第40話 私が止めなければ
眠れなかった。
目を閉じるたびに、机の上へ並んでいた文字が浮かぶ。
魔力回路。
異なる性質の力。
拒絶。
負荷。
耐えられる限界。
途中で中止。
どれも、ただの文字だった。
誰が書いたのかも、誰に対して行ったのかも分からない。人間を使った実験だったと、まだ確定したわけでもない。
それなのに、ヴェティアにはその先が見えてしまう。
(原作では……)
異なる属性の力を無理に扱わせる。
失敗すれば条件を変え、もう一度試す。安定しなければ、さらに別の方法を試す。
物から生き物へ。
生き物から、人へ。
そして最後には、人間そのものを研究のための材料として扱う。
鮮血姫となったヴェティアは、そうやって禁忌の研究へ踏み込み、最後には誰にも扱えなかったはずの異なる属性の力を、一つの魔法として成立させた。
闇魔法。
(……原作の私は、やった)
正確には違う。
今の自分は、まだやっていない。原作で起きた未来と現在は同じではないと、何度もそう切り分けてきた。
それでも、原作のヴェティアも自分だった。
宮田茜だった自分も、アンナへ魔法を向けたヴェティアも、今ここで寝台に横になっている自分も、都合よく別の人間にはできない。
ヴェティアは目を開けた。
暗い天井が見える。
昨日見た記録では、研究は失敗を繰り返していた。
異なる属性の力は安定しない。近づけようとすれば拒絶する。無理に維持すれば、身体へ負荷がかかる。
何度条件を変えても、まだ闇魔法には届いていない。
けれど、原作ではその先へ進んだ。
(この研究がどこまで行くのかを、一番知っているのは私よ)
ロンドは現在の記録を調べられる。
ルミエは、自分では気付けないことへ気付く。
王家にも調査できる人間がいる。
それでも、原作でこの研究がどこまで進み、何を犠牲にし、最後に何を生み出したのか。そこまで知っているのは、自分だけだ。
なら。
(私が止めなければ)
その考えは、驚くほど自然に胸へ収まった。
◇
翌日。
ヴェティアは授業の内容をほとんど覚えていなかった。
教師の声は聞こえている。板書もしている。けれど、頭の中では別のことばかり考えていた。
もし、実験を行っている場所が見つかったら。
そこへ行けばいい。
何が危険なのか、自分なら分かる可能性がある。原作と同じ研究なら、何をしているのかも見当がつく。
ルミエを連れていく必要はない。光魔法使いである彼女を、そんな場所へ近づける理由などない。
ロンドも同じだ。第一王子である彼が、自分の知識を確かめるために危険を負う必要はない。
(私が行けばいい)
簡単な話だ。
原作では、自分自身が最後まで踏み込んだ研究なのだから。
「ヴェティア様」
「……何?」
気付けば、ルミエが隣からこちらを見ていた。
「もう授業、終わりましたよ」
教室を見回すと、確かに立ち上がっている生徒が何人もいる。
「そう」
「そう、じゃないです」
ルミエが眉を寄せた。
「今日、ずっと変です」
「考え事をしていただけよ」
「昨日のことですか?」
返事が一瞬遅れた。
それだけで十分だったらしい。
「やっぱり」
ルミエが小さく息を吐く。
「ロンド様のところへ行きましょう」
「私だけでいいわ」
「どうしてです?」
「確認したいことがあるの」
「だったら私も行きます」
「ルミエさん」
少し強い声になった。
ルミエが目を丸くする。
「あなたは、必要以上にこの件へ関わらない方がいいわ」
「……必要以上?」
「危険な研究かもしれないのよ」
「知っています」
「なら――」
「ヴェティア様もですよね?」
言葉が止まった。
ルミエは怒鳴らなかった。けれど、退く様子もなかった。
「ヴェティア様だって危険です」
「私はいいの」
「よくないです」
即答だった。
「どうしてヴェティア様だけはいいんですか?」
「私は……」
言いかける。
自分が原作のヴェティアだから。
この研究を最後には闇魔法として成立させるはずだった人間だから。
その言葉は出せない。
「……知っていることが多いから」
「だから危ないところへ一人で行っていいんですか?」
「まだ行くとは言ってないでしょう」
「行こうとしてますよね」
ぎくりとした。
「そんなこと……」
「考えてました」
今度はヴェティアが黙る番だった。
ルミエは少しだけ頬を膨らませる。
「前にも言いました」
「何を?」
「一人で決めないでくださいって」
「……覚えているわ」
「覚えているだけじゃ駄目です」
「厳しいわね」
「ヴェティア様が、言うことを聞かないからです」
「あなたに言われたくないわ」
「私は最近、ちゃんと報告してます」
そこを言われると弱い。
ヴェティアは小さく息を吐いた。
「分かったわ。行きましょう」
「はい」
ルミエは満足したように頷いた。
その顔を見ながら、ヴェティアは胸の奥に僅かな苛立ちを覚えていた。
ルミエへではない。
自分自身へ。
一人で行けば済むのに。
そう考えてしまったことへ。
◇
「場所の候補が出た」
ロンドは二人が来るなり言った。
机の上には、これまでより大きな地図と複数の紙が置かれている。
ヴェティアの胸が強く鳴った。
「実験をしている場所ですか?」
「そこまでは分からない」
ロンドはすぐに訂正する。
「例の仕事の紹介先と、研究に関係する書き付けが出てきた経路。その両方を追った結果、何度か人や物が出入りしている場所がいくつか絞れた」
「いくつか?」
ルミエが地図を見る。
「ああ。倉庫として使われている場所もあれば、今はほとんど使われていない建物もある」
「その中に?」
「一つ、地下部分があると確認できた場所がある」
ヴェティアの指先が僅かに冷たくなった。
