第35話 ゲームの登場人物ではない
「ヴェティア様、これ見てください」
放課後。
机の上へ広げた記録を眺めていたヴェティアは、ルミエの声に顔を上げた。
「何?」
「昨日まとめたものです」
差し出された紙を受け取る。
失踪した人物について、学校で確認できたこと。事件当日に見た者の話。そして、まだ確認できていないこと。
ルミエなりに整理したらしい。
「……意外とちゃんとしてる」
「意外とは何ですか」
「あなた、こういうの苦手そうだから」
「失礼ですね」
「違うの?」
「得意とは言いませんけど」
「ほら」
「でも、昨日よりは分かるようになりました」
ルミエは少し胸を張った。
「先生にも、まとめ方を教えていただきましたし」
ヴェティアは、もう一度紙を見る。
自分とは違うまとめ方だった。
ヴェティアなら、誰から誰へ働きかけた可能性があるか。どの証言とどの金銭が繋がるか。そういう流れから整理する。
ルミエは違った。
失踪した人物が、いつ、誰と、何をしていたのか。
その人を中心に並べている。
「何か変でした?」
「いいえ」
ヴェティアは首を横へ振った。
「むしろ、私にはこういう整理はできなかったと思う」
「本当ですか?」
「ええ」
以前なら、そんなことを認めるのは少し嫌だったかもしれない。
自分の方が知っている。
自分の方が先を読める。
そう思いたかった。
けれど今は、自分に見えないものを誰かが見ていることを、少しずつ受け入れられるようになっていた。
「そこは違う」
横からロンドの声がした。
「何がですか?」
ルミエが振り返る。
「ここだ」
ロンドが紙を指す。
「事件の前にこの人物と会っていた者と、失踪後に足取りが途切れた場所へ関係する人物は、今のところ同一人物だと確認できていない」
「あ」
ルミエが紙を見る。
「すみません」
「謝る必要はない。直せばいい」
「はい」
ルミエがすぐに書き直す。
ヴェティアは、その様子を黙って見ていた。
原作のロンドなら、こんな場面はなかった。
第一王子。
攻略対象。
ヒロインを助け、悪役令嬢と対立する人物。
宮田茜がゲームをしていた頃、ロンドを表すなら、そんな言葉で十分だった。
画面の中では必要な場面に現れ、決められた台詞を話し、選んだルートによってルミエへ好意を向ける。
けれど、目の前のロンドは違う。
ルミエの間違いを普通に指摘する。
ヴェティアが隠していることにも気付いている。
それでも無理に聞き出そうとはしない。
過去を忘れず、今の行動も見る。
そうすることを、自分で決めている。
「ヴェティア?」
「……何?」
「さっきから黙っているが」
「考え事です」
「また一人で結論を出そうとしていないだろうな」
「そこまで信用がないんですか?」
「最近の実績を考えている」
「ひどい」
「否定できるのか?」
「……今後、改善します」
「今後か」
ロンドが僅かに口元を緩める。
ルミエが吹き出した。
「何よ」
「いえ」
「笑ったでしょう」
「少しだけ」
「あなたね」
何でもないやり取りだった。
事件にも、世界の命運にも何の関係もない。
原作にもない。
だからこそ、ヴェティアは妙にそれが気になった。
宮田茜が知っているゲームでは、こんな時間は必要なかった。
攻略にも、シナリオにも関係がないからだ。
けれど今、確かにここにある。
◇
その夜。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
机に向かっていたヴェティアは、アンナからカップを受け取った。
昨日、二人はあの日のことを話した。
怖かった。
今も忘れていない。
完全に大丈夫とは言えない。
それでも、昔と同じだとは思っていない。
アンナが、自分の言葉でそう言った。
「アンナ」
「はい」
「昨日のことだけど」
アンナの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
それを見て、ヴェティアは続ける言葉を変えた。
「……ありがとう」
「え?」
「話してくれて」
アンナはしばらく何も言わなかった。
「はい」
やがて、小さく答える。
それだけだった。
ヴェティアも、それ以上は言わなかった。
赦したのか。
今はどれくらい怖いのか。
自分をどう思っているのか。
全部を知る必要はない。
アンナが言いたいときに、言いたいことを言う。
それでいい。
「では、失礼いたします」
「ええ」
アンナが扉へ向かう。
「あ」
途中で振り返った。
「何?」
「明日の朝ですが、お嬢様がお好きなパンが入るそうです」
「本当?」
「はい」
「なら、少し早めに起きる」
「寝坊しないでくださいね」
「しないわよ」
アンナが僅かに笑った。
扉が閉じる。
ヴェティアは、その扉をしばらく見つめていた。
アンナ。
原作では、物語が本格的に始まる前にヴェティアから虐待を受けた使用人。
その過去が、極悪令嬢ヴェティア・ブュッフェという人間を示す材料になる。
宮田茜にとっては、それで十分だった。
でも、アンナは被害者という役を演じるために、朝食のパンを気にしているわけではない。
