第43話 一人で償うこと
助けられた。
あの地下室から、一人の人間を生きたまま連れ出すことができた。
本当なら、今はその事実を考えていればよかったはずだった。
けれど夜になっても、ヴェティアの頭から離れないものがある。
床へ刻まれた魔法陣。
使い込まれた設備。
擦れた革の拘束具。
壁に残っていた傷。
そして、薄い布の上に横たわっていた人。
(原作の私なら、助けなかった)
今日、設備を止めるために使った四属性の魔法も、原作ではもっと先へ進むために使った。
本来なら一つにならない異なる属性の力を近づけ、失敗すれば条件を変え、対象を変え、それでも研究を続ける。
最後には人間まで使って、鮮血姫は闇魔法を成立させた。
地下施設へ残されていた記録は、失敗ばかりだった。
安定しない。
拒絶が起きる。
対象の身体へ負荷がかかる。
条件を変えても、なお成立しない。
それなのに、原作の鮮血姫はその先へ進んだ。
(……私だったから)
その考えを、もう完全には無視できなかった。
四属性すべてへ高い適性を持っている。
それぞれを高い精度で扱える。
複数を同時に意識しても、制御を失わない。
今日だって、四方向の設備へ同時に魔力を伸ばし、それぞれを別々に弱めることができた。
人を助けるために使った。
その事実は、確かに嬉しかった。
同じ力でも、何へ使うかは選べる。
ほんの一瞬だけ、そう思えた。
けれど時間が経てば、別の考えが入り込んでくる。
(あれを完成させられたのも、私だったからなんじゃないの?)
原作のヴェティアが持っていた才能と、今の自分が持っている才能は同じだ。
ならば、やはりこの事件は。
(私が止めなければ)
他にも被害者がいる。
別の場所へ移された人間もいる。
まだ研究を続けている者もいる。
次の施設が見つかったなら、今度はもっと先へ自分が行けばいい。
危険な設備があるなら、自分が確認する。
罠があるなら、自分が先に近づく。
自分には原作の知識がある。今の研究が何へ近づいているのかも、他の二人よりは分かる。
あの研究へ最も近い力を扱えるのも、自分だ。
だったら。
(私が傷つけばいい)
ルミエは傷つかない。
ロンドも、危険なところまで来なくて済む。
自分一人で済むなら、その方が――。
「ヴェティア様」
不意に名前を呼ばれ、ヴェティアは顔を上げた。
いつの間にか、ルミエが目の前へ立っている。
「何?」
「また考えてましたね」
「……何を?」
「一人で何とかしようって」
ヴェティアは思わず視線を逸らした。
「そんなことは」
「あります」
即答だった。
「顔に書いてあります」
「そんな便利な顔をしているつもりはないわ」
「最近、分かるようになりました」
「それは困るわね」
「困らせるために言ってます」
ルミエは笑わなかった。
ヴェティアも、それ以上冗談を続けられない。
少し離れたところには、ロンドもいた。
地下施設から確保された資料の整理が進み、三人にも共有できる範囲が増えている。
本来なら、これから何を確認するべきか話すために集まったのだ。
それなのに、ルミエは資料よりずっとヴェティアを見ていた。
「ヴェティア様」
「何?」
「次に何か見つかったら、どうするつもりですか?」
「どうって……」
「また、ご自分だけで危ないところへ行こうとしてませんか?」
「一人で行くとは言っていないわ」
「まだ言ってないだけですよね」
痛いところを突かれた。
ヴェティアは一度黙ってから、息を吐く。
「……次の場所が見つかったら、私が行った方がいいとは思っているわ」
「またですか」
「理由はあるの」
「聞きます」
ルミエは引かなかった。
ヴェティアは、言えることと言えないことを頭の中で分ける。
「私は、この研究について知っていることが多い」
「はい」
「今日も、設備を止められた」
「はい」
「次も同じ仕組みとは限らない。でも、似たものなら私が役に立つ可能性は高い」
「そこまでは分かります」
「だったら――」
「そこから、だから危険なことを全部ヴェティア様がやる、にはならないです」
