第48話 私ならできる
装置の中央で、鈍い音がした。
先ほどまで散っていた小さな火花とは違う。床の下を何かが這うような低い振動が続き、机の上に残されていた紙片がかすかに震える。
「全員、下がれ!」
ロンドの声が飛んだ。
王家側の調査員たちが一斉に装置から距離を取り、ヴェティアも数歩後ろへ下がる。
それでも、視線だけは中央から離せなかった。
四方向から導かれている魔力。
火、水、風、土。
本来ならそれぞれ別の性質を持つ力が、中央の機構へ無理に押し込まれている。
まだ完全に混ざってはいない。
互いに弾き合いながら、それでも装置によって外へ逃げることを許されず、狭い場所へ閉じ込められているだけだ。
「停止していたのではないのですか?」
ルミエが尋ねる。
調査員の一人が、装置から目を離さず答えた。
「そのはずでした。少なくとも、我々が入った時点では大きな動作は確認していません」
「証拠を運び出した者が、何かした可能性は?」
ロンドが問う。
「あります。完全に止める前に処理を中断したか、持ち出しのために一部だけ停止させたのかもしれません」
原因はまだ分からない。
だが、今はそれを調べている場合ではなかった。
再び振動が走り、今度は壁際の棚まで揺れた。
「殿下!」
奥から一人の調査員が駆けてくる。
「内部に、まだ人がいます!」
ヴェティアの胸が強く鳴った。
「何人?」
「確認できているのは二名です。一人は自力で動けません。もう一人も状態が良くありません」
「救出を優先する」
ロンドは迷わなかった。
「記録は放っておけ。奥へ向かう者は最低限に絞れ。退路を先に確保しろ」
「承知しました!」
数人が奥へ向かい、残った者たちは通路を空けて搬出経路を確保し始める。
ヴェティアはその動きを見届けてから、再び装置へ目を向けた。
中央部から微かな熱が漏れ、そのすぐ近くには水の気配がある。風は不規則に巻き、足元からは細かな振動が伝わってきた。
(広がってる)
異常は、装置の中だけに留まっていない。
周囲の魔素そのものが乱れ始めていた。
「魔法が安定しません!」
少し離れた場所で風魔法を使おうとしていた調査員が杖を下ろす。
「必要のない魔法は使うな!」
ロンドが命じた。
「周囲の状態が分かるまで、余計な力を加えるな」
正しい判断だった。
通常の属性魔法では、周囲の魔素から必要な属性の魔粒子を抽出し、それを媒体として術者自身の魔力と魔法式によって現象を起こす。
けれど今は、その周囲の魔素自体が装置から漏れ出した異常な干渉を受けている。
火を使おうとしても別の属性が引っ掛かるような抵抗があり、風を動かそうとしても流れが乱れる。この状態で無理に魔法を重ねれば、装置の暴走へさらに力を与える可能性すらあった。
「ヴェティア」
ロンドに呼ばれ、顔を上げる。
「君には、どう見える?」
ヴェティアはすぐには答えず、装置の中を流れる四つの力へ意識を集中させた。
まず分かったのは、風の流れが速すぎることだった。
量の問題ではない。他の属性と流れ込む速さが合っていない。
土は中央を支え切れず、水は途中で反発を起こしている。その一方で、火だけがわずかに長く中心へ残っていた。
次の瞬間、中央で魔力が弾けた。
ヴェティアは反射的に杖を上げる。
「風!」
正面へ飛び出しかけた力を横へ流し、続けて床へ杖を向ける。
「土!」
石床の一部を隆起させ、散った力が救助班のいる奥へ流れないよう壁を作った。
衝撃が弱まる。
ヴェティアはそれ以上魔法を重ねなかった。
火も水も、今は加えるべきではない。
「止められるか?」
ロンドが聞いた。
「……分かりません」
「分かるところまででいい」
ヴェティアは息を整えた。
「装置の中で、四属性が互いに弾き合っています。完全に融合しているわけではありません」
「なら、まだ闇魔法ではない?」
「少なくとも、私が知っているものとは違います」
そこまでは言える。
目の前のものは未完成だ。
だから制御できず、暴れている。
(未完成だから……?)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。
未完成。
なら、完成すれば。
(……違う)
反射的に否定しようとした。
けれど、一度動き始めた思考は止まらなかった。
ヴェティアには、目の前の装置がどこで失敗しているのか分かってしまう。
研究記録を読んだからだけではない。
原作で、この先に存在するものを知っているからだ。
鮮血姫ヴェティアは、この壁を越えた。
今ここにいる研究者たちが何度試しても、どれだけ人を傷つけても越えられなかった場所へ、原作の自分だけは辿り着いた。
(どうやって?)
