第24話 最初の違和感
「最近、セルメールさんは授業をよく休んでいるそうですね」
その言葉を聞いたとき、ヴェティアは手にしていた本から顔を上げた。
昼休みの教室。
少し離れたところで、数人の生徒が話している。
「聖女見習いになってからでしょう?」
「教会から呼ばれることが増えたらしいわ」
「それで普通に授業を休めるの?」
「さあ。特別扱いなんじゃない?」
ひそひそ声ではある。
けれど、聞かれたら困るというほど小さな声でもなかった。
ヴェティアは眉を寄せる。
ルミエが授業を離れることが増えた。そこまでは事実だ。
聖女見習いとなってから、教会関係者との面会やミュゲからの指導が入ることがある。
ただし、勝手に教室から抜け出しているわけではない。学校側へ話を通した上でのことだ。
(……だからといって)
特別扱い。
そう受け取る人間が出ること自体は、不思議ではなかった。
他の生徒なら授業へ出なければならない時間に、ルミエだけが教会から呼ばれて席を外す。事情を知らない者からすれば、面白くないと感じることもあるだろう。
それだけなら、ただの噂だ。
ヴェティアは本へ視線を戻した。
「それだけじゃないらしいわよ」
続いた声に、また指が止まる。
「光魔法の成績も、実際より高くつけてもらってるって」
「本当?」
「大聖女様の弟子だから、教師も悪い評価をつけにくいんじゃない?」
「でも、セルメールさんって元々成績は悪くないでしょう?」
「光魔法は別じゃない? 普通の魔法と違うし」
今度は少し引っかかった。
ルミエの光魔法は、決して完成されたものではない。
ミュゲの前で失敗したこともある。本人も、それを隠していない。むしろ、上手くできないことがあるから学んでいる。
それを、大聖女の弟子だから高く評価されているという話へ変えることはできる。
真実を少しだけ違う方向から見せれば、嘘に見えない形で。
「それから、教会からお金も出ているらしいわ」
「お金?」
「平民だから、いろいろ支援してもらってるんでしょう?」
「それって公平なの?」
ヴェティアは、ゆっくり本を閉じた。
三つ目。
授業。
成績。
金銭。
一つなら、ただの噂。
二つでも、偶然かもしれない。
けれど三つ並ぶと、先日聞いた言葉を思い出さずにはいられなかった。
『能力は、本当に現在の評価に見合っているのか』
『学校での素行に問題はないのか』
『平民である彼女に対して行われている支援は、正当なものなのか』
レナード・ヴァルモン侯爵。
(……早すぎる)
ヴェティアは唇を引き結んだ。
あの男に会い、協力を拒んだ。その直後に、彼が口にしたものとよく似た噂が学校で流れ始めた。
疑うには十分だ。
けれど。
(駄目)
そこで考えるのを止める。
原作でも王権派が動いた。レナードも、その実務を担っていた者たちも知っている。
だからといって、今起きていることまで同じ人間がやったと決めつけていいわけではない。
自分は、それをしないと決めたばかりだ。
(まず、今あるものを見る)
誰が悪いかではなく、本当に何が起きているのか。
そこからだ。
◇
「私、何かしてしまったのでしょうか」
放課後。
ルミエは本気で困っていた。
「どうしてそうなるのよ」
「だって」
机の上へ鞄を置いたまま、ルミエが肩を落とす。
「今日、知らない方から『聖女見習いになったからといって、授業を軽く見てはいけませんよ』と言われました」
「誰に?」
「上の学年の方です。お名前までは……」
「他には?」
「『支援を受けるなら、それに相応しい振る舞いを』とも」
「それは同じ人?」
「違う方です」
ヴェティアは顔をしかめた。
本人の耳にまで入り始めている。
「心当たりは?」
「授業を抜けることならあります」
「学校へ話は通しているでしょう」
「はい。でも……皆さんは普通に授業へ出ているのに、私だけ抜けることがありますから」
ルミエは膝の上で指を組んだ。
「やっぱり、よくないのでしょうか」
「あなたが勝手に抜けているならね」
「してません!」
「なら、そこは今悩まなくていい」
「でも」
「事実を確認してから悩みなさい」
ルミエが目を丸くした。
「……ヴェティア様がそれを言うんですね」
「何よ」
「いえ」
少しだけ、ルミエが笑う。
「最近、先生みたいなことを言うなと思って」
「誰がよ」
「ミュゲ先生です」
「やめて」
反射的に返してから、ヴェティアは小さくため息をついた。
確かに、以前ならもっと早く結論を出していたかもしれない。
悪口を言われた。なら、言った人間が悪い。
気に入らない。なら、罰を受ければいい。
そうやって、自分の感情と事実を一緒にしていた。
「とにかく」
ヴェティアはルミエを見る。
「あなた自身が何をしたのか、確認しましょう」
「何を、ですか?」
「授業を休んだ日。教会から受けている支援。成績についても、確認できるところから」
「そこまでしなくても……」
「しないと、あなたもずっと『私が何か悪いことをしたのかも』って悩むでしょう?」
「……はい」
「だったら調べる」
ヴェティアが立ち上がると、ルミエも慌てて鞄を持った。
「私も行きます」
「あなたのことなのだから当然でしょう」
「そうですけど」
「何?」
「ヴェティア様が全部やってくださるのかと思いました」
「何でよ」
