第50話 三人で止める
ヴェティアの腕が、少しずつ震え始めていた。
火、水、風、土。
四つの流れを同時に捉えながら、それぞれを別のまま押さえ続ける。
装置がしようとしていることは、その逆だった。四方向から異なる属性の力を中央へ集め、無理に一つへ近づけようとしている。その流れへ逆らうたび、杖を通して重い反動が腕へ返ってきた。
「救助は!」
「二人目を移動中だ!」
ロンドの返事が飛んでくる。
奥の通路から複数の足音が近づいていたが、ヴェティアには振り返る余裕がない。
火の流れが強まれば、そこだけを抑える。水が中央から押し返されれば、その方向をずらす。風は外へ逃がし、土は下から広がろうとする力を留める。
一つにまとめない。
混ぜない。
四つは、四つのまま。
今のヴェティアが守るべきものは、それだけだった。
けれど、装置の内部にはすでに大量の力が蓄積されている。
ヴェティアが抑えているのは、暴走が周囲へ広がることと、四属性がさらに中央へ押し込まれることだけだ。中央に残った異常な魔素の状態そのものを消しているわけではない。
「ヴェティア様!」
ルミエの声がした。
「中央がさっきより強くなっています!」
「分かってる!」
装置の中心では、異なる属性の力が互いを押し合っていた。
まだ完全には融合していない。
けれど、近づきすぎている。
このまま続けば、いずれヴェティア一人では支え切れなくなる。
「ロンド様!」
「何だ!」
「あと、どれくらい?」
返事の代わりに、奥から大きな声が響いた。
「通ります!」
ヴェティアは歯を食いしばる。
「装置側へ寄らないで! 壁沿いを!」
「了解!」
数人の調査員が姿を現した。
二人がかりで、一人の人間を支えている。顔色は悪く、自力ではほとんど歩けないらしい。その身体を左右から抱えるようにして、救助側の人間たちが通路を進んでくる。
「出口までそのまま!」
ロンドがすぐに指示を出す。
「外で待機している者へ引き継げ! ここへ戻るのは必要な者だけだ!」
「はい!」
救助された人がヴェティアの横を通り過ぎる。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
怯え切った目だった。
何が起きているのか理解できているのかも分からない。
それでも、生きている。
(よかった)
安堵した瞬間、集中が僅かに緩んだ。
風の流れが跳ねる。
「っ!」
ヴェティアはすぐに意識を戻し、外へ膨らみかけた風を押さえ込んだ。
「ヴェティア!」
「大丈夫です!」
「無理なら言え!」
「まだいけます!」
強がりではない。
ここまでは、まだ自分にできる。
けれど、その先まで自分一人でやる必要はない。
「ルミエさん!」
「はい!」
「準備して!」
ルミエが杖を構えた。
表情には緊張が浮かんでいる。
以前のヴェティアなら、きっと下がれと言っていただろう。危険だから。失敗したら困るから。自分が代わればいいと思って。
今は違う。
「無理に全部を消そうとしないで! 中央に残っている不安定なところだけを見て!」
ルミエは装置へ目を凝らした。
「光を当てればいいんですか?」
「いきなり強く入れたら、どう反応するか分からない。最初は弱く」
研究記録に並んでいた言葉が頭をよぎる。
分解。
解除。
観察。
再試行。
研究者たちは光魔法を、自分たちの研究を続けるために利用しようとしていた。
けれど、同じ性質を何に使うかは人間が決める。
「今の状態を確かめて。分解できそうなら、そこから少しずつお願い」
「分かりました」
ルミエが息を整える。
杖の先に淡い光が灯った。
眩しいほどではない。本当に弱い光が、装置の中央へ細く伸びていく。
ヴェティアは四属性を押さえながら、その変化へ意識を向けた。
光が触れた場所で、何かがほどける。
「……反応があります」
「どう?」
「異常な魔素のまとまりが崩れています。四属性の魔粒子へ分かれ始めています」
ヴェティアにも変化が分かった。
中央へ無理に押し込まれていた魔素の状態が崩れ、その一部が火、水、風、土、それぞれの性質を持つ魔粒子へと分かれていく。
