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極悪令嬢だった私ですが、自分で作った罪は自分で刈り取ります  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 攻略本のない未来

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第34話 忘れていません

「お嬢様」


 翌日の夜。


 机に向かっていたヴェティアは、背後から呼ばれて顔を上げた。


「何?」


 アンナが扉の近くに立っている。


 いつもなら、用事を終えれば必要以上に部屋へ残ることはない。


 けれど今日は、何かを言おうとして、まだ決めかねているように見えた。


「……少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


「もちろん」


 ヴェティアは手にしていた紙を置いた。


「座る?」


「いえ」


「そう」


 無理に勧めない。


 それも、いつの間にか身についたことだった。


 昔の自分なら、なぜ座らないのかと理由を求めたかもしれない。


 アンナは少し迷ったあと、静かに口を開いた。


「昨日から、お嬢様のご様子が気になっていました」


「私?」


「はい」


「そんなに変だった?」


「……少し」


 言われて、ヴェティアは視線を落とす。


 昨日、失踪した人物のことを考えながら、また同じところへ戻りかけていた。


 自分が未来を変えたから、原作にない事件が起きたのではないか。


 誰かが傷つき、誰かが消えたのは、自分が違う選択をしたからではないか。


 そんなことを考えていた。


「アンナ」


「はい」


「心配しなくても大丈夫よ」


 口にしてから、自分でもあまり説得力がないと思った。


 アンナも、すぐには答えなかった。


「お嬢様」


「何?」


「私、ずっと一度お話ししなければならないと思っていたことがあります」


 ヴェティアの胸が僅かにざわつく。


「何を?」


 アンナはヴェティアを見る。


 その目には、いつもの遠慮とは少し違うものがあった。


「あの日のことです」


 呼吸が止まりかけた。


 何の日か、聞く必要などなかった。


 ティーカップ。


 こぼれた紅茶。


 苛立ち。


 自分が向けた魔法。


 そして、制御を失った四つの属性。


「……分かった」


 ヴェティアは言った。


「聞くわ」


 アンナはすぐには続けなかった。


 それでも、ヴェティアは待った。


「私」


 やがてアンナが言う。


「あの日、本当に怖かったんです」


「……うん」


「魔法を向けられた瞬間も、その後、何が起きたのかも。痛かったことも、怖かったことも」


 アンナは一度、息を整えた。


「今でも覚えています」


 ヴェティアは何も言わなかった。


 忘れてほしい。


 そんなこと、言えるはずがない。


「お嬢様は、すぐに謝ってくださいました」


 アンナが続ける。


「治療のことも。休ませていただいたことも。ご両親や王家の方へ隠さなかったことも、知っています」


「……ええ」


「でも」


 その言葉に、ヴェティアの指先が少しだけ強張った。


「だから、すぐに大丈夫になったわけではありません」


「分かってる」


 答えたあと、アンナが僅かに目を伏せる。


 ヴェティアは言い直した。


「……分かっているつもりだった」


 本当に分かっていたのだろうか。


 謝った。


 治療した。


 補償した。


 隠さなかった。


 できることはした。


 でもその後、アンナが何を感じながら自分のそばで働いていたのか、全部を知っていたわけではない。


「最初の頃は」


 アンナは言う。


「お嬢様が近くへ来るだけで、少し緊張しました」


 胸の奥が痛む。


「魔法を使われると」


 アンナは、そこで言葉を止めた。


 ヴェティアには続きを想像することができた。


「怖かった?」


「……はい」


 小さな返事。


 それだけで十分だった。


「今も?」


 尋ねてから、聞くべきではなかったかもしれないと思う。


 けれど、アンナは逃げなかった。


「今でも」


 少し考えて答える。


「まったく何も思わない、と言ったら嘘になります」


「……そう」


「申し訳ありません」


「謝らないで」


 ヴェティアは、思ったより強く言った。


 アンナが顔を上げる。


「それは」


 一度、言葉を探す。


「あなたが謝ることじゃない」


 魔法を向けたのは自分だ。


 怖がらせたのも、傷つけたのも自分。


 被害を受けた側がまだ怖いと感じることまで、こちらの都合で間違いにしてはいけない。


「……はい」


 アンナが小さく頷く。


 沈黙が落ちた。


 ヴェティアは続きを促さなかった。


 ここで、もう大丈夫なのか。


 赦してくれたのか。


 そんなことを聞くつもりもなかった。


 アンナが何を言うか。


 それはアンナ自身が決めることだ。


「でも」


 しばらくして、アンナが再び口を開いた。


「それだけでもありません」


 ヴェティアは目を上げる。


「私は」


 アンナは一つずつ、確かめるように言った。


「お嬢様が、あの日のことから逃げなかったことも知っています」


「……」


「私へ謝って。それで終わりにしなかったことも」


「終わりになんて」


「はい」


 アンナが頷く。


「だからです」


 ヴェティアは黙る。


「私がすぐに大丈夫だと言えなくても、何度も『赦して』とは仰いませんでした」


「そんなこと」


 言えるはずがない。


 自分が楽になるために、被害を受けた相手へ赦しを求め続けるなど。


「それから」


 アンナの視線が、少しだけ柔らかくなる。


「使用人への接し方も変わりました」


