩いてくる。
「二人とも、体調は?」
「私は大丈夫です」
ルミエが答えた。
「私もです」
「さっきふらついていただろう」
「見ていたんですか?」
「見える場所にいたからね」
ロンドは呆れたように言う。
「今日はもう無理をするな」
「ロンド様こそ」
「僕は魔力をほとんど使っていない」
「だからといって、疲れていないとは限らないでしょう」
「それは君にも言える」
「……そうですね」
言い返せなくなったヴェティアを見て、ルミエが小さく笑った。
その声を聞いた瞬間、別の光景が頭の奥に浮かぶ。
原作の最後。
そこに、こんなふうに笑っている二人はいなかった。
鮮血姫となったヴェティアと対峙する、ロンドとルミエ。
自分を選ばなかった婚約者と、自分から彼を奪ったと思い込んだ少女。原作のヴェティアは、そうやって二人を見ていた。
だから傷つけた。
だから殺そうとした。
ルミエを憎み、ロンドを憎みながら、それでもロンドには自分を見てほしかった。選んでほしかった。自分のものになってほしかった。
そして、それが叶わないのなら、壊してしまえばいいと思うところまで進んだ。
(……私は)
今回、二人が危険へさらされたとき。
自分は何を願っただろう。
ロンドに自分を選んでほしいとは思わなかった。
ルミエより自分を見てほしいとも思わなかった。
ただ、生きていてほしかった。
自分を選ばなくてもいい。自分から離れていってもいい。いつか別の誰かを好きになったとしても、それでも生きていてほしい。
それは、ずっと自分が愛だと思っていたものとは少し違っていた。
(自分のものにすることだけが、好きってことじゃないのかもしれない)
まだ分からない。
ロンドへの感情も、ルミエへの感情も、きれいに名前を付けられるほど、ヴェティアは自分の心を理解していなかった。
けれど、相手が自分を選ぶ未来よりも、相手が生きている未来を願うことはできる。
そのことだけは、今日初めて分かった気がした。
「どうした?」
ロンドに尋ねられ、ヴェティアは我に返る。
「いえ」
一度、二人を見た。
「……本当に、無事でよかったと思って」
ルミエが少し目を丸くする。
ロンドも黙った。
急に恥ずかしくなり、ヴェティアは視線を逸らした。
「何ですか、その顔」
「いや」
ロンドの口元が僅かに緩む。
「君がそういうことを素直に言うとは思わなかった」
「失礼ですね」
「否定はしないんだな」
「……しませんけど」
ルミエがまた笑った。
その声を聞いているうちに、胸の奥へ残っていた緊張が、ようやく少しずつほどけていく。
それでも、今日の自分を褒める気にはならなかった。
闇魔法を使わなかった。
人を助けた。
皆と一緒に暴走を止めた。
だからといって、過去が消えるわけではない。
アンナへ魔法を向けたことも、実際に傷つけたことも、謝ったからなくなったわけではなかった。
今日、違うものを選んだからといって、自分が善い人間だと証明されたわけでもない。
(それでいい)
今回は、違うものを選んだ。
今は、それだけでいい。
過去を消すためでも、自分を許すためでもなく、ただ自分が何を選んだのかという事実だけを受け取ればいい。
◇
ロンドは、少し離れた場所からヴェティアを見ていた。
調査員への指示は一通り終わっている。今すぐ自分がしなければならないこともない。
だからこそ、考える時間ができてしまった。
最初、彼女は婚約者だった。
正確には、信用できない婚約者だった。
使用人へ魔法を向け、傷つけた令嬢。その後に態度を変えたからといって、簡単に信じるつもりはなかった。
『僕は、まだ君を信用していない』
そう告げたことを覚えている。
『だから、これから見る』
そして実際に、ロンドは見てきた。
謝罪したからではない。
反省していると言ったからでもない。
そのあと何をするのか。
迷ったときに何を選ぶのか。
自分に都合の悪い場面でも、逃げずにいられるのか。
それを何度も見てきた。
気付けば彼女は、単なる観察対象ではなくなっていた。
事実を持ってくる相手になった。
意見を交わす相手になった。
共に事件を追う相手になった。
それでもロンドは、その変化へ別の名前を付けないようにしていた。
信頼。
それで十分だと思っていた。
けれど今日、ヴェティアが選んだものを見て、それだけでは説明できなくなった。
彼女は、自分なら使えるかもしれない危険な力を前にして、それを選ばなかった。
ただ禁忌を拒んだからではない。
自分一人が危険を背負い、全員を救う方法にも進まなかった。
助けを求めた。
ロンドへ任せた。
セルメールにも役割を渡した。
調査員や救助にあたる者たちへも、それぞれが担うべきものを任せた。
自分だけですべてを背負うのではなく、全員が生きて帰るために、自分にできることを引き受けた。
あの瞬間の彼女を見て、ロンドは怖かった。
装置が壊れることだけではない。
ヴェティアがまた一人で何かを決め、自分たちの手の届かない場所へ進んでしまうことが。
その方が、ずっと嫌だった。
(……そういうことか)
ようやく認める。
婚約者だからではない。
家同士の関係でも、王子としての責任でもない。
過去を忘れたわけでもなかった。
許した、という一言で整理するつもりもない。
それらとは別に、今、自分の目で見てきたヴェティア・ブュッフェという人間を。
ロンドは、好きになっている。
気付いてしまえば、驚くほど簡単だった。
「……困ったな」
小さく呟く。
だからといって、すぐに何かを言うつもりはなかった。
ヴェティア自身が、まだ多くのことと向き合っている途中なのも分かっている。
自分の感情に気付いたからといって、それを相手へ渡し、答えを求めなければならないわけでもない。
少なくとも、今は。
ロンドは顔を上げた。
