攻略本のない人生
王権派の事件が終わっても、朝は来た。
授業は始まり、課題は出され、昼休みになれば食堂には学生たちの声が満ちる。
あれほど大きなことが起きたのだから、世界の何かが決定的に変わってしまうのではないかと、ヴェティアはどこかで思っていた。
けれど、実際には違った。
変わったものを抱えたまま、日常は続いていく。
「ヴェティア様、聞いていますか?」
「……すみません。少し考え事を」
向かいに座るルミエが、困ったように眉を下げた。
「また難しいことを考えていたんですか?」
「難しいというか……次は何が起こるのだろう、と」
「次?」
「いえ、こちらの話です」
曖昧に笑って、ヴェティアは紅茶へ口を付けた。
以前なら、こんなとき頭の中にゲームの展開を並べていた。
次に起きるイベント。
誰が誰と出会うのか。
何をすれば好感度が上がるのか。
どこで失敗すれば、どの未来へ転がっていくのか。
けれど、もう役に立つ筋書きは残っていない。
ルミエは、本来なら自分を倒す側の人間だった。
その戦いを経て聖女見習いから正式な聖女となり、身分の壁を越えてロンドと結ばれる。
それが、宮田茜の知っていた結末だった。
今、目の前にいるルミエはヴェティアを倒していない。
ヴェティアも鮮血姫になっていない。
それでもルミエは、聖女見習いとして学び続けている。
「今日は午後から教会でしたよね」
「はい。まだ覚えることがたくさんあって……」
「大変そうですね」
「大変です」
ルミエは即答したあと、少し笑った。
「でも、前より楽しいんです」
「楽しい?」
「はい。前は、ちゃんと聖女にならなきゃって思っていました。ミュゲ様の弟子になったんだから、失敗しちゃいけないって」
ルミエはカップへ視線を落とす。
「でも最近は、聖女になることより、聖女になって何をしたいのかを考えるようになりました」
ヴェティアは黙って、その言葉を聞いた。
「まだ、よく分からないんですけどね」
「それでいいんじゃないですか」
自然に出た言葉だった。
ルミエが顔を上げる。
「ヴェティア様がそう言うんですね」
「どういう意味ですか?」
「前だったら、正解を一緒に探そうとしてくれそうだったので」
「……否定できません」
二人で笑った。
正式な聖女になる方法を、ヴェティアはもう知らない。
原作通りの功績は失われた。
けれど、それはルミエから未来が奪われたということではない。
誰を助けるのか。
どんな聖女になるのか。
そもそも、どんな人間として生きていくのか。
それを、これからルミエ自身が決められる。
ゲームには書かれていない。
それでいいのだと思った。
◇
「お久しぶりですね」
その日の午後、学園を訪れていたミュゲは、以前と何も変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
ヴェティアとルミエは並んで頭を下げる。
「お久しぶりです、ミュゲ様」
「ご無沙汰しております」
「二人とも、お元気そうで安心しました」
ルミエは聖女見習いとしての報告があるらしく、しばらくミュゲと話したあと、教会関係者に呼ばれて席を外した。
残されたヴェティアは、以前にもミュゲと話した部屋の窓辺へ目を向けた。
あの頃の自分は、ここで答えを欲しがっていた。
なぜ自分はもう一度生まれたのか。
何をすれば罪を償えるのか。
どう生きれば正しいのか。
「いろいろあったそうですね」
ミュゲが言った。
「……はい」
「話したくないことまで話す必要はありませんよ」
「大丈夫です」
ヴェティアは少し考え、王権派の事件について話した。
闇魔法へ続く研究。
自分なら完成させられるかもしれないと思ったこと。
それでも選ばなかったこと。
アンナを傷つけた過去を、公の場で認めたこと。
アンナが、されたことを忘れてはいないと証言したこと。
ミュゲは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「……そうですか」
それだけだった。
褒めてもらえると思っていたわけではない。
けれど、不思議だった。
以前なら、その短い返事の続きに何かを求めていた気がする。