「できます」
ルミエの声が少しだけ強くなった。
「たぶん、分解できます」
「一気にやらないで!」
「はい!」
光が少しずつ広がっていく。
ヴェティアはそれに合わせて四つの流れを調整した。
光が触れている場所へ余計な力が流れ込まないよう火を抑え、水を逸らし、風を弱める。土は支えとして残した。
「ヴェティア様、もう少し右を抑えられますか?」
「右?」
「風と水が残っています」
「分かった!」
言われた通りに流れを変える。
自分一人で、すべてを判断する必要はない。
ルミエには、ルミエにしか分からないことがある。
「これで?」
「はい。今なら」
再び光が入る。
異常な状態でまとまっていた魔素が、また少し崩れた。
「いける……」
ルミエが呟く。
だが次の瞬間、装置が激しく震えた。
「危ない!」
中央から大きな力の波が膨らむ。
ヴェティアは咄嗟に四属性の流れを押さえ込んだ。
腕に鋭い痛みが走る。
「ヴェティア様!」
「続けて!」
「でも!」
「今止めたら、また中央へ集まる!」
ルミエが迷う。
そのとき、ロンドの声が飛んだ。
「セルメール!」
ルミエが振り返る。
「ブュッフェが止めろと言うまでは続けていい!」
ヴェティアも思わずロンドを見る。
彼は救助班の動きを確認しながら、こちらにも注意を向けていた。
「ヴェティア! 無理になったら言え!」
「はい!」
「セルメールもだ!」
「はい!」
それだけのやり取りで、役割がはっきりした。
ロンドは装置そのものを止める魔法を使えるわけではない。ルミエの光魔法も、ヴェティアのような四属性の同時制御もできない。
それでも、人を動かせる。
退路を確保できる。
誰をどこへ下げ、誰に何を任せるかを判断できる。
それもまた、この暴走を止めるために必要な役割だった。
「外の人員も下げろ!」
ロンドが指示を飛ばす。
「装置の影響が建物の外へ及ぶ可能性がある! 入口周辺に固まるな!」
「殿下、記録の搬出は!」
「人が先だ! 持ち出せるものだけ保全しろ!」
「承知しました!」
周囲の人間が再び動き出す。
ヴェティアは装置へ集中を戻した。
四つの流れが、少しずつ弱くなっている。
ルミエの光によって、中央に残る異常な魔素のまとまりが分解されているからだ。
ただ、まだ終わってはいない。
「ルミエさん」
「はい」
「中央の一番濃いところ、見える?」
「……はい」
ルミエの顔が強張る。
「あそこですね」
「たぶん、そこが一番残ってる」
「分解します」
「待って」
ヴェティアは装置全体へ意識を広げた。
中心だけを先に崩せば、周囲に残っている力が一気に流れ込むかもしれない。
「先に周りを薄くして」
「周りから?」
「ええ。中心を最後にする」
ルミエは一度頷いた。
「やってみます」
光の向きが変わる。
中央を避け、その周囲から少しずつ異常な魔素のまとまりへ触れていく。
火属性の魔粒子。
水属性の魔粒子。
風属性。
土属性。
分解されたものは、それ以上ひとまとまりの魔素として異常な状態を維持できず、周囲へ解放されていく。
ヴェティアはその流れをさらに分けた。
再び混ざらないように。
装置へ戻らないように。
「……減ってる」
思わず声が漏れた。
「本当ですか?」
「ええ」
先ほどまで腕を押し潰すようだった反動が、僅かに軽くなっている。
「いけます」
ルミエが言った。
だが、彼女の額にも汗が浮かび、呼吸は少しずつ浅くなっていた。
「無理しないで」
「ヴェティア様もです」
「分かってる」
「今度はすぐ答えましたね」
「話してる余裕あるの?」
「少しだけ」
ヴェティアは思わず息を漏らした。
そんなやり取りをしていても、ルミエの光は止まらない。
怖いはずだった。
自分自身が狙われていた。
自分の魔法が、この研究へ利用されようとしていた可能性まで分かった。
それでも今、その同じ力を人を助けるために使っている。
(原作では)
ルミエの光魔法は、鮮血姫を倒すために使われた。
最後にヴェティアと戦い、彼女が完成させた闇魔法へ立ち向かうために。