すべてを知っているわけではない。
ゲームの中で細かな魔法式まで説明されていたわけでも、研究過程を最初から最後まで見ていたわけでもない。
それでも結果は知っている。
鮮血姫が完成させた力を知っている。
そして目の前の失敗を見れば、そこへ至るために何が足りていないのか、少しずつ想像できてしまう。
四属性すべてへの高い適性。
細かな制御。
複数の力を同時に扱う能力。
崩れかけた瞬間に、一つずつ調整する精度。
(……私なら)
できるかもしれない。
自分の中から生まれた考えなのに、まるで誰かに耳元で囁かれたようだった。
ヴェティアは自分の手を見る。
この手は、火も水も風も土も扱える。
しかも一つずつではなく、同時に、細かく。
原作の自分と同じように。
(ここを越えればいい)
具体的な方法まで分かっているわけではない。
けれど、進むべき方向は見える。
今の研究者たちは、外から集めた別々の力を装置で無理に合わせようとしている。だから少しずつずれ、崩れ、反発する。
もし一人の人間が四つすべてを扱い、その瞬間ごとに調整できれば。
(できる)
心臓が強く鳴った。
怖い。
なのに、その考えを否定できない。
(私ならできる)
おそらく、原作の自分ができたのなら、今の自分にも同じ可能性がある。
「ヴェティア様」
ルミエに呼ばれて顔を上げる。
「何か分かったんですか?」
「……少し」
「どうしたら止められます?」
止める。
その言葉によって、思考はさらに危険なところまで進んだ。
未完成だから暴れている。
なら、完成させれば。
この不安定な力を一度自分の管理下へ置くことができれば、周囲への拡大を止められるかもしれない。
奥に残っている人も助けられる。
王家側の人間も危険にさらさずに済む。
ルミエに光魔法を使わせる必要もない。
ロンドもここから下げられる。
(私一人なら、誰も巻き込まない)
闇魔法を使うのは自分だけ。
危険も、罪も、禁忌も、自分が引き受ければいい。
その考えは、恐ろしいほど自然に胸へ入り込んできた。
元々、この力を完成させるはずだったのは自分なのだから。
原作では人を傷つけ、人を使い、それでも研究を止めず、最後まで進んだ。
なら今度は、人を救うために同じ力を使えばいい。
そうすれば、今度こそ役に立つ。
今度こそ人を助けられる。
あの力を、正しく使えるかもしれない。
そこまで考えたところで、ヴェティアの胸に小さな違和感が生まれた。
(……正しく?)
誰が、それを決めるのだろう。
人を救うためなら禁忌へ進んでもいいのか。
自分一人が傷つけば、それでいいのか。
自分だけが罪を背負えば、他の人は助かるのか。
以前ミュゲから教えられたことが、ふと胸の奥へ戻ってきた。
自分が責任を感じたからといって、何もかも一人で引き受ければいいわけではない。
今の自分は、また同じ方向へ進もうとしているのではないか。
けれど、その答えを最後まで考える余裕はなかった。
奥にはまだ被害者がいる。
「ヴェティア」
近くからロンドの声がした。
気付けば、彼は数歩先まで来ていた。
「何を考えている?」
「……止める方法を」
「一人で?」
ヴェティアの息が止まる。
「どうして、そう思うのですか」
「君がまた僕たちを外そうとしているように見えるからだ」
「そんなこと」
「なら、説明して」
責める声ではなかった。
ただ、聞いている。
ヴェティアは答えられなかった。
説明するなら、闇魔法のことも、原作のことも、鮮血姫のことも、自分なら完成させられるかもしれないという恐ろしい可能性も話さなければならない。
今、この場ですべてを明かすことはできない。
「ヴェティア様」
ルミエも近くにいた。
「私にできることはありますか?」
「あなたは……」
下がって。
言いかけて、やめた。
ルミエは自分でここにいることを選んだ。
怖いと認めた上で、何が起きているのか知り、自分で決めたいと言った。
「分からないわ。まだ」
ヴェティアが答えると、ルミエは迷わなかった。
「じゃあ、一緒に考えます」
「時間がないのよ」
「だから、一緒に考えるんです」
声には怖さが残っている。
それでも、ルミエは目を逸らさない。
「私に何もできないなら、邪魔にならないところまで下がります。でも、できることがあるなら、勝手にないことにしないでください」
何も言えなくなったヴェティアへ、ロンドも続ける。
「僕にもできることはある」
「魔法の話です」
「救助する人間を動かせる」
即答だった。
「退路を確保できる。人を下げることも、必要な場所へ配置することもできる。君が魔法で何をするかだけが、ここでできることの全部じゃない」
ヴェティアは奥へ目を向けた。
調査員たちが人を助けようとしている。
入口では避難経路を確保する者が動き、周囲を押さえる者もいる。記録を守っている者もいる。
そして、ルミエもロンドもいる。
(……また、一人で決めようとしてた)
危険が大きくなった途端、自分だけで何とかする方法ばかり考えていた。
先ほどまで一緒に止めると決めていたはずなのに。
さっき胸へ戻ってきたミュゲの教えが、まだ消えずに残っている。
けれど、その意味を掘り下げるより先に、装置が大きく軋んだ。
中央から複数の力が一気に膨らむ。
「来る!」
ヴェティアは杖を構えた。
風で散る力の向きを変え、土で奥へ流れるのを抑える。
二つだけ。
必要な力だけを使う。
それでも、腕へ重い負荷が返ってきた。
「ヴェティア様!」
「大丈夫!」
まだ動ける。
だが、次はもっと大きい。
四つの流れが、さらに強く中央へ押し込まれ始めている。
ヴェティアはその様子を見つめた。
見える。
どこをどうすれば、その先へ進めるのか。
完全ではない。
それでも、見えてしまう。
(私ならできる)
その確信だけは、もう消せなかった。
自分なら、闇魔法へ至れるかもしれない。
原作の鮮血姫と同じ場所へ。
ほんの一歩、踏み込めば。
ヴェティアは杖を握り直し、前へ出ようとした。
そこで止まった。
ルミエがいる。
ロンドがいる。
奥では、被害者を助けるために他の人たちも動いている。
一緒に止めると、自分で言った。
なら、ここで勝手に決めてはいけない。
ヴェティアは前へ出しかけた足を戻した。
今は、踏み込まない。
できないからではない。
おそらく、できる。
だからこそ、その力をどうするのか、自分で考えなければならない。
次の瞬間、建物全体がこれまでで一番大きく揺れた。
装置の中央で、四つの力が激しくぶつかり合った。




