第42話 助ける側に立つ
「生存しています!」
その声を聞いた瞬間、ヴェティアの中から研究室の光景が一度消えた。
床の魔法陣も、擦れた拘束具も、壁の傷も。原作の鮮血姫も。
今は、奥にいる人間の方が先だった。
「状態は?」
ロンドがすぐに尋ねる。
先へ進んでいた調査員の一人が戻ってきた。
「意識はあります。ただ、かなり弱っています。こちらの呼びかけには、ほとんど反応しません」
「外へ運べるか?」
「今すぐ動かしていい状態か確認しています。それと――」
調査員が一瞬だけ奥を振り返った。
「魔力の状態がおかしいようです」
ヴェティアの背筋が冷えた。
「どういう意味ですか?」
ルミエが尋ねる。
「詳しくは分かりません。ただ、体内の魔力が安定していません。近くにいるだけでも分かるほど、流れが乱れています」
紙の上で読んだ言葉が蘇る。
魔力の流れ。
拒絶。
負荷。
回復までの時間。
(実際に、やったのね)
少なくとも、奥にいる誰かには。
「私に見せてください」
ルミエが言った。
調査員がロンドを見る。
「危険がないと確認された範囲までなら」
ロンドが答える。
「ただし、勝手に治療を始めるな」
「はい」
返事はすぐだった。
ヴェティアも前へ出る。
「私も行きます」
「ヴェティア」
「分かっています。先へは出ません」
一瞬、ロンドと目が合った。
やがて彼は頷く。
「なら来い」
◇
被害者がいたのは、地下のさらに奥にある小さな部屋だった。
中へ入った瞬間、ヴェティアは息を止めた。
人がいた。
床へ敷かれた薄い布の上に、一人の人間が横たわっている。
性別を確かめるより先に、ひどく痩せていることが目に入った。衣服は汚れ、腕には何かを固定していたらしい跡が残っている。顔色は悪く、呼吸も浅い。
それでも、胸は動いていた。
生きている。
「……っ」
ルミエが小さく息を呑んだ。
その声で、ヴェティアは自分が立ち尽くしていたことに気付いた。
(この人を……)
原作の自分なら、何と呼んだだろう。
被験者。
対象。
記録の番号。
条件。
成功。
失敗。
(違う)
今、目の前にいるのは人だ。
「魔法を使ってもいいですか?」
ルミエが調査員へ確認する。
「何をするつもりです?」
「治せるかどうかを見るんじゃありません。ごく弱く光を触れさせて、魔法的に異常な状態が残っているかを確認します」
ルミエは被害者から目を離さない。
「何でも治せるわけではありません。分からないまま強い光魔法を使う方が危険です」
ヴェティアは彼女を見る。
いつか、ミュゲが教室で話した言葉を思い出した。
『光魔法は、決して万能ではありません』
失われた命は戻せない。
壊れたものなら何でも元通りになるわけではない。
自分に何ができるのか。何ができないのか。それを知った上で、できる範囲の中から何をするのか。
ルミエは、それを守ろうとしている。
「分かりました」
調査員が頷いた。
「お願いします。ただし、状態が悪化しそうならすぐに止めてください」
「はい」
ルミエは被害者のそばへ膝をついた。
身体には直接触れない。少し距離を取り、ごく弱い光を生み出す。
眩しいほどではない、淡い光。
それが被害者の身体へ近づき、残っている魔素へそっと触れた瞬間。
「……変です」
ルミエの表情が強張った。
「何が?」
ヴェティアが尋ねる。
「反応する場所が、一か所じゃありません」
光を強めることなく、ルミエは慎重に動かしていく。
「いくつかの場所で、流れが違う方向へ引かれているみたいです」
「複数の属性を流された?」
「分かりません。でも、普通の怪我とも、魔力を使いすぎたときとも違います」
被害者の指が微かに動いた。
ルミエはすぐに光を遠ざける。
「これ以上は、一度止めます」
「治せない?」
ロンドが尋ねた。
「今ここで全部は無理です」
ルミエははっきり答える。
「身体そのものが弱っています。それに、魔力回路へ何が起きているのかも分かりません。私にできるのは、異常な形で残っている魔素があるなら、それへ少しずつ働きかけることくらいです」
「分解するのか?」
「はい。ただし、何でもまとめて分解するつもりはありません」
ルミエは被害者を見る。
「身体の中ですから。外にある魔素へ使うときより、ずっと慎重にしないと」
ヴェティアにも分かる。
光魔法の根本は、対象となる魔素を火、水、風、土の四つの魔粒子へ分解すること。
だから、魔法的に異常な形で残っているものを崩すことはできるかもしれない。
けれど、身体そのものを、人間そのものを、都合よく元通りにする魔法ではない。
「反応を見ながら、異常な部分だけに少しずつ触れます」
ルミエが言う。
「無理だと思ったら、すぐ止めます」
