第23話 私は、あなたたちとは違う
「だからこそ」
レナード・ヴァルモン侯爵は言った。
「今のうちに、手を打つ必要があります」
先ほどまでと変わらない、穏やかな声だった。
ヴェティアは返事をせず、続きを待つ。
教会の影響力が強くなりすぎることへの懸念。聖女と王家が結びついた場合に生じる政治的な問題。
そこまでは、ヴェティアにも理解できた。
では、その問題に対して、この男は何をするつもりなのか。
「誤解なさらないでいただきたいのですが」
レナードはそう前置きした。
「私は、セルメール嬢を学校から追い出せなどと申し上げるつもりはありません」
「そうですか」
「まして、彼女が光魔法を扱えることまで否定するつもりもない」
当然だ。
実際に使えるものを、使えないことにはできない。
「ただ」
レナードは指を組んだ。
「現在のセルメール嬢への評価は、少々急激に高まりすぎているように思います」
「高まりすぎている?」
「大聖女ミュゲ様が弟子に迎えられた。教会が聖女見習いとして認めた。それだけで、彼女のすべてが優れているかのように扱う者まで出始めています」
ヴェティアは何も言わなかった。
確かに、学校でも似た空気は感じていた。
ルミエが聖女見習いになった途端、以前なら気にも留めなかった生徒まで、彼女を特別な目で見るようになった。
「だから、一度冷静に見直す必要があると?」
「その通りです」
レナードは頷く。
「能力は、本当に現在の評価に見合っているのか」
一つ。
「学校での素行に問題はないのか」
二つ。
「平民である彼女に対して行われている支援は、正当なものなのか」
三つ。
「そして、聖女見習いとして相応しい人物なのか」
四つ。
並べられた言葉だけを聞けば、それほどおかしな話には聞こえない。
誰かを重要な立場へ置くなら、その人物について確認する。それ自体は間違っていない。
けれど、ヴェティアの胸の奥に嫌なものが引っかかった。
「その確認は」
ヴェティアは尋ねた。
「誰が行うのですか?」
「必要な者たちが、それぞれに」
「必要な者たち?」
「学校であれば教師。支援についてなら、その出所を知る者。聖女見習いとしての適格性なら、当然教会にも判断材料が必要でしょう」
「教会はすでに認めています」
「ええ。だからこそ、その判断が適切だったのかを外から見る者も必要です」
理屈は通っている。
けれど、何かが違う。
ヴェティアは、目の前の男の言葉を一つずつ拾った。
「もし調べた結果」
ゆっくりと言う。
「ルミエさんに何の問題もなかった場合は?」
「それなら、それに越したことはありません」
レナードは微笑んだ。
「では、問題が見つからない場合は、そのまま認めるのですね?」
「もちろんです」
「本当に?」
ヴェティアが重ねて尋ねると、ほんの一瞬、レナードの笑みが薄くなった。
「随分と慎重でいらっしゃいますね」
「人一人の評価を見直そうという話なのでしょう? 慎重になるのは当然ではありませんか?」
「おっしゃる通りです」
また、綺麗に返された。
けれど、ヴェティアには分かり始めていた。
この会話を、知っている。
まったく同じ言葉ではない。けれど、原作で自分は似た話を聞いた。
ルミエが聖女に相応しいのか。王子のそばにいる人物として相応しいのか。本当に清廉な少女なのか。
それを確かめるだけ。
最初は、そんな話だった。
そして、いつの間にか、
「問題がないか調べる」
ではなく、
「問題があるように見せる」
へ変わっていった。
いや、違う。
変わったのではない。
最初から、目的はそちらだった。
当時のヴェティアは、それを分かった上で受け入れた。
むしろ、喜んだ。
(……そうだった)
自分より評価されるルミエが嫌だった。
平民のくせに、ロンドの近くにいる。光魔法を持っている。周囲から褒められる。
それだけで腹が立った。
だから、彼女に欠点があるのなら嬉しかった。なければ、作ればいいとさえ考えた。
レナードは、それを知っている。
今のヴェティア本人がまだしていないことではある。けれど、この世界でこれまで生きてきたヴェティア・ブュッフェの性格を、この男は知っているのだ。
「侯爵」
「はい」
「一つ確認してもよろしいですか?」
「もちろん」
「あなたは、ルミエさんについて公平に調べたいのですか?」
レナードは答えなかった。
ヴェティアは続ける。
「それとも」
目を逸らさない。
「彼女の評価を下げる材料が欲しいのですか?」
室内が静かになった。
窓の外から、遠く馬車の音が聞こえる。
レナードはしばらくヴェティアを見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「以前のあなたなら」