ヴェティアの罪を示すために、毎日働いているわけでもない。
怖かったことをどう受け止めるのか。
今のヴェティアをどう見るのか。
それを決めるのはアンナだ。
(……当たり前なのに)
どうして今まで、こんな簡単なことをちゃんと見られなかったのだろう。
◇
ヴェティアは机の引き出しから、自分がまとめていた紙を取り出した。
ルミエ。
ロンド。
レナード。
エドガー。
そして、ゲームの中で起きるはずだった出来事。
これまで原作の記憶を整理するために、何度も書き出したものだった。
誰が、どこで、何をする。
ルミエはヒロイン。
ロンドは攻略対象。
自分は悪役令嬢。
レナードとエドガーは、自分を破滅へ導く王権派。
そうやって役割を付ければ分かりやすかった。
何をする人物なのか。
どちら側なのか。
何を警戒するべきなのか。
けれど、実際には違う。
ルミエは守られているだけではなかった。
ヴェティアが知らないことに気付き、自分で考え、今度はヴェティアを支えている。
ロンドも、原作のように決められた順番でルミエへ惹かれていく人形ではない。
ヴェティアを疑い、過去を見て、今の行動を見て、そのたびに自分で判断している。
アンナにも、ヴェティアには決められない感情がある。
怖かった。
忘れていない。
それでも、今は昔と同じではない。
一見矛盾するような思いを、全部自分の中に持っている。
そして敵も同じだった。
レナードからの誘いを、自分は断った。
原作で成功したはずの工作を止めた。
すると、次に起きたことは原作とは違った。
自分が変わったから、相手も変わった。
こちらの行動を見て考え、次の手を選び直している。
それが良い選択か悪い選択かは別として、彼らもゲームの台本へ従って動いているわけではない。
(……そうか)
ヴェティアはようやく認めた。
自分はずっと、この世界を乙女ゲームの世界だと考えていた。
それが間違っているのかもしれないし、間違っていないのかもしれない。
宮田茜が遊んだゲームと、ここで起きるはずだった出来事があまりにも似ていたことは事実だ。
名前も、人物も、大きな出来事も同じだった。
なぜそんなことが起きたのか、ヴェティアには分からない。
ゲームがこの世界の未来を何らかの形で映していたのか。
それとも別の理由があるのか。
今の自分には答えを出せない。
でも、それとは別に、一つだけもう疑う必要のないことがある。
ヴェティアは自分の手を見る。
この手でアンナへ魔法を向けた。
この手でルミエを助けた。
この手でレナードからの誘いを拒んだ。
どれも、画面の向こうの出来事ではない。
自分がここでやったことだ。
痛いことも、怖いことも、嬉しいことも、全部実際に自分の身へ起きている。
(私は)
ゲームを遊んでいるのではない。
原作の主人公でも、観客でもない。
ここで生きている。
そして、ルミエも、ロンドも、アンナも、失踪したあの人も同じだった。
自分の知らないところで考え、迷い、怖がり、笑い、誰かと約束をして、明日の予定を決める。
ゲームに描かれているかどうかなど関係なく、人生がある。
「……ゲームの登場人物じゃない」
小さく声に出た。
当然のことだった。
それでも今まで、心のどこかで完全には手放せていなかった。
ルミエだから、こうする。
ロンドだから、こうなる。
レナードだから、こう動く。
エドガーなら、きっとこうする。
役割を知っているから、未来も知っている。
そんな考え方。
それは怖い未来へ備えるために便利だった。
自分が知らないものを、知らないままにしなくて済むから。
でも、もうその使い方はできない。
自分が違う選択をすれば、ルミエもロンドも、敵でさえも、その結果を受けて新しい選択をする。
未来は、最初から決まった台詞を読むようには続いていかない。
ヴェティアは机の上の紙を、ゆっくり畳んだ。
捨てはしない。
原作の記憶は、今後も役に立つかもしれない。
どんな未来が起こり得たのか。
どんな手口が使われたのか。
誰がどんな考えを持っていたのか。
参考にはできる。
けれど、答えにはしない。
未来そのものだとも思わない。
原作のルミエではなく、今ここにいるルミエを見る。
攻略対象のロンドではなく、今ここで自分を見て判断しているロンドを見る。
被害者という役割ではなく、アンナ自身の言葉を聞く。
敵についても、原作で何をしたかだけではなく、今何をしているのかを確かめる。
それしかない。
(私は)
乙女ゲームの世界で原作を変えている。
少なくとも、もうそれだけではない。
自分が生きているこの場所で、他の人たちと、まだ決まっていない先を選んでいる。
怖さは消えなかった。
未来が分からないことは、やはり怖い。
それでも、以前とは違う。
分からない未来へ、一人で立っているわけではないことを、もう知っている。
ヴェティアは畳んだ紙を机の端へ置いた。
原作は消えたわけではない。
ただ、未来ではなくなった。
そして、ここで生きている人たちは。
誰一人、ゲームの登場人物ではなかった。