少し離れたところで、ヴェティアがルミエと話している。
その姿を見ながら、以前とは違う意味で思った。
(これからも、見ていたい)
信用できるかを確かめるためではない。
彼女がこの先、何を選び、どう生きていくのか。
それを知りたいと思った。
◇
ルミエは、自分の杖を両手で持っていた。
魔力を使いすぎたせいで、まだ指先には少し力が入りにくい。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
光魔法。
その力を初めて知った頃、ルミエは自分に特別なものがあるのだと驚いた。
やがて大聖女ミュゲの弟子となり、聖女見習いになった。
それから少しずつ、自分が何を求められているのか、何を警戒されているのかを考えるようになった。
今日、自分の光魔法は危険な研究へ利用されようとしていた可能性があった。
嫌だった。
怖かった。
けれど、その同じ光を、自分は人を助けるために使えた。
何かを倒すためではない。
暴走していた魔素をほどき、人が生きて帰るために使った。
(これで、よかったんだ)
聖女とは何なのだろう。
まだ、ルミエには分からない。
誰かに認められれば聖女なのか。
強い敵を倒せば聖女なのか。
大きな功績を立てれば聖女なのか。
きっと、そんなに簡単なことではない。
ミュゲから教わっているのも、力の使い方だけではなかった。
ならば、これから自分が誰を救おうとするのか。迷ったときに何を選ぶのか。
その積み重ねの先に、自分なりの答えがあるのかもしれない。
ルミエはヴェティアを見る。
少し離れた場所で、ロンドと話していた。
今日、ヴェティアは危険な力を使えるかもしれないと言った。
けれど、使わなかった。
そのことが何より嬉しかった。
(よかった)
ヴェティアがここにいる。
自分たちと同じ場所へ戻ってきた。
それだけで、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
以前、自分は言った。
『私はヴェティア様を救いたいです』
あのときも、どうしてそんな言葉が出たのか、自分ではきちんと分かっていなかった。
友達だから。
尊敬しているから。
助けてもらったから。
それだけでも説明できるはずだった。
けれど今日、ヴェティアが自分たちを置いて、危険な場所へ一人で進んでしまいそうになったとき。
本当に嫌だった。
勝手に傷つくことが。
自分を置いていくことが。
もう会えなくなるかもしれないことが。
思っていたより、ずっと嫌だった。
(……これって)
友情。
それだけなのだろうか。
考えても、今のルミエには答えが出なかった。
けれど、今すぐ答えを出さなくてもいい気がした。
ヴェティアはここにいる。
なら、これから考えていけばいい。
「ルミエさん?」
名前を呼ばれて、びくりとした。
いつの間にか、ヴェティアがこちらを見ている。
「何ですか?」
「いえ! 何でもありません!」
「……何でそんなに慌ててるの?」
「慌ててません」
「慌ててるでしょう」
「慌ててません!」
言えば言うほど怪しくなる。
ヴェティアが不思議そうに眉を寄せた。
ルミエは杖を握り直し、顔が熱くなっていることだけは気付かれないでほしいと思った。
◇
三人が再び同じ場所へ集まった頃には、周囲も少しだけ落ち着きを取り戻していた。
王家側の人間たちは、確保した記録の整理と現場の保全へ移っている。
ロンドは、このあと改めて詳細な報告を受けなければならない。
ルミエも、治療を受けている被害者たちの状態を気にしていた。
そしてヴェティアにも、まだやるべきことがある。
エドガーの犯罪。
その先にいるかもしれない人間。
王権派。
そして、それよりもっと前から、自分が逃げてはいけないこと。
アンナ。
今日、何人助けても、自分がアンナを傷つけた事実は変わらない。
未来を変えることと、過去を消すことは違う。
そのことは、忘れてはいけない。
「そろそろ移動するぞ」
ロンドが言った。
「はい」
ルミエが答える。
ヴェティアも頷き、二人と並んで歩き出した。
そこで、ふと妙な気分になった。
「……何?」
ロンドが気付く。
「いえ」
ヴェティアは二人を見る。
「少し、変な感じがしただけです」
「変な感じ?」
ルミエが首を傾げる。
「ええ」
原作なら、この三人がこうして並んで歩くことなどなかった。
三人が最後に同じ場所へ集まったとき、ヴェティアは敵だった。
闇魔法を完成させた鮮血姫。
ロンドとルミエが、倒さなければならない相手。
ルミエはその戦いを越え、正式な聖女となるはずだった。
ロンドはルミエと共に、ヴェティアを止めるはずだった。
けれど、そうはならなかった。
ヴェティアは闇魔法を完成させなかった。
ルミエはヴェティアを倒さなかった。
ロンドもヴェティアと敵対しなかった。
誰一人、原作で決められていた場所には立たなかった。
その代わり、三人は同じ側に立ち、同じものを止めた。
「ヴェティア様?」
「何でもないわ」
今度は、本当にそれでいいと思えた。
未来が原作と違うことを、以前の自分はずっと怖がっていた。
原作を知っていれば、危険を避けられると思っていた。
そこから外れれば、次に何が起きるのか分からなくなる。
だから不安だった。
けれど、今ここにある未来も、原作にはなかった。
ロンドが生きている。
ルミエが生きている。
自分もここにいる。
(それでいい)
自分を選んでもらえる未来でなくてもいい。
誰かに許される未来でなくてもいい。
少なくとも今は、この人たちがそれぞれの人生を、この先も生きていける未来であればいい。
そう思えた。
ヴェティアは、自分の少し前を歩く二人を見る。
原作では、自分が殺すはずだった人たち。
今は、生きていてほしい人たち。
その違いだけは、もう間違えなかった。