「地下……」
「ただし、それ自体はおかしくない。保管場所として地下を使う建物はある」
「でも、調べるんですね?」
「他の条件も重なっているからな」
ロンドは地図の一点を指す。
「失踪した者の一部へ繋がる紹介経路。古い研究資料を扱った者の動き。最近の書き付けが出てきた経路。その周辺が、ここで重なる」
証拠ではない。
けれど、調べるだけの理由はある。
ヴェティアは場所を見つめた。
(ここに……)
あるかもしれない。
何度試しても完成しない研究。それでも止めず、条件を変え、対象を変え、人間へまで手を伸ばしているかもしれない場所が。
「私が行きます」
気付けば言っていた。
ロンドの指が止まる。
「何?」
「確認するなら、私が行った方がいいです」
「理由は?」
「以前お話ししたでしょう。似た研究が、どこまで進み得るかを私は知っています」
「それは聞いた」
「なら、現場を見れば何か分かるかもしれません」
「それで?」
「私が先に確認します」
ロンドが黙る。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
「ルミエさんは連れていかない方がいいと思います。危険ですから」
「えっ」
「ロンド様も、現場まで行く必要はありません」
「ヴェティア」
「王家側で人員を出していただければ――」
「君一人で行くつもりだったのか?」
声は静かだった。
ヴェティアは口を閉じる。
「……一人で、とは」
「では誰と?」
「調査の方々と」
「僕とセルメールだけを外して?」
「必要のない危険を負う理由がありません」
ロンドの目が僅かに細くなる。
「君にはあるのか?」
「私は知っています」
「何を?」
「この研究が、どこまで危険になり得るのかを」
「それは答えになっていない」
ヴェティアは眉を寄せた。
「君が知っていることと、君一人の責任であることは別だ」
胸の奥へ刺さった。
「でも」
「今、この研究を進めているのは君か?」
「違います」
「人を失踪させたのは?」
「……違います」
「なら、なぜ君一人が危険を負うことになる?」
「それは……」
答えが出ない。
いや、答えはある。
自分がやるはずだったから。
鮮血姫になるのは自分だったから。
人をさらい、傷つけ、研究材料にして、最後にはあの研究を完成させるのは、原作の自分だった。
「ヴェティア様」
ルミエが横から口を開く。
不満そうな声だった。
「私を勝手に外さないでください」
「あなたは光魔法使いでしょう。もし禁忌研究と関係しているなら――」
「だからって、ヴェティア様だけ行っていい理由にはならないです」
「あなたまで危険に晒す必要はないの」
「私も同じことを言えます」
「何が?」
「ヴェティア様を危険に晒す必要はありません」
言い返せなかった。
「それに」
ルミエは少しだけ言葉を弱める。
「私、ヴェティア様に全部解決してほしいなんて思ってません」
思わず彼女を見る。
「できることがあるなら、私もします。危ないことをしたいわけじゃありません。でも、危ないからって何も知らないところへ置いていかれるのも嫌です」
「ルミエさん……」
「ヴェティア様だって、私が勝手に一人で危ないことをしようとしたら怒るでしょう?」
「怒るわ」
「ですよね」
「……そうね」
少しだけ、自分がどれほど勝手なことを言っていたのか見えた。
それでも、胸の奥にはまだ残っている。
(でも、私が……)
一番知っている。
原作では、誰も成功させられなかったはずの研究を最後まで進めたのは自分なのだ。
なら、一番危険なところへ立つべきなのも自分ではないのか。
「そもそも」
ロンドが話を戻した。
「三人だけで行くつもりはない」
ヴェティアが顔を上げる。
「現時点では、犯罪が行われていると確定していない。だからといって、学生三人で確認しに行ける状況でもない」
「では」
「王家側で調査に当たっている人間と連携する」
地図の横へ、新しい紙が置かれる。
「まず周辺を確認する。人の出入り、建物の使用状況、逃走経路になり得る場所も見る。その上で、内部を確認するだけの理由が整えば、人員を付ける」
「私たちは?」
「状況次第だ」
ロンドはヴェティアを見る。
「少なくとも、君一人を先に行かせることはない」
「……はい」
「セルメールも勝手に動くな」
「はい」
「なぜ僕だけ素直に返事をされるんだ」
「私は元々、一人で行くつもりありませんでしたから」
「……そう」
ヴェティアが呟く。
「何ですか?」
「別に」
少しだけ悔しい。
自分だけが、また戻りかけていた。
自分一人で全部を背負う方へ。
ロンドは地図を畳まず、そのまま机へ残した。
「確認が取れれば動く。君たちにも必要な情報は共有する」
「分かりました」
ルミエが頷く。
ヴェティアも、少し遅れて頷いた。
「……私も」
言葉を切る。
一人で動かない。
そこまで言えばいい。
けれど、喉の奥で何かが引っかかった。
「勝手なことはしません」
「そうしてくれ」
ロンドの返事は短かった。
ルミエも、ようやく少しだけ表情を緩める。
話はそこから、実際の確認手順へ移った。
ヴェティアも聞き、必要なことを尋ね、自分にできる役割を確認した。
それでも、机の上の地図からどうしても目が離せなかった。
地下。
失踪者。
古い研究。
人間の魔力回路へ負荷を与えたらしい記録。
何度試しても安定しない、異なる属性の力。
そして、原作ではその壁を越えてしまった自分。
(私が止めなければ)
その思いは消えていない。
むしろ、研究の先を知れば知るほど、自分が止めるべきだという思いだけが、もっと強く胸の奥へ根を張り始めていた。