「……」


「最初は」


 そこまで言って、アンナは少し困ったような顔をした。


「いつまで続くのだろうと思っていました」


「そうでしょうね」


 ヴェティアは苦笑した。


「急に態度が変わったもの」


「はい」


「そこは否定しないのね」


「……申し訳ありません」


「だから謝らなくていいって」


 ほんの少しだけ、空気が緩む。


 けれどアンナは、すぐに表情を戻した。


「でも、続きました」


 ヴェティアは何も言えなかった。


「機嫌が悪い日も」


「……あるわね」


「あります」


「そこは少し濁してくれてもいいのよ」


「嘘はよくないと思います」


「そうね」


 自分でも、少しだけ笑ってしまった。


「苛立っていても」


 アンナは続ける。


「以前のように、人へぶつけないようにしているのも見ています」


「全部できてるわけじゃないけど」


「はい」


「……そこも否定しないのね」


「お嬢様が完璧だとは申し上げられませんので」


 思わずヴェティアはアンナを見る。


 以前なら、こんなことをアンナが自分へ言っただろうか。


 怖いと思っている相手へ、わざわざ完璧ではないなどと言えるだろうか。


 アンナ自身もそれに気付いたのか、少しだけ視線を逸らした。


「……失礼しました」


「いいわ」


 ヴェティアは答えた。


「その方がいい」


「え?」


「思ったことを言って」


「……はい」


 すぐに何でも、とは言わない。


 アンナにそこまで求める資格もない。


 それでも今、言ってくれたことは、そのまま受け取りたかった。


「ですから」


 アンナは少し迷ったあと、ヴェティアを見た。


「私は、忘れていません」


 はっきりした声だった。


 胸が締めつけられる。


「はい」


 ヴェティアは答えた。


「忘れていないです」


 アンナは繰り返す。


「怖かったことも。傷ついたことも」


「うん」


「だから」


 一度、言葉が止まる。


「『もう全部大丈夫です』とは、まだ言えません」


「言わなくていい」


 ヴェティアは、すぐに答えた。


 アンナが目を見開く。


「言わなくていいわ」


 もう一度言う。


「私が聞きたいからって、そんなこと言わなくていい」


「……はい」


「赦してとも言わない」


 その言葉を口にするのは、少し怖かった。


 本当はどこかで、いつか赦されたらと思っている自分がいないわけではない。


 でも、それをアンナに背負わせてはいけない。


「あなたが」


 ヴェティアは続ける。


「どう感じるかは、あなたが決めていい」


 アンナは少し長く、ヴェティアを見ていた。


「……ありがとうございます」


「お礼を言われることでもないけど」


「それでも」


 アンナは言う。


「今は、昔と同じだとは思っていません」


 ヴェティアの呼吸が止まる。


 続けて聞きたくなる。


 どういう意味?


 どのくらい?


 もう怖くない?


 少しは信じてくれている?


 いくつも言葉が浮かぶ。


 けれど全部、飲み込んだ。


「……そう」


 それだけ答えた。


「はい」


 アンナも、それ以上は言わなかった。


 それで十分だった。


 ◇


 アンナが部屋を出たあと、ヴェティアはしばらく動けなかった。


 忘れていない。


 怖かった。


 今でも完全に何とも思わないわけではない。


 その言葉は痛かった。


 当然だった。


 けれど、それだけではなかった。


『お嬢様が、あの日のことから逃げなかったことも知っています』


『今は、昔と同じだとは思っていません』


 その言葉も、同じようにアンナのものだった。


 どちらかだけを、自分の都合で選ぶことはできない。


 傷つけた過去だけを見て、アンナは永遠に自分を恐れるはずだと決めることも。


 今の行動を見てもらえたから、もう大丈夫だと決めることも。


 どちらも、アンナを見ていない。


 自分の罪をどう評価するかばかり考えている。


 ヴェティアにとって、アンナはずっと、自分が傷つけた人だった。


 自分の罪を忘れてはいけないと、見るたびに思い出す相手だった。


 それは間違ってはいない。


 実際に傷つけたのだから。


 でも、アンナはヴェティアの罪を証明するために、ここにいるわけではない。


 傷つけられた日だけが、アンナの人生でもない。


 怖かったことを覚えながら、それでも働き、人を見て、考えて、自分で今のヴェティアを判断している。


(私は……)


 また、役割へ押し込めていたのかもしれない。


 被害者。


 償わなければならない相手。


 自分の罪を忘れないための存在。


 そのどれも、アンナの一部分ではある。


 でも、アンナそのものではない。


 失踪したあの人もそうだった。


 事件へ関係しているかもしれない人物。


 逃げたかもしれない人物。


 巻き込まれたかもしれない人物。


 そういう言葉で、その人全部を分かったつもりになりかけた。


 原作には出てこない。


 だから物語の中では、名前も暮らしも描かれていなかった。


 けれど、今ここにいる人たちは、自分が知っている役割だけでできているわけではない。


 ヴェティアは机の上へ置いた紙を見る。


 そこには、失踪した一人の人間について、今分かっていることが書かれていた。


 明日の予定。


 交わした言葉。


 人との繋がり。


 ゲームなら、必要のない情報だったかもしれない。


 けれど今は、どれもその人が生きていた証拠だった。


 ヴェティアは静かに紙へ手を置いた。


 原作では、誰がどんな役だったか。


 それだけで、目の前の人間を見てはいけない。


 そのことが、ようやく少しだけ分かり始めていた。

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