けれど今は違う。
ヴェティア自身が、その隣にいる。
闇魔法を完成させないために四属性を分け、その状態をルミエがほどいている。
「奥、全員出ました!」
声が響いた。
ヴェティアの胸が跳ねる。
「確認は!」
ロンドが問う。
「確認できていた二名、どちらも搬出しました! 救助班も戻っています!」
「よし。装置周辺から全員離れろ! 必要な者以外は外へ!」
二人とも出た。
その事実に、ヴェティアの肩からほんの少し力が抜ける。
「ヴェティア!」
「分かってます!」
まだ気を緩めるわけにはいかない。
装置は止まっていない。
「ルミエさん。中心をお願い」
「はい!」
淡い光が収束する。
今度は、周囲を削られて残った中心へ。
強引に押し込むのではなく、少しずつ触れていく。
中央の異常な状態が震えた。
ヴェティアの杖へ強い反動が返ってくる。
「っ……!」
火が跳ねる。
押さえる。
水が広がれば、流れを逸らす。
風が暴れれば外へ逃がし、沈み込もうとする土は支える。
最後まで。
四つは、四つのまま。
「もう少しです!」
ルミエの声が響く。
「続けて!」
「はい!」
光がさらに広がった。
中央に残っていた異常な魔素のまとまりが、ゆっくりと崩れていく。
一部がほどけ、その周囲も崩れていく。
やがて装置の中心を満たしていた状態そのものが維持できなくなり、四属性の魔粒子へ分かれた。
ばらばらになった魔粒子は再び一つへまとまることなく、装置の外へ解放されていく。
その瞬間、装置から力が抜けた。
大きな爆発は起こらなかった。
派手な光もない。
ただ、ずっと耳の奥まで響いていた低い振動が消えた。
不規則に巻いていた風が止まり、漏れ出していた熱が引く。
床の震えも、少しずつ収まっていった。
ヴェティアは、しばらく杖を下ろせなかった。
「……止まった?」
ルミエが小さく尋ねる。
ヴェティアは装置の状態を確かめた。
四属性の流れは、もう中央へ集まっていない。
周囲の魔素にはまだ乱れが残っているものの、先ほどまでのように装置へ引き寄せられる感覚もなかった。
「たぶん、暴走は……止まったと思う」
「確認するまで近づくな」
ロンドがすぐに言った。
「調査員も待て。まず周囲の状態を確認する」
「はい!」
その言葉を聞いて、ヴェティアはようやく杖を下ろした。
腕から力が抜け、足元までふらつく。
「ヴェティア様!」
ルミエがすぐに近づこうとした。
「待って!」
反射的に止める。
「まだ装置の近くは駄目」
ルミエが足を止めた。
「……そうでした」
「私も離れるわ」
ヴェティアはゆっくり後ろへ下がった。
安全な距離まで来たところで、膝が僅かに震える。
「座るか?」
ロンドが聞いた。
「まだ大丈夫です」
「さっきからそればかりだな」
「本当に大丈夫です」
「そういうことにしておく」
ロンドの額にも汗が浮かび、服には埃が付いている。
無傷ではある。
ルミエも疲れているが、ちゃんと立っていた。
二人とも、生きている。
その当たり前のことが、今はどうしようもなく嬉しかった。
(よかった)
胸の奥から、張り詰めていたものがゆっくり抜けていく。
ロンドが自分をどう思っているか。
ルミエがこれからも友人でいてくれるのか。
自分を選ぶのか、選ばないのか。
そばにいるのか、いつか離れていくのか。
そんなことよりも先に。
(生きていてくれて、よかった)
ただ、そう思った。
「殿下!」
外から調査員が駆け込んできた。
緩みかけていた空気が再び引き締まる。
「何があった?」
「先ほどから追跡していた移送先で、関係者を確保しました!」
「誰だ?」
「研究関係者と見られる者が複数。それから――」
調査員が一度息を整える。
「エドガー・クラヴェル伯爵を拘束しました」
ヴェティアは顔を上げた。
「……エドガー様を?」
「はい」
ロンドの表情も変わる。
「本人がここに?」
「この建物ではありません。先ほど移送されていた資料を追った先です。証拠の処分を指示していた可能性があります」
「可能性?」
