第39話 人間を使う研究
「古い記録とは別のものが出た」
ロンドの言葉に、ヴェティアは顔を上げた。
机の上へ置かれたのは、これまで見ていた古い研究資料の控えとは違う紙だった。
枚数は多くない。文章も途中で切れている。
研究報告書というより、何かを観察しながら残した書き付けを写したものに見えた。
「これは?」
「仲介経路の先を調べる中で存在が確認された。原本そのものではない。誰が書いたのかも、まだ分かっていない」
ロンドは最初にそこを明確にした。
「ただ、魔王時代の記録をそのまま写したものではない可能性が高い」
「どうしてですか?」
ルミエが尋ねる。
「記載の仕方が違う。それに、古い資料にはない観察結果らしいものが含まれている」
ヴェティアは一枚を手に取った。
そこには、短い文章がいくつも並んでいた。
一定時間。
魔力の流れに乱れ。
回復までの時間。
負荷を増した場合。
途中で中止。
意識の変化。
「……これ」
指が止まった。
「人間のことじゃないですか?」
隣から覗き込んでいたルミエが言う。
「そう見える」
ロンドの声は低かった。
「だが、今のところ断定はしていない」
「動物の可能性も?」
「ある」
ヴェティアは次の紙へ視線を移した。
だからこそ、決めつけてはいけない。そう分かっているのに、嫌なものが胸の奥へ溜まっていく。
別の記載には、一つの力を流したあと、異なる性質の力を加えるとあった。
拒絶。
流れの乱れ。
強い負荷。
維持できず中断。
条件を変えて再度実施。
それでも安定せず中止。
さらに別の条件を試し、また失敗している。
「複数の属性……?」
ヴェティアが呟く。
「私もそう読んだ」
ロンドが答えた。
「火や水といった言葉そのものは残っていない。ただ、『異なる性質』『同時』『混ざらない』という記述が繰り返されている」
ヴェティアは紙を持つ手へ僅かに力を込めた。
異なる力。
同時に扱う。
混ざらないものを、無理に。
(まさか)
頭の奥で何かが繋がりかける。
やめろ。
まだ早い。
これは原作ではない。
「ヴェティア様?」
「……大丈夫」
ルミエへ答え、続きを読む。
魔力の流れを示しているらしい記述。
負荷が集中した位置。
通常の状態へ戻るまでの時間。
そして、身体がどこまで耐えられるかを確かめているようにしか見えない文章。
ヴェティアの喉が乾いた。
「ロンド様」
「何だ?」
「これ、本当に物を使った研究だと思いますか?」
ロンドはすぐには答えなかった。
「少なくとも、私はそうは読めない」
静かな返事だった。
「魔道具や魔石なら、意識の有無を記録する必要はありません」
「そうですね」
ルミエの声が小さくなる。
「回復までの時間も……」
「ああ。何が回復したのかは書かれていない。だから、それだけでは人間だとは言えない」
ロンドが別の箇所を指す。
「だが、ここもある」
ヴェティアは目を向けた。
魔力回路。
その文字を見た瞬間、心臓が一度、大きく鳴った。
さらに、その下には負荷、流れ、耐えられる限界、途中で止めた場合の変化。
「……生き物ですね」
ルミエが言った。
誰もすぐには否定しなかった。
魔力回路は生命の体内にある。それだけなら、まだ人間とは限らない。
けれど、古い研究資料。
人間の失踪。
仕事や紹介を装った仲介。
そして今、生体の魔力回路へ何かを行ったとしか思えない記録がある。
まだ全部が一本の線になったわけではない。
それでも、昨日までよりずっと近い。
ヴェティアは次の一文を見た。
異なる力を同時に流した際、強い拒絶反応。
条件を変更して再度実施。
維持に至らず。
さらに別の紙にも、同じような記録がある。
安定せず。
制御できず。
途中で中止。
何度条件を変えても、結果はほとんど同じだった。
(知ってる)
思わず口が動きそうになる。
「これ、知って――」
止めた。
違う。
知らない。
この紙を見たことはない。
この研究をした人物も知らない。
知っているのは、これとよく似た研究がどこへ進んだのかだ。
「……似ています」
言い直した。
ロンドは何も急かさなかった。
ルミエだけが、ヴェティアの顔をじっと見ている。
「何に?」
ロンドが尋ねる。
「以前、お話しした研究です」
ヴェティアは紙を机へ戻した。
手の震えを見られたくなかった。
「魔王時代の技術を調べるところから始まって、だんだん危険な研究へ進んでいったもの」
「人を使うところまで行くと言っていたものだな」
「はい」
声が少し掠れた。
原作の後半。
鮮血姫となったヴェティアは研究をした。
最初から闇魔法を完成させていたわけではない。
異なる属性の力。本来なら一つにはならないもの。
それをどうすれば同時に扱えるのか。
どうすれば、異なる力を無理に一つへ近づけられるのか。
試した。
失敗した。
また試した。
それでも足りず、物から生き物へ。
生き物から、人へ。
画面の中では、そう説明されていた。
人体実験。
拷問。
そして最後に、鮮血姫は誰にもできなかったはずの禁忌を魔法として成立させた。
闇魔法。
宮田茜は、その結果だけを見て嫌悪した。
『ほんっと、こいつ嫌い』
何でも人のせいにして、自分の欲しいもののためなら人まで傷つける。
最低の女だと思った。
その女が、今の自分だった。
(……私が)
胃の奥がひどく重い。
目の前にある紙には、名前がない。顔もない。誰が実験されたのかも分からない。
それなのに、急に現実味を持って迫ってくる。
人間の身体へ力を流す。