「何となく……」
「自分のことまで人任せにしないの」
「はい」
素直に返事をして、ルミエはヴェティアの隣へ並んだ。
以前なら、「守る」という言葉をもっと簡単に使っていたかもしれない。
自分が全部やる。
自分が何とかする。
それが正しいのだと。
けれど、これはルミエ自身に関わることだ。本人を置いて進める理由はなかった。
◇
確認できたことは、最初から大きなものではなかった。
教会から何らかの金銭を不当に受け取っている。その噂については、少なくとも学校で即座に確認できるような事実はなかった。
魔法実技の評価についても、教師からは、
「現時点で特別な扱いをした事実はない」
という答えだった。
ルミエが光魔法を使えることと、その技量をどう評価するかは別。
できたことは評価し、できなかったことはそのまま記録しているという。
「ほら」
教師の説明を聞いたあと、廊下へ出たところでヴェティアは言った。
「今のところ、あなたが何か不正をしたという話は出ていないわ」
「……少し安心しました」
「少し?」
「全部分かったわけではないので」
「それくらいでいいわ」
安心しきるには早い。
けれど、必要以上に自分を疑う必要もない。
残ったのは、授業の欠席だった。
ルミエ本人の記録なら確認できるということで、二人は担当の教師へ事情を話した。
「最近、妙な話が出ていることはこちらでも把握しています」
教師は困ったように眉を寄せた。
「セルメールさんが授業を軽視している、という内容ですね」
「はい」
ルミエが頷く。
「私は、教会から呼ばれたときも、必ず先生へ確認しているつもりなのですが……」
「それはこちらでも承知しています」
教師は手元の記録へ目を落とした。
「教会からの要請で授業を離れる場合には、事前に連絡が来ています。勝手に休んだということにはなりません」
「では」
ルミエの顔が少し明るくなる。
ヴェティアもひとまず息を吐こうとして――止まった。
「先生」
「はい?」
「その記録」
机の上に開かれたものを指す。
「少し見せていただいても?」
教師は一瞬迷い、ルミエ本人を見る。
「セルメールさんの記録ですから、本人がよろしければ」
「私は構いません」
ルミエが答える。
ヴェティアは教師から示された箇所へ視線を落とした。
授業日。
出欠。
必要な場合の簡単な備考。
そこへ、いくつか欠席として記された日があった。
「……これ」
「何か?」
ヴェティアは一つの日付を示した。
「この日。ルミエさんは授業の途中で教会の方に呼ばれましたよね」
「はい」
ルミエも記憶を辿る。
「あの日なら、途中までは授業に出ていました」
「私もいたわ」
覚えている。
教師が教室へ来て、教会から連絡が入ったことを伝えた。ルミエは教師の許可を得て、途中で教室を出た。
少なくとも、最初から欠席していたわけではない。
「ですが」
ヴェティアは記録を見る。
「ここには、欠席としか書かれていません」
教師の表情が変わった。
「……おかしいですね」
「本来は?」
「少なくとも、理由が分かる形にはしているはずです」
教師が別の記録を確認する。
その横顔から、先ほどまでの軽い困惑が消えていた。
「こちらには、教会から連絡を受けたことが残っています」
「では」
ルミエが小さく口を開く。
「授業を抜けた理由は、学校も知っていたんですよね?」
「ええ」
教師は頷いた。
「しかも、あなたは途中まで授業に参加しています」
ルミエの記録。
学校へ届いた連絡。
そして、ヴェティア自身が見た光景。
三つを並べる。
同じ日の話なのに、少しだけ噛み合っていない。
「単純な記入の間違いという可能性もあります」
教師が言う。
「ですから、現時点で何か意図があったとは言えません」
「はい」
ヴェティアはすぐに頷いた。
それでいい。
今は、それ以上のことを決める必要はない。
ただ。
「他の日も、確認していただけますか?」
「もちろんです」
教師は再び記録へ目を落とした。
ルミエがそっとヴェティアを見る。
「ヴェティア様」
「何?」
「……ありがとうございます」
「まだ何もしてないわよ」
「でも」
ルミエは少し迷ってから続けた。
「私一人だったら、『私が勘違いしていたのかな』って思って終わっていたかもしれません」
ヴェティアは答えなかった。
それは、昔の自分なら利用したかもしれない弱さだった。
真面目で、自分にも落ち度がなかったか先に考える。
だから、ほんの少しだけ事実をずらせば、ルミエ本人まで「自分が悪かったのかもしれない」と思い込む。
(……似ている)
胸の奥に、嫌な既視感が広がった。
原作で見たやり方と、よく似ている。
けれど、ヴェティアはそこで名前を決めなかった。
レナード。
王権派。
原作で動いていた者たち。
浮かぶ名前はいくつもある。
それでも、今、自分の前にあるのは一つの不自然な記録だけだ。
なら、見るべきなのは記憶の中の未来ではない。
この記録が、なぜこうなっているのか。
そこからだった。
ヴェティアはもう一度、欠席とだけ書かれた一行を見る。
噂ではない。
少なくとも一つ、現実に食い違っているものがある。
「先生」
ヴェティアは顔を上げた。
「この記録が、いつ、どこでこうなったのか」
静かに言う。
「確認したいです」