正しかったですよ。
よくできました。
もう大丈夫です。
そんな言葉を。
今は、なくても平気だった。
ミュゲが静かに尋ねる。
「後悔はありませんか?」
ヴェティアはすぐには答えなかった。
闇魔法を完成させなかったことに後悔はない。
アンナへの罪を認めたことも、間違いだったとは思わない。
けれど、怖かった。
別の言い方があったのではないかと思うこともある。
もっと早く気付けていれば。
もっと上手くできていれば。
そう考える瞬間は、きっとこれからもある。
「ありません、とは言えません」
ヴェティアは正直に答えた。
「でも……自分で選びました」
ミュゲの目元が、わずかに柔らかくなった。
「あなたは、あなたの答えを選んだのですね」
「……はい」
正しかったとは言わなかった。
許されたとも、もう罪はないとも。
ただ、選んだのだと受け止めてくれた。
それで十分だった。
「ミュゲ様」
「はい」
「以前、私は……なぜもう一度人として生まれたのか、お尋ねしましたよね」
「覚えています」
「あのときは、理由が分からないことが怖かったんです」
宮田茜としての最後を思い出す。
道路。
迫ってくる車。
目の前にいた老人。
考える時間など、ほとんどなかった。
身体が先に動いた。
老人を押し退け、そのあと自分がどうなったのかも知っている。
『助かったなら、いいや』
あのとき、確かにそう思った。
だからといって、それが今ここにいる理由だとは限らない。
誰かを救ったから、もう一度人生を与えられた。
そんな都合のいい答えを、ミュゲは一度も口にしなかった。
「今でも、お分かりにならないんですよね」
「ええ」
ミュゲは迷わず頷いた。
「あなたがなぜもう一度生まれたのか、私は知りません」
その答えを聞いても、以前のような落胆はなかった。
「以前お話しした、魂に残るものについても同じです。長く人を思い、善くあろうとして生きた方に似た静かなものを感じることはあります。けれど、それが何を意味するのかまで、私には断定できません」
ヴェティアは、かつて聞いた白髪の聖者を思わせる話を思い出した。
だから老人が特別な存在だった。
だから自分は選ばれた。
そう結び付けることはいくらでもできる。
でも、それは自分が欲しい答えを作っているだけなのかもしれない。
「分からないままでも、いいんでしょうか」
ヴェティアが尋ねると、ミュゲは少しだけ首を傾けた。
「それは、私にお尋ねになりますか?」
一瞬、意味が分からなかった。
それから、ヴェティアは笑った。
「……そうでした」
以前なら聞いていただろう。
分からないままでいいですか。
こう生きればいいですか。
私は間違っていませんか。
「では、自分で考えます」
「ええ」
ミュゲも笑った。
「それがよいと思います」
彼女だって、すべてを知っているわけではない。
長い時間を生き、迷い、考え、自分なりに選び続けてきた一人の人間なのだ。
だからこそ、ヴェティアへ答えを押し付けない。
ヴェティアはもう一度、頭を下げた。
「ありがとうございました、師匠」
「こちらこそ。あなたのお話を聞けて嬉しかったですよ」
その言葉を最後に、二人は別れた。
以前とは違う。
教えてもらうことがなくなったわけではない。
けれど、人生そのものの答えをもらう必要はなくなっていた。
◇
「お嬢様、その本はこちらでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
屋敷へ戻ると、アンナが机の上に積まれた本を整理していた。
一冊を棚へ戻しかけて、ふと止まる。
「こちらは、まだお読みになりますか?」
「あ……それは残してください」
「承知しました」
以前なら、それだけのやり取りだった。
今も、表面的には変わらない。
けれどヴェティアは、アンナが本を置くとき、自分の手元へ不用意に腕を伸ばさなくなったことに気付いていた。
アンナもまた、少しずつ距離を測っているのだろう。
それを悲しいとは思わなかった。
必要な距離なのかもしれない。
「アンナ」
「はい」
「明日の朝ですが、少し早めに起こしてもらえますか?」