言葉を遮られた。
「私は」
「ヴェティア様」
ルミエの声が、はっきりと強くなる。
「私、ヴェティア様に償ってほしいから一緒にいるんじゃありません」
胸の奥を、不意に掴まれたような気がした。
「……何を」
「ずっと、そうでしょう?」
ルミエは両手を胸元で握る。
「何か悪いことが起きると、ヴェティア様は、自分が何をすれば止められたかばかり考える」
「それは」
「今日だってそうでした」
ルミエは続けた。
「助けたときは、ちゃんとあの人を見てました。何をすれば少しでも安全に出せるか、それだけ考えてた」
ヴェティアは何も言えない。
「なのに、終わって少ししたら、またご自分のことを責め始めた」
見抜かれていた。
「だって」
堪えきれず、声が漏れる。
「知っていたのよ」
ルミエの表情が僅かに変わった。
「この研究が、どこまで行くのか」
全部は言えない。
ゲームのことも。
鮮血姫になる未来のことも。
「似た研究が人を傷つけることも、その先にもっと危険なものがあることも、私は知っていた」
「でも、それは」
「しかも」
言葉が止まらない。
「私なら、同じことをした」
部屋が静かになった。
「ヴェティア様……」
「私だったの」
声が震える。
「人を使って、傷つけて。それでも止めなくて。最後には、あの研究を完成させるのは」
ルミエは、何の話をしているのか全部は知らない。
ロンドも同じだ。
それでもヴェティアには、今さら自分の中だけへ押し戻すことができなかった。
「だから、私が一番危険なところへ行くべきでしょう」
「違います」
「何が?」
「違います」
今度は迷いなく、ルミエが言った。
「ヴェティア様が傷つくことは、償いじゃありません」
ヴェティアは口を閉じた。
「昔、ヴェティア様が実際に傷つけた人がいるなら、その人に謝ることも、できることをすることも必要だと思います」
アンナの顔が浮かぶ。
『私は、忘れていません』
あの日、そう言った彼女。
「でも、今、別の誰かがやっていることまで、ヴェティア様が傷つくことで償えるんですか?」
「それは……」
「ヴェティア様が怪我をしたら、今日助けた人の傷が消えるんですか?」
「……消えないわ」
「まだ見つかっていない人たちが帰ってくるんですか?」
「帰ってこない」
「じゃあ」
ルミエの声が少しだけ震えた。
「傷つかないでください」
ヴェティアは目を見開く。
「そんな……簡単な話じゃないわ」
「簡単じゃないです」
ルミエはすぐに返した。
「私だって分かりません。ヴェティア様が何を知っていて、何をそんなに怖がっているのか」
一度、息を吸う。
それから、さっきより少し小さな声で続けた。
「でも、私はヴェティア様を救いたいです」
ヴェティアは何も言えなかった。
言ったルミエ自身も、少し驚いたように目を瞬いた。
「……救う、っていう言い方も変かもしれませんけど」
「ルミエさん」
「うまく言えません。でも、嫌なんです」
握った手に力が入る。
「ヴェティア様が、誰かを助けるためなら自分はどうなってもいいみたいに考えるの」
そこでルミエは、ふっとヴェティアから視線を逸らした。
「そういうのを見るのが、嫌です」
それ以上は言わなかった。
ヴェティアも、聞けなかった。
胸の中へ何かが入り込んでくる。
温かいような、痛いような。
どう扱えばいいのか分からないもの。
「セルメールの言う通りだ」
今度はロンドが口を開いた。
「ロンド様まで」
「僕は少し違う言い方をする」
彼は机の上に置いていた資料から手を離した。
「まず、分けて考えろ」
「何をです?」
「君が実際にしたことと、していないことだ」
ヴェティアの表情が強張る。
「アンナ・ローレルへ魔法を向けた」
ロンドはまっすぐ言った。
「それは君が実際にしたことだ」
「……はい」
「暴走させるつもりがなかったとしても、傷つけるつもりで魔法を向けた事実は変わらない。謝ったから消えるわけでもない」
「はい」
「彼女が今も忘れていないことも、君は知っている」
「……知っています」
「なら、それは君自身が向き合うべき責任だ」