「現時点では、そう申し上げるのが正確です」
調査員はすぐに線を引いた。
「ただ、伯爵本人が所持していた記録と、処分途中だった資料を確保しています」
「内容は?」
「まだ詳細確認前です。ただ、これまで押さえていた仲介先への支払い、物品移送、研究関係者への連絡と照合できる記述が含まれています」
ヴェティアは息を止めた。
これまでも何度か、エドガーの近くまでは辿り着いていた。
伯爵家の周辺。
関係者。
金の流れ。
仲介役。
それでも、本人まで直接つなげる証拠はなかった。
「では、エドガー様本人が関わっていたと?」
「その可能性を直接検証できる段階には入りました」
調査員は慎重に答えた。
「まだすべてを確認していません。ですが、これまでより大きく前進したことは間違いありません」
ロンドが頷く。
「資料の保全を最優先。伯爵への聴取は別に行う。今ここで結論を出すな」
「承知しました」
「他には?」
「上位への報告と思われる記録があります」
ロンドの目が細くなる。
「誰への?」
「名前が明記されていないものもあります。ただ、命令を受けていた形跡、資金の流れ、定期的な報告先を示す記載があります」
「レナード様とつながる?」
ヴェティアが尋ねる。
調査員は首を横へ振った。
「まだ断定できません」
「……そうですね」
「ただし、これまで確認していた資金経路と照合すれば、さらに上位の関与を調べる材料にはなります」
それでいい。
今ここで、レナードを犯人だと決める必要はない。
誰がどこまで知っていたのか。
何を命じたのか。
残った記録を調べ、一つずつ確かめればいい。
「殿下」
「何だ?」
「救出した二名ですが、どちらも生存しています。すでに治療を始めています」
その言葉を聞いて、ヴェティアは目を閉じた。
「……そう」
助かった。
傷がどうなるのか。
心に何が残るのか。
これからどう生きていくのか。
まだ何も分からない。
救い出しただけで、すべてが終わったわけではない。
それでも、生きている。
「ヴェティア様」
ルミエに呼ばれ、顔を向ける。
「止まりましたね」
「ええ」
「三人で」
ヴェティアは少し考えてから、首を横に振った。
「三人だけじゃないわ」
ルミエが目を瞬く。
ヴェティアは周囲を見渡した。
被害者を運び出した人。
退路を確保した人。
外で治療している人。
周囲を押さえた人。
逃げた者を追った人。
記録を守った人。
そして、別の場所でエドガーを拘束した人たち。
自分たちは、その中にいた三人に過ぎない。
「私だけでも止められなかった。あなた一人でも、ロンド様一人でも」
ルミエが頷く。
「はい」
「皆がいたから」
「そうだな」
ロンドも答えた。
静かになった装置を、ヴェティアは見つめる。
原作では、この先に鮮血姫がいた。
闇魔法を完成させたヴェティアがいて、その前にロンドとルミエが立っていた。
殺す側と、止める側。
敵同士として。
今は違う。
ヴェティアの隣にはルミエがいる。
ロンドもいる。
そして、その周囲には大勢の人がいる。
誰か一人が未来を変えたわけではない。
それぞれが自分にできることを選び、その結果として、鮮血姫はここにはいなかった。
原作と同じ力へ、自分は進めたかもしれない。
それでも、選ばなかった。
ルミエの光は人を倒すためではなく、助けるために使われた。
ロンドも自分と戦うためではなく、救助と退避を指揮するためにここにいた。
ヴェティア自身もまた、二人を傷つける側ではなく、同じ方向を向いて立っている。
「……終わったんでしょうか」
ルミエが呟いた。
ロンドは静かに首を横へ振る。
「研究の暴走は止まった。人も救えた。だが、調べることはまだ残っている」
「そうですよね」
「伯爵のことも、その上のことも」
「はい」
ヴェティアも頷いた。
全部が終わったわけではない。
過去も消えていない。
それでも今、一つだけ確かなことがある。
ヴェティアは隣に立つ二人を見た。
ロンド。
ルミエ。
原作では、自分が殺そうとした二人。
今はただ、二人が生きている。
それが、嬉しかった。