「できる?」
ヴェティアが尋ねた。
「やってみます」
それから、ルミエは少しだけ口元を引き締める。
「でも、できないところまでやろうとはしません」
以前のルミエなら、もっと不安そうに笑ったかもしれない。
今も怖がっていないわけではない。それでも、できることだけを選ぼうとしている。
「分かった」
ロンドが言う。
「必要な時間だけやれ。運び出す準備はこちらでする」
すぐに調査員たちへ指示を出す。
外までの経路。
搬送に使うもの。
途中に危険が残っていないか。
安全な場所へ移した後、治療を引き継げるよう準備すること。
三人だけで何でもするわけではない。
それぞれが、自分にできることをしていた。
ヴェティアは周囲を見回す。
そのとき、部屋の隅、壁際に残された設備が目に入った。
細い管。
床へ刻まれた魔法陣。
そこから四方へ伸びる線。
目を凝らす。
完全には消えていない。
四方向それぞれに、わずかな魔力の残滓がある。
「……待って」
ヴェティアが立ち上がる。
「どうした?」
「これ」
近づきすぎない位置から、杖先で示した。
「まだ動いています」
ロンドの表情が変わる。
調査員の一人も距離を取ったまま確認した。
「確かに。微弱ですが、魔力が残っています」
「触らないでください」
ヴェティアの声が強くなった。
「この人へ、まだ影響している可能性があります」
ルミエが顔を上げる。
「まだ?」
「分からない。でも……」
あの記録。
維持。
負荷。
異なる性質。
繰り返された実験。
もし設備側から被害者の魔力へ働きかけ続けているのなら。
「先に、こちらを止めた方がいいかもしれません」
「止め方は分かるのか?」
ロンドが尋ねる。
「多分」
答えてから、ヴェティアは一度息を整えた。
「……いえ。全部は分かりません」
原作で知っているからといって、目の前の設備まで同じだと決めつけてはいけない。
「ただ、この配置なら」
床へ残された線を見る。
四方から、別々の流れを中央へ集める構造。
残っている魔力の性質も、それぞれ違う。
火。
水。
風。
土。
四つの属性に近い流れが、中央へ向かっている。
(似ている)
原作で鮮血姫が使った研究と。
考え方が。
「四方向から、異なる属性の力を流している可能性があります」
「解除できる?」
ルミエが尋ねた。
「一度に壊すのは危険かもしれない」
ヴェティアは答える。
「もし四つの流れで均衡を取っているなら、一つだけ急に切れば、残った力が偏るかもしれない」
被害者を見る。
そんな賭けを、この人の身体で試すわけにはいかない。
「だから、私が四つの流れへ同時に干渉します」
ロンドが目を細める。
「できるのか?」
「できます」
今回は迷わなかった。
自分には、四属性すべてへの高い適性がある。それぞれを同時に意識し、別々に制御できる。
原作では、その才能が鮮血姫を禁忌の先へ進ませたのかもしれない。
でも、力そのものが罪なのではない。
どう使うかだ。
「四つを同じくらいずつ弱めます。設備そのものを壊すのではなく、流れが止まるところまで」
ヴェティアは続ける。
「その後で、ルミエさんに身体へ残っている異常をもう一度確認してもらいます」
「分かった」
ロンドは即座に調査員たちへ告げる。
「何か異常が起きたら、すぐ退避できるようにしてくれ。ヴェティア、無理だと思ったら止めろ」
「はい」
「一人で抱えるな」
一瞬、先日の言葉が胸に刺さる。
それでも今は、反発しなかった。
「分かっています」
ヴェティアは杖を構えた。
まず、設備に残る四つの流れを見極める。
火。
水。
風。
土。
周囲の魔素から、それぞれに必要な属性の魔粒子を引き出す。それを媒体として、自分の魔力で四つを別々に制御する。
一つにしない。
混ぜない。
四つは、四つのまま。
設備に残る同じ性質の流れへ、同時に触れる。
「……下げます」
最初の一つを、ほんの僅か。
次も、同じだけ。
三つ目。
四つ目。
均等に。
急がない。
無理に壊さない。
ただ、流れを弱めていく。
床の魔法陣に残っていた光が、少しずつ薄くなった。
被害者の身体が僅かに震える。
「ヴェティア様」
「見えてる」
慌てるな。
もっとゆっくり。
四つを、同時に、均等に。
(簡単じゃない)
一つでも力を入れすぎれば、全体が崩れる。弱めすぎてもいけない。
残り三つを意識しながら、一つ一つへ違う力を流し続ける。
それでも、ヴェティアには分かった。
どこへ、どれだけ、自分の魔力を使えばいいのか。
四つの属性を同時に意識しても、頭が混乱しない。むしろ、それぞれが別のものとして、はっきり捉えられる。
その瞬間、別の意味で身体が冷えた。
(……これなの?)