胸が痛んだ。
けれど、否定したくはなかった。
「一方で」
ロンドは続ける。
「今日見つけた施設を作ったのは君か?」
「違います」
「人を集めたのは?」
「違います」
「実験したのは?」
「違います」
「今もどこかで同じことを続けている人間がいるとして、それは君か?」
「……違います」
「なら、その犯罪の責任は、今それをしている人間のものだ」
「でも、私は」
「知っているから?」
先を取られた。
「……はい」
「知識があるなら使えばいい」
ロンドの声は変わらない。
「今日のようにな」
ヴェティアは顔を上げた。
「君の知識と魔法があったから、設備を安全に止められた。だから一人が助かった。それは事実だ」
「だったら、なおさら」
「だから危険を全部引き受けろ、とはならない」
また、同じところへ戻される。
「責任を負うことと、自分を罰することは同じではない」
ヴェティアは黙った。
「君は今、その二つを混ぜている」
「……そんなつもりは」
「ある」
ロンドは言い切った。
「君自身も、もう気付いているだろう」
返す言葉がなかった。
気付いている。
どこかで、傷つけばいいと思っている。
自分が苦しめば、少しは釣り合うのではないかと思っている。
アンナへしたこと。
原作で自分がするはずだったこと。
今日見た被害者。
まだ見つかっていない人たち。
全部を抱えて、その重さの分だけ自分を削れば、それで何かを返したことになるのではないかと。
「でも」
それでも、ヴェティアは言った。
「何もしないわけにはいかないでしょう」
「誰が何もしろと言った?」
ロンドがわずかに眉を寄せる。
「君には来てもらう」
「……え?」
思わず聞き返した。
「次の調査で、君の知識が必要ならな」
「危険だから残れとは……」
「言わない」
ロンドはヴェティアを見る。
「君はここまで、この事件へ関わってきた。情報も持っている。実際に役に立つ知識もある。必要なら、判断にも加わってもらう」
守られるだけの婚約者へ向ける言葉ではなかった。
同じ事件を追う相手へ向けた言葉だった。
「ただし」
ロンドが続ける。
「勝手に一人で行くなら止める」
「……」
「自分だけ危険を引き受けようとしても止める」
「厳しいですね」
「君が厄介なんだ」
「それは否定できません」
「やっと自覚したか」
「前からしています」
少しだけ、空気が緩んだ。
隣でルミエが小さく笑う。
ヴェティアは二人を見た。
どうして、と思う。
自分はこんなに面倒なのに。
過去も、隠していることも、決して軽くはないのに。
それでも二人は、勝手に離れてくれない。
「……分かりました」
ようやく口にする。
「何がだ?」
ロンドが念を押す。
「一人では行きません」
言った瞬間、胸の奥で何かが抵抗した。
自分だけなら、誰も巻き込まない。
自分だけなら、失敗しても自分だけで済む。
その考えは、まだ消えていない。
だからヴェティアは、誤魔化さず続けた。
「全部、納得できたわけではありません」
「それでいい」
「今でも、私が一番危険な役目を負った方がいいと思うところはあります」
「それはよくないです」
すぐルミエに返された。
「分かってるわよ」
「本当ですか?」
「……少なくとも」
ヴェティアは一度言葉を選んだ。
「あなたたちを勝手に置いていかない」
ルミエが黙る。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
ロンドも短く答える。
「ああ」
それだけだった。
大げさな誓いではない。
劇的な和解でもない。
罪悪感が消えたわけでも、自分を犠牲にすればいいという考えを捨てられたわけでもない。
それでも、次に何かが見つかったとき、自分だけで向かう道は選ばない。
少なくとも、今は。
ヴェティアは机の上へ視線を落とした。
地下施設から確保された記録。
救出された人の証言。
まだ見つかっていない人たち。
今、見るべきものはそこにある。
一人で償う方法ではない。
三人で、この事件を止める方法だった。