「承知しました。いつもより半刻ほど早くでよろしいでしょうか」
「はい」
「では、そのように」
アンナは一礼して部屋を出ようとする。
「あの」
呼び止めかけて、ヴェティアは口を閉じた。
アンナが振り返る。
「何でしょうか?」
「……いえ。明日、お願いします」
「はい、お嬢様」
扉が閉じる。
ありがとうと何度も言えばいいわけではない。
許してもらえるまで、何かを差し出し続ければいいわけでもない。
今日頼んだことを、明日アンナがしてくれる。
明日、また言葉を交わす。
その次の日も。
今は、それでいい。
◇
「少し歩かないか」
翌日の放課後、ロンドにそう言われた。
二人で学園の庭へ出る。
季節は少しずつ進んでいた。
花壇の花も、入学した頃とは違う。
歩きながら、ヴェティアは隣のロンドを見る。
「何かお話が?」
「ある」
「真面目な話ですか?」
「かなり」
「帰ってもよろしいですか?」
「駄目だ」
思わず笑ってしまった。
「冗談です」
「君の場合、本当に逃げそうだから困る」
「以前よりは逃げなくなったと思います」
「そうだね」
ロンドが足を止めた。
ヴェティアも止まる。
彼は少しだけ考えるように黙ってから、こちらを見た。
「婚約のことを話したい」
胸が小さく跳ねる。
「……はい」
「僕たちの婚約は、王家とブュッフェ公爵家が決めたものだ」
「はい」
「君も僕も、自分で相手を選んだわけじゃなかった」
その通りだった。
生まれた家。
立場。
政治。
そういったものの中で決められた関係だ。
「今回のことで、君の立場についていろいろな意見が出るだろう。婚約についても同じだと思う」
「……そうでしょうね」
「だから、その前に言っておきたい」
ロンドは真っ直ぐヴェティアを見た。
「僕は、君とこれからも一緒にいたい」
ヴェティアは何も言えなかった。
「王家にとって都合がいいからじゃない。昔から婚約者だったからでもない」
「ロンド様……」
「君がアンナにしたことも知っている。君が間違えない人間じゃないことも、もう知っている」
胸の奥が痛んだ。
けれど、その言葉は嫌ではなかった。
「それでも、僕はこれまで君を見てきた」
あの日の言葉が蘇る。
『僕は、まだ君を信用していない』
『だから、これから見る』
ずっと。
本当にずっと。
彼は見ていた。
「だから今度は、家同士が決めたこととは別に聞きたい」
ロンドが一歩だけ近づく。
「僕と、これからも一緒にいてくれる?」
「私など――」
言葉が途中で止まった。
昔から染みついていた答えだった。
私など相応しくない。
私は人を傷つけた。
もっと良い人がいる。
ロンドのためにも、自分から離れた方がいい。
それは一見すると相手を思っているようで、結局はロンドが何を望んでいるのかを無視している。
自分は幸せになってはいけない。
だから、あなたも私を選んではいけない。
それでは、相手の人生まで自分が決めてしまう。
ヴェティアは口を閉じ、一度息を吸った。
怖い。
この先、何が起きるか分からない。
自分がまた間違えることだってあるかもしれない。
それでも。
ロンドは、それを知らないから選んでいるのではない。
知ったうえで、今ここにいる。
ならば、自分が勝手にその選択を否定してはいけない。
「……私でよろしければ」
ロンドが目を瞬いた。
ヴェティアは、今度は目を逸らさなかった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
ほんの少し間があって、ロンドが笑った。
「うん。よろしく」
それだけだった。
新しい婚約を結んだわけではない。
書類もない。
王家と公爵家の関係が変わったわけでもない。
けれどヴェティアにとっては、初めて自分で選んだ婚約だった。
◇
「なんだか、お二人とも雰囲気が違いませんか?」
翌日。
ルミエに言われて、ヴェティアは持っていた本から顔を上げた。
「そうでしょうか」
「違います」
「気のせいでは?」
「気のせいではありません」
ルミエが妙に真剣な顔でロンドを見る。
「ロンド殿下、何かありました?」
「さてね」
「絶対にありました」
「セルメールさんには関係ないと思うけど」