原作で、鮮血姫が最後まで研究を進められた理由。
何度失敗しても、誰も辿り着けなかったところまで進んだ理由。
その一端を、今、自分自身の感覚として理解してしまう。
(私だから)
一瞬だけ怖くなった。
それでも、杖は離さなかった。
(だから何よ)
今、使っている。
誰かを壊すためではない。
止めるために。
「もう少し」
最後の残光が消えた。
「ルミエさん」
「はい」
ルミエが再び、ごく弱い光を被害者へ近づける。
数秒。
それだけの時間が、ひどく長く感じられた。
やがて、
「……さっきより、乱れが弱くなっています」
その声に、僅かな安堵が混じる。
「全部ではありません。でも、外から引っ張られていたような反応は消えました」
「運べるか?」
ロンドが調査員へ確認する。
状態を見ていた者が慎重に頷いた。
「先ほどよりは安定しています。これ以上ここへ置いておく理由もありません。急いで運びます」
ヴェティアは杖を下ろした。
一気に力が抜けそうになる。
それでも、被害者が運び出されるまではその場に立っていた。
薄い布ごと身体を支えられ、慎重に持ち上げられ、扉の向こうへ運ばれていく。
研究室から、外へ。
◇
地下から出たとき、外の光が眩しかった。
被害者はすぐに安全な場所へ移され、治療のできる者へ引き継がれた。
ルミエも、そこまでだった。
「後は、お任せします」
そう言って、無理に治療へ加わろうとはしない。
自分にできることと、できないこと。
その線を守った。
しばらくして、ほんの少しだけ被害者の意識が戻ったと伝えられた。
まだ長く話せる状態ではない。質問を重ねられる状態でもない。
それでも、呼びかけには反応した。
水を求めた。
そして、短い言葉をいくつか残した。
「……他にも、いたそうだ」
ロンドから聞いた瞬間、ヴェティアは目を閉じた。
「何人ですか?」
「分からない」
「場所は?」
「そこまで話せる状態ではない」
ロンドは首を横へ振る。
「今、無理に聞くべきでもない。ただ、人が何度か入れ替わったこと。何かを繰り返しされたこと。それから、途中で別の場所へ連れていかれた者がいるらしい」
「実験……」
ルミエの顔が曇る。
「可能性は高い。ただし、証言はまだ断片的だ。身体が落ち着いてから、改めて確認する」
ヴェティアは何も言わなかった。
胸が重い。
一人は助けた。
生きていた。
けれど、他にもいる。
ここから移された人間もいる。
研究をした者も、命令した者も、まだ捕まっていない。
(足りない)
そう思った。
一人助けただけ。
何も終わっていない。
もっと探さなければ。
もっと止めなければ。
自分は、もっと――。
「ヴェティア様」
ルミエの声で顔を上げる。
「……何?」
彼女は少し迷ってから言った。
「助かりましたね」
それだけだった。
ヴェティアは、すぐには返事ができなかった。
助かった。
全部ではない。
完全に治ったわけでもない。これから長い治療が必要になるかもしれないし、元通りになるかも分からない。
それでも、生きている。
自分たちは、この人を研究室から出した。
(原作の私なら……)
この人を使ったかもしれない。
記録を取って、失敗したら条件を変え、また次を試したかもしれない。
その未来を、自分の中から都合よく消すことはできない。
アンナを傷つけた自分も、鮮血姫になるはずだった自分も、無かったことにはできない。
でも、今目の前にいる人へ何をするのかは別だ。
ヴェティアは、被害者が運ばれていった先を見る。
(今の私は……)
この人を助ける。
そのために、自分の魔法を使った。
自分の知識を使った。
罰を受けるためではない。
自分を傷つけるためでもない。
この人を、生きたまま、あの場所から出すために。
「……ええ」
ようやく声が出た。
「助かったわね」
ルミエが小さく頷く。
ロンドは何も言わなかった。
ただ、二人のそばに立ったまま、運ばれていった先へ視線を向けている。
何も終わってはいない。
他の被害者もいる。
研究も止まり切っていない。
それでも今だけは、一人を助けたという事実を、罰や罪悪感へ変えずに受け取ってもいいのかもしれない。
ほんの一瞬だけ。
それが、今の自分がやるべきことだったのだと。
ヴェティアは素直に思えた。




