第41話 鮮血姫の研究室
「ここから先は、確認が終わるまで入らないでください」
先に地下へ降りた王家側の調査員が、階段の途中で振り返った。
ロンドが頷く。
「分かっている」
ヴェティアは何も言わなかった。
石造りの階段の下から、冷たい空気が上がってくる。
湿った土と古い木。何かを燃やしたような焦げた臭い。そして、鼻の奥に残る、薬品とも金属ともつかない臭い。
(……嫌)
まだ何も見ていない。
ここが本当に研究施設なのかさえ、完全には確定していない。それなのに、身体の方が先に拒んでいた。
周辺を調べた結果、この建物へ人や物が運び込まれていた形跡が確認された。
失踪者の一部へ繋がる仕事の紹介。
古い研究資料を扱っていた仲介経路。
新しい観察記録。
それぞれを追った先が、この場所の周辺で重なった。
それでも、三人だけで踏み込むことはしなかった。
先に王家側の人間が内部を確認する。危険な魔法や罠がないか、人が潜んでいないか、崩落する場所がないか。その確認が済んだ範囲に限って、ヴェティアたちも入る。
それがロンドの決めた条件だった。
「ヴェティア様」
隣から小さな声がした。
「何?」
「……手」
言われて初めて、自分が裾を強く握っていることに気付いた。
「別に、平気よ」
「そうですか」
ルミエはそれ以上言わなかった。
ただ、いつもより少し近くに立った。
やがて地下から足音が戻ってくる。
「入口周辺は問題ありません」
調査員の表情は固かった。
「ただし、奥まで完全に安全を確認できたわけではありません。入られる場合も、我々より先へ出ないでください」
「何があった?」
ロンドが尋ねる。
一瞬だけ、相手が言葉を選んだ。
「……見ていただいた方が早いかと」
その返事だけで、胸の奥が沈んだ。
◇
地下は、想像していたより広かった。
階段を降りた先に短い通路があり、その左右にいくつかの部屋が並んでいる。
最初に見えたのは、空の棚だった。
何かを急いで運び出したのだろう。棚板には埃が積もっているのに、一部だけ色が違っている。床にも、重い物を引きずったような跡が残っていた。
「片付けられていますね」
ルミエが小声で言う。
「ああ」
ロンドが答えた。
「ここを離れる準備をしたか、証拠になるものを移したか。まだどちらとも言えない」
調査員たちが部屋の中を確認している。
紙片。
割れた容器。
消されかけた文字。
何かが置かれていた跡。
完全に空ではない。けれど、必要なものだけ持ち去ろうとしたようにも見える。
(間に合わなかった?)
誰が、何に。
考えそうになって、止める。
まだ決めつけるな。
ヴェティアは自分へ言い聞かせた。
次の部屋へ進む。
そこで、足が止まった。
「……ヴェティア?」
ロンドの声が聞こえた。
返事ができない。
床に、魔法陣があった。
大きな一つの陣ではない。いくつもの小さな陣が、中央の場所を囲むように配置されている。
ところどころ削られ、線も途切れている。
何を目的としたものか、完全には読み取れない。
けれど、その配置だけで記憶の奥にある光景が揺れた。
ゲームの画面。
薄暗い地下室。
中央に描かれた魔法陣。
その周囲に並べられた器具。
そして、鮮血姫となったヴェティア。
(……似てる)
同じではない。
形も違う。部屋の広さも、道具も、原作で見た研究室そのものではない。
なのに、何のために中央へ一つの場所を作り、その周囲から複数の魔法を作用させようとしているのか。その考え方が、あまりにも似ていた。
「これは何の魔法陣でしょうか」
ルミエが尋ねる。
近くにいた調査員が首を横へ振る。
「まだ判断できません。削られている部分が多すぎます」
「触らない方がいい」
ロンドが言う。
「はい」
ヴェティアは中央を見る。
そこだけ、床の表面が擦れていた。
何度も同じ場所へ何かを置いたように。
あるいは、誰かを。
(やめて)
頭の中で浮かんだ言葉に、自分で怯えた。
まだ分からない。
これは証拠ではない。
次の部屋。
そこには、壁沿いに細長い器具が残されていた。
魔力を測るためのものに似ている。学校の実技で使う物ほど整った形ではなく、複数の部品を組み合わせて作ったような、不格好な装置だった。
細い導線が何本も伸びている。
その先は、中央に置かれた台の周囲へ集まっていた。
ヴェティアは息を止める。
台の横には、革の帯が残されていた。
一本。
二本。
手首ほどの太さのもの。
脚を固定できそうな長さのもの。
「……これは」
ルミエの声が震えた。
ロンドはすぐには答えなかった。
調査員の一人がしゃがみ込み、触れない距離から確認する。
「拘束具として使われた可能性があります」
「可能性?」
「他の用途も考えられます。現時点では断定できません」
慎重な答えだった。
けれど、ヴェティアにはもう別のものに見えなかった。
台の縁には、細かな傷が残っている。何度も何かが当たったような傷。
革の一部も擦れている。
使われていなければ、こんな跡は残らない。
(人を、ここへ固定して……)
何をしたの。
答えは、昨日の紙に書かれていた。
魔力の流れ。
負荷。
異なる性質。
拒絶。
限界。
ヴェティアの胃が縮む。
「少し休むか?」
ロンドが低い声で尋ねた。
「……いいえ」
「無理をする必要はない」
「見ます」
自分でも驚くほど、声が固かった。
「ここは、見なければいけません」
ロンドはヴェティアを見た。
理由を尋ねることはしなかった。
「分かった。ただし、具合が悪くなったら言え」
「はい」
次へ進む。
部屋の奥には、何枚かの紙が床へ落ちていた。
持ち去る途中で落としたのか、捨てられたものなのか。
調査員が先に確認し、安全を確かめてから拾い上げる。
「記録らしいです」
紙はヴェティアたちへ直接渡されなかった。
少し離れた位置から、読み取れる範囲だけを見る。
短い数字。
魔力の流れ。
異なる属性を加えた順番らしい記述。
失敗。
中止。
別条件。
再試行。
同じような言葉が何度も並んでいる。
「また……」
ルミエが呟いた。
昨日の記録と同じだ。
完成していない。
何度も試している。
けれど、安定しない。
力を重ねようとするたびに崩れ、拒絶し、対象の身体が先に耐えられなくなっているような記述さえある。
(やっぱり、できてない)
ヴェティアは紙を見る。
原作では、できた。
鮮血姫は最後には、異なる属性の力を無理に結びつけ、闇魔法として成立させた。
ここにいる誰かは、同じような場所まで辿り着いている。同じように人を使っているかもしれない。
それなのに、壁を越えられていない。
(どうして)
以前にも浮かんだ疑問が戻ってくる。
何が違う。
研究資料?