答えの代わりに、そんなことを言った。
「その違いを、これほど気になさらなかったでしょうね」
胸の奥を針で刺されたような気がした。
「……そうかもしれません」
ヴェティアは否定しなかった。
「やはり」
「ですが」
すぐに続ける。
「今のお話とは関係ありません」
レナードの眉が、わずかに動いた。
「私が以前どんな人間だったかと、あなたが今、何をしようとしているのかは別です」
「なるほど」
レナードは背もたれへ身体を預けた。
「随分とお変わりになった」
「そう見えますか?」
「ええ」
その言葉に、褒める響きはなかった。むしろ、興味深いものを観察しているようだった。
「セルメール嬢と親しくなった影響でしょうか」
「それだけではありません」
「では、大聖女ミュゲ様の影響?」
「それもあると思います」
ヴェティアは答える。
「ですが、誰かに言われたから、こうしているわけではありません」
「そうですか」
レナードは茶へ手を伸ばした。
「少し残念です」
「何がです?」
「私はてっきり、あなたなら理解してくださるものと思っていました」
ヴェティアの胸がざわつく。
「第一王子殿下の婚約者であるあなたなら」
ロンド。
その名前を直接出されなくても、分かった。
「セルメール嬢がこれ以上、大きな立場を得ることを歓迎できない理由もあるでしょう」
「……」
「彼女は殿下と同じ学校にいる」
レナードは、あくまで穏やかだった。
「今後、聖女として名を上げれば、王家との接点も増えるでしょう」
「それで?」
「あなたは何もお感じになりませんか?」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
腹が立った。
勝手に決めつけられたことへ。昔の自分なら同じことを考えるはずだと見透かされたことへ。
そして、ほんのわずかに、それだけではないものもあった。
ルミエとロンド。
二人が並ぶ未来。
原作で知っている光景。
(……嫌じゃない、と言えば嘘になる)
婚約者なのだ。
ロンドが他の女性を選ぶ未来を思い浮かべて、何も感じないわけではない。
怖い。
今でも、自分がロンドから見放される未来を完全に平気だとは思えない。
だからこそ、以前の自分は、その感情を理由にしてルミエを傷つけた。
『これからも、腹を立てることはあると思います』
自分がミュゲへ言った言葉を思い出す。
『誰かを嫌いになることも。妬むことも。自分が正しいと言いたくなることもあると思います』
感情が消えるわけではない。
聖人になるわけでもない。
大切なのは、その後だ。
その感情を持った自分が、何をするのか。
「……感じますよ」
ヴェティアは答えた。
レナードが少し意外そうに見る。
「ロンド殿下は、私の婚約者です」
「ええ」
「ですから、もし殿下が他の女性を好きになったら、私はきっと傷つくでしょうね」
「でしたら」
「それと」
ヴェティアは遮った。
「ルミエさんを陥れてよいかどうかは、別の話です」
レナードが黙る。
「私は嫉妬するかもしれません」
自分でも、口にするのは少し怖かった。
「腹を立てるかもしれない。ルミエさんを嫌いになってしまう日だって、絶対にないとは言えません」
未来の自分など、分からない。
「ですが」
だからこそ。
「その時に私が苦しいことと、何もしていない人を傷つけていいことは、同じではありません」
自分へ言い聞かせるように、ヴェティアは言った。
レナードの表情から、少しずつ笑みが消えていく。
「私は、まだ具体的に何かをしろとは申し上げておりません」
「そうですね」
「公正に評価する必要があると申し上げただけです」
「では」
ヴェティアは問い返した。
「私に何をしてほしいのですか?」
「……」
「公正に調べるだけなら、私へ協力を求める必要がありますか?」
レナードの指が止まる。
「学校には教師がいる。教会には、ルミエさんを聖女見習いとして認めた人たちがいる。必要なら正式な手順で検証を求めればいい」
「内部だけで判断していては――」
「それなら外部から正式に確認すればよいでしょう」
ヴェティアは続ける。
「なのに、あなたは私を呼んだ」
第一王子の婚約者。
ルミエと同じ学校。
そして、以前なら誰よりルミエを嫌っていても不思議ではない女。
「私なら」
ヴェティアは静かに言う。
「ルミエさんの悪いところを探すと思ったからではありませんか?」
レナードは答えなかった。
それが、今のヴェティアには十分な答えだった。
「公正な検証が必要だというお話なら、私は反対しません」
立場が大きくなれば、責任も、確認されることも増える。それ自体は仕方がない。
「ですが」
