第22話 王権派
レナード・ヴァルモン侯爵との面会は、数日後に行われることになった。
ヴェティアが訪れたのは、王都にあるヴァルモン侯爵家の屋敷だった。
突然呼び出されたわけではない。正式な手順を踏み、ブュッフェ公爵家を通して日時が決められた面会だ。
だからこそ、余計に不気味だった。
(原作でも、最初から露骨な悪人ではなかったのよね)
案内された応接室で待ちながら、ヴェティアは膝の上で指を組む。
原作のレナード・ヴァルモン侯爵は、王権派の中心人物だった。
王家の権威を守り、教会が政治へ影響力を持つことを防ぐ。そのためなら、裏で手を回すことも、人を陥れることも、必要な犠牲として受け入れる。
そして、鮮血姫となるヴェティアは、そんな彼らと手を組んだ。
理由は単純だった。
ルミエが邪魔だったから。ロンドを奪われるのが嫌だったから。
そこへ、
「彼女は王家にとっても危険な存在になり得る」
という理屈を与えられ、自分の嫉妬を正当化した。
(……気をつけないと)
原作を知っている。だから、相手が何を言うのかも、ある程度は分かる。
けれど、先日、自分で決めたばかりだ。
原作で何をした人間なのか。それだけで、今目の前にいる相手まで決めつけない。
今のレナードが何を考え、何を言うのか。まずは聞く。
その上で、自分で判断する。
やがて、扉が開いた。
「お待たせいたしました、ブュッフェ公爵令嬢」
入ってきた男性を見て、ヴェティアは記憶の中の人物と重ね合わせた。
レナード・ヴァルモン侯爵。
落ち着いた身なりに、派手さのない服装。声にも態度にも、威圧するようなものはない。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。ヴァルモン侯爵」
「どうぞ、お掛けください」
二人は向かい合って座った。
茶が用意され、必要な給仕を終えると、使用人が静かに下がる。
レナードはすぐに本題へ入らなかった。
「学校生活はいかがですか」
「問題なく過ごしております」
「大聖女ミュゲ様が学校へいらしていると聞きました」
「はい」
「そして、あなたも弟子になられたとか」
ヴェティアの指先が、わずかに止まる。
もう伝わっている。
けれど、驚くほどのことではない。ルミエの件ほどではなくとも、公爵令嬢が大聖女の弟子になったという話だ。貴族の間へ広がっていても不思議ではない。
「よくご存じですね」
「職業柄、と申し上げるべきでしょうか。王都で何が起きているのかには、多少耳を傾けております」
「そうですか」
「もっとも」
レナードは薄く笑う。
「セルメール嬢ほど話題になっているわけではありませんが」
来た。
ヴェティアは顔には出さなかった。
「ルミエさんが?」
「ええ」
「聖女見習いになったからですか?」
「それも理由の一つです」
レナードは茶へ口をつけ、それから少し考えるように間を置いた。
「ブュッフェ公爵令嬢は、現在の教会をどのようにご覧になっていますか」
「随分と大きな質問ですね」
「失礼しました」
「いえ」
ヴェティアは少し考える。下手なことを言うつもりはない。
「多くの人から信頼されている組織だと思っています」
「私もそう思います」
予想していなかった返答に、ヴェティアは目を瞬く。
「意外ですか?」
「……少し」
「私が教会を敵視しているとお考えでしたか?」
「そこまでは申しません」
「お気遣いありがとうございます」
レナードは気を悪くした様子もなく笑った。
「ですが、そのように見られることがあるのも事実でしょう」
そこで表情を少しだけ引き締める。
「私も、教会が果たしてきた役割を否定するつもりはありません