「あります」
間髪入れずに返したルミエ自身が、いちばん驚いた顔をした。
ロンドが眉を上げる。
ヴェティアもルミエを見る。
「……あります?」
「……今のは、その」
ルミエの頬が少し赤くなる。
「友人として、です」
「そうですか」
「そうです!」
強く言い切ってから、ルミエは視線を逸らした。
ヴェティアはそれ以上聞かなかった。
最近、ときどきルミエが自分を見る目に、以前とは違う何かを感じる。
距離が近い。
妙に気に掛けられる。
ロンドと話していると、少しだけ不満そうな顔をすることもある。
それが何なのか、ヴェティアにはまだ分からない。
ルミエ本人にも、分かっていないのかもしれない。
なら、今決める必要はない。
原作では、ルミエはロンドと結ばれるはずだった。
聖女となり、第一王子と婚約し、物語はそこで終わる。
でも、その未来はもうない。
だからといって、ルミエが何かを失ったわけではない。
誰を好きになるのか。
誰と一緒にいるのか。
あるいは、誰とも結ばれないのか。
それはルミエが決めればいい。
「ヴェティア様?」
「はい?」
「また考え事ですか?」
「少しだけ」
「今度は何を?」
ヴェティアは窓の外を見る。
昔なら、答えられた。
このあと何が起きる。
誰と誰が結ばれる。
誰が勝ち、誰が負ける。
誰が生き残る。
少なくとも、ゲームに書かれていた範囲なら。
でも今は、何も分からない。
本来なら、ルミエとロンドが鮮血姫ヴェティアと戦う。
ヴェティアは倒される。
ルミエは正式な聖女となる。
そして、ロンドと結ばれる。
それがエンディングだった。
今は三人とも生きて、同じ場所にいる。
誰も誰かを倒していない。
ルミエはまだ聖女見習いだ。
ロンドは、自分の意思でヴェティアとの関係を選んだ。
そしてヴェティア自身も、ゲームに書かれていなかった未来へ立っている。
宮田茜だった頃の自分の声が、ふと蘇る。
『私がこの世界の住民だったら、もっと上手くやるのに』
思い出すと、少し笑ってしまった。
「ヴェティア様?」
「いえ……昔の自分は、随分と偉そうだったなと思って」
「昔?」
「こちらの話です」
上手くなんて、できなかった。
間違えた。
怖くなった。
逃げたくなった。
一人で背負おうとして、止められた。
誰かを傷つけた過去を、消すこともできなかった。
ゲームの知識があっても、正しい答えを選べないことはいくらでもあった。
けれど。
間違えたなら認めればいい。
傷つけたなら、その事実から逃げなければいい。
一人でできないなら、助けてもらえばいい。
相手が何を思っているのか、自分一人で決めなければいい。
そして、次に何をするのかをまた選べばいい。
それでいいのだろう。
「ルミエ」
「はい?」
「これから、どんな聖女になるんでしょうね」
ルミエは目を丸くした。
「私がですか?」
「はい」
「……分かりません」
少し前の彼女なら、不安そうに答えたかもしれない。
今は、少し考えたあとで笑った。
「でも、これから考えます」
「そうですね」
「ヴェティア様は?」
「私ですか?」
「これから、どうされたいんですか?」
その問いに、ヴェティアは少しだけ黙った。
ロンドもこちらを見る。
答えは、まだ全部決まっていない。
何年後に何をしているのか。
どんな人間になるのか。
アンナとの関係がどうなっているのか。
ルミエがいつ聖女になるのか。
ロンドとどんな未来を作るのか。
何も知らない。
攻略情報は、もうどこにもない。
けれど。
「まだ、分かりません」
ヴェティアは答えた。
以前なら、怖くて言えなかった言葉だった。
「ただ……自分で決めたいです」
ルミエが笑う。
ロンドも、小さく頷いた。
窓の外では、学生たちがいつものように歩いていた。
明日、何が起きるのかは知らない。
これから先の人生に、誰かが用意してくれた正解もない。
過去は消えない。
未来も分からない。
それでも、自分のしたことを引き受けながら、次に何を選ぶのかは自分で決められる。
ヴェティアは二人と一緒に歩き出した。
もう、攻略本はない。
だからこれからは、自分で選んでいく。
攻略本のない、自分自身の人生を。