ヴェティアは、まっすぐレナードを見る。
「最初から評価を下げることを目的に材料を探すのであれば」
そこで、一度だけ息を吸った。
原作では、この人たちと自分は同じ側だった。
同じ少女を敵と見て、同じ目的で動いた。
けれど、今は。
「私は協力いたしません」
はっきりと言った。
レナードの目が細くなる。
「……よろしいのですか?」
「はい」
「今後、セルメール嬢と殿下の距離が近づいたとしても?」
胸が少し痛んだ。
けれど。
「その時は、その時です」
「随分と物分かりがよろしい」
「そんなことはありません」
ヴェティアは少しだけ眉を寄せた。
「嫌なら嫌だと言うでしょうし、怒るかもしれません」
「では」
「でも、それは私と殿下の問題です」
ルミエを陥れる理由にはならない。
ロンドの気持ちを、ルミエの人生を、自分が勝手に決めることもできない。
「教会の力が強くなりすぎることを警戒する。それについて議論することは必要なのでしょう」
ヴェティアは言う。
「ですが、そのために一人の少女の評価を意図的に落とすことまで正しいとは思いません」
「国家の安定より、一人の少女を優先すると?」
「そういう話へすり替えないでください」
少し、声が強くなった。
腹が立つ。
やはり、自分は変わったからといって穏やかな人間になったわけではない。
けれど、それでいい。
怒ったままでも、選ぶことはできる。
「本当に国家に危険があるのなら、その危険について議論すればいい」
ヴェティアは言った。
「まだ何もしていないルミエさんを、危険になるかもしれないという理由だけで陥れる必要はありません」
レナードは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「なるほど」
「何でしょう」
「いえ」
レナードは首を横へ振る。
「本当に変わられたのだと思いまして」
「……」
「もっとも」
その目には、まだどこか確信めいたものが残っていた。
「人というものは、そう簡単には変わらないとも思っております」
ヴェティアの胸へ、古い傷を触られたような痛みが走った。
「今はセルメール嬢を友人と呼べる。今は殿下との関係にも余裕を持っていられる」
レナードは静かに続ける。
「ですが、本当に大切なものを奪われそうになったときにも、同じことが言えるでしょうか」
「……分かりません」
ヴェティアは正直に答えた。
未来の自分が絶対に間違えないなどと、もう言えなかった。
「ですが」
手を握る。
「その時は、その時の私が考えます」
原作ではこうだったから。
前の自分ならこうしたから。
そんな理由ではなく。
「今の私は」
ヴェティアは、ゆっくりと言った。
「あなたたちと同じ側には立ちません」
レナードの表情が、初めて僅かに動いた。
「原作では」
そこまで心の中で浮かび、口にはしない。
彼に説明する必要はない。
過去世も、ゲームも、未来も。
これは、それらとは別の話だ。
「私は」
言い直す。
「何もしていない人を陥れるために、あなた方へ協力するつもりはありません」
今ここにいる、ヴェティア・ブュッフェとして。
そう決めた。
レナードは長く息を吐いた。
「残念です」
「そうですか」
「ええ」
けれど、怒鳴ることも脅すこともなかった。
ただ、いつもの穏やかな顔へ戻る。
「本日のところは、これ以上申し上げることもありません」
「では、失礼いたします」
ヴェティアは立ち上がった。
「ブュッフェ公爵令嬢」
扉へ向かう前に呼び止められる。
振り返る。
レナードは椅子に座ったままだった。
「後悔なさいますよ」
静かな言葉。
ヴェティアは少しだけ考えた。
「するかもしれません」
「……」
「選んだことを後悔することくらい、これからもあると思います」
失敗しない人間になるつもりはない。
そんなものには、なれない。
「ですが」
ヴェティアは扉へ手をかける。
「後悔したくないから、他人を傷つけておくという生き方は」
一度だけ、レナードを見る。
「もう、やめます」
応接室を出る。
扉が閉じた。
廊下へ出た瞬間、ようやくヴェティアは大きく息を吐いた。
手のひらには、少し汗をかいていた。
怖くなかったわけではない。
王権派。
原作で、自分が属した側。
その中心人物へ、初めてはっきりと拒絶した。
未来を知っているからではない。
破滅したくないからだけでもない。
レナードの話を聞いた。理解できるところもあった。
それでも、その先にあるものを、自分は選びたくないと思った。
だから、断った。
それだけだった。
ヴェティアは一度だけ振り返る。
閉ざされた扉の向こうに、もう自分の居場所はない。
そして、戻るつもりもなかった。