反応を見る。
耐えられるかを調べる。
駄目なら条件を変える。
また試す。
何度失敗しても、次の条件を探す。
ゲームの中では数行で終わった。
けれど、実際にやれば、その一回ごとに生きた何かがいる。
「ヴェティア」
ロンドに呼ばれた。
顔を上げる。
「顔色が悪い」
「……平気です」
「平気には見えない」
言い切られて、ヴェティアは黙った。
「でも、話せます」
「無理に全部話す必要はない」
ロンドの声は変わらない。
問い詰める響きも、慰めようとする響きもなかった。
「この記録について判断するために必要なことだけでいい」
「……はい」
その言葉に、少しだけ呼吸が戻る。
「私が知っているものでは、異なる属性の力を無理に一つへ近づけようとしていました」
ルミエが息を呑んだ。
「そんなことができるんですか?」
「簡単にはできません」
ヴェティアは答える。
「本来、違う属性の力は同じものではないから」
「だから、この記録でも拒絶している?」
「可能性はあります」
ヴェティアは紙を指した。
「ただし、ここに書かれている研究が、本当に同じことをしているとはまだ言えません」
「完成したとも?」
「言えません」
むしろ、この記録から伝わってくるのは失敗ばかりだった。
異なる性質の力を同時に扱おうとしている。
そこまでは読み取れる。
けれど、一つの安定した魔法として成立した形跡はない。
近づければ拒絶する。
無理に続ければ流れが乱れる。
維持しようとすれば、対象の身体へ負荷が集中する。
条件を変えても、順番を変えても、また失敗している。
「少なくとも」
ロンドが紙を見たまま口を開く。
「完成した技術の記録には見えない」
「はい」
ヴェティアも頷いた。
「成功へ近づいている記録にも、私には見えません」
口にしてから、僅かな違和感が残った。
原作では、ここから先へ進んだ。
何度失敗しても、最後には鮮血姫が闇魔法を完成させた。
(何が違うの?)
一瞬だけ浮かんだ疑問を、ヴェティアは押し込める。
まだ考えるには早い。
そもそも、同じ研究だとも確定していない。
「それなのに、続けているんですね」
ルミエが言った。
「そう見えるわ」
ヴェティアは紙を見る。
一度の失敗ではない。同じような失敗が繰り返されている。
それでも、やめていない。
条件を変える。
負荷を変える。
対象を変えたのかもしれない。
そして、また試す。
成功していないことより、その方が恐ろしかった。
「それも、人間かもしれない相手に」
ルミエの声が固い。
ヴェティアは答えられなかった。
まだ、人間だと確定したわけではない。
けれど、ルミエもロンドも、そして自分も、もう同じ可能性を見ている。
「失踪者との関係は?」
ヴェティアが尋ねた。
「まだ直接は確認できていない」
ロンドははっきり答える。
「この記録に個人名はない。失踪者を示すものもない」
「では」
「ただし、この書き付けが出てきた経路は、古い研究資料を扱った仲介者周辺と重なっている」
「……仕事を紹介していた人たちとも?」
「その一部とな」
ヴェティアの指先が冷たくなる。
まだ証拠ではない。
まだ繋がっていない。
けれど、一つ一つ離れていたものの距離が縮まっていた。
「これから、この記録がどこから来たのかを追う」
ロンドは言った。
「書いた者。渡した者。誰の指示だったのか。それから、記載された内容が実際に行われたものなのか」
「失踪した人たちも」
ルミエが続ける。
「ああ」
ロンドが頷く。
「紹介された仕事の先と、この記録が繋がるのかを確認する」
ヴェティアは机の上の紙を見た。
人。
仕事。
仲介。
古い研究。
新しい観察記録。
魔力回路。
異なる属性。
身体への負荷。
そして、繰り返される失敗。
原作の知識を使わなくても、十分に嫌なものが見え始めている。
「ヴェティア様」
ルミエに呼ばれた。
「何?」
「……さっきから」
一度、言葉を迷う。
「この事件のことを怖がっているというより、ご自分のことを責めているように見えます」
胸を突かれた。
「そんなこと」
ない、と言おうとして。
言えなかった。
ルミエはそれ以上聞かなかった。
ただ、ヴェティアの近くに置いていた手を引かなかった。
ロンドも秘密について尋ねない。
二人とも知らない。
原作で誰がこの研究をしたのか。
誰が人間を材料にしたのか。
誰が、失敗ばかりだった研究を最後まで押し進めてしまったのか。
それでも今は、それでいい。
見るべきものは、自分の中にある記憶だけではない。
目の前の記録だ。
ヴェティアはもう一度、紙へ目を落とす。
まだ、人間を使った実験だと確定したわけではない。
失踪者がその対象だったとも分からない。
けれど、生きた身体を使わなければ意味の通らない記載がある。
その記録が、失踪者たちへ繋がる仲介経路の近くから出てきた。
そして、何度失敗しても実験は止まっていない。
そこまで来れば、偶然だと言って目を逸らすこともできなかった。
(もし、本当に)
原作で自分が犯すはずだったことが、今、別の誰かの手で行われているのなら。
胸の奥から、強い嫌悪が湧き上がる。
誰に向けたものなのか。
まだ、ヴェティア自身にも分からなかった。
記録を書いた誰かへなのか。
人間を研究材料として扱う行為へなのか。
それとも、同じことをするはずだった自分自身へなのか。
ただ一つ、はっきりし始めたことがあった。
この研究は、まだ完成していない。
だからこそ。
このまま進ませてはいけない。