方法?
時間?
それとも、研究する人間。
そこまで考えて、ヴェティアは息を止めた。
(……違う)
今、考えることではない。
それ以上進めば、何かに気付いてしまいそうだった。
視線を逸らす。
その先、壁の一部に小さな傷があった。
一本ではない。
何本も。
爪で引っ掻いたような浅い線が、低い位置に集中している。
「……これ」
ルミエも気付いたらしい。
近づこうとして、すぐに止まる。
調査員が確認する。
「いつ付いたものかは分かりません」
分からない。
何も、まだ分からないはずなのに。
ヴェティアには急に、ゲームの画面がひどく薄っぺらく思えた。
原作では、
『人体実験を繰り返した』
それだけだった。
『拷問によって情報を得た』
それだけだった。
『禁忌の闇魔法を完成させた』
それだけだった。
数行。
少し暗い背景。
鮮血姫が狂気を見せるための設定。
宮田茜だった自分は、それを読んで最低だと思った。
それで終わった。
けれど、実際に人体実験をするなら、ここへ人を連れてくる誰かがいる。拘束する誰かがいる。怖がる人がいる。痛がる人がいる。逃げようとする人がいる。
失敗したと記録される一回ごとに、その失敗を身体で受ける人がいる。
(私は……)
そんなことを、するはずだった。
手が震えた。
隠そうと拳を握る。
でも、震えは止まらなかった。
「ヴェティア様」
ルミエの声。
「……何?」
「無理なら」
「大丈夫」
強く答えてしまった。
ルミエが黙る。
「ごめんなさい」
すぐに言った。
「あなたに怒ったわけではないの」
「はい」
ルミエは少し間を置いてから、
「分かってます」
そう答えた。
その言い方が、余計に苦しかった。
ロンドも何も聞かなかった。
ただ、先へ進む調査員とヴェティアの間に自然に立つ位置を変えた。
守るように、というより、不用意に先へ出させないように。
それが今はありがたかった。
◇
施設のさらに奥は、完全には確認できていなかった。
一部の通路には物が積まれ、扉が壊されている場所もある。何かを急いで運び出した形跡が続いていた。
「かなり持ち出されていますね」
ルミエが言った。
「ああ」
ロンドは低く答える。
「こちらが調べていることに気付いた可能性もある」
「逃げたんでしょうか」
「関係者が全員いなくなったのかどうかも、まだ分からない」
足元には紙片。
割れた小瓶。
焼かれた跡。
火を付けたものの、燃えきらなかった紙も残っている。
証拠を消そうとしたように見える。
けれど、完全には消せていない。
研究室だった可能性を示すもの。
生き物を使った実験を疑わせるもの。
複数属性の力を扱った痕跡。
それらが、まだ残っている。
そして、ヴェティアの記憶の中にある鮮血姫の研究と、あまりにもよく似ている。
(ここは……)
原作の研究室ではない。
同じ場所でもない。
同じ人間が作ったわけでもない。
それでも、もし自分が原作どおりに進んでいたなら、いつかこんな場所を自分の意思で作っていた。
その考えが、どうしても消えない。
「止まってください」
先頭にいた調査員が突然、手を上げた。
三人の足が止まる。
「どうした?」
ロンドが尋ねる。
返事はなかった。
調査員が奥の暗い通路へ顔を向けている。
別の一人も動きを止めた。
「……何か聞こえます」
全員が黙る。
ヴェティアも息を止めた。
最初は何も聞こえなかった。
地下の静けさ。
遠くで何かが軋む音。
誰かの衣服が擦れる音。
それだけ。
けれど、もう一度。
小さく。
「……ぅ」
声。
ヴェティアの背筋が凍る。
「今の」
ルミエが呟く。
「ああ」
調査員がすぐに動いた。
「皆さんはここで待ってください」
「人ですか?」
「まだ分かりません」
数人が先へ進む。
ヴェティアはその背中を見送る。
足が勝手に前へ出そうになる。
「ヴェティア」
ロンドの声で止まった。
「待て」
「でも」
「今は任せろ」
拳を握る。
分かっている。
自分が先へ行ったところで邪魔になる。危険が残っているかもしれない。
それでも、また声がした。
今度は、さっきよりはっきりと。
人の、苦しそうな息。
「……生きてる」
ルミエが小さく言った。
ヴェティアの心臓が激しく鳴る。
数行ではない。
設定でもない。
研究記録の「対象」でもない。
この奥に、今、人がいる。
生きている。
調査員の声が響いた。
「一名確認!」
続いて、
「生存しています!」
ヴェティアは、考えるより先に顔を上げていた。
原作の自分が人間を研究材料にした場所と、よく似た地下で。
今。
まだ助けられる人がいる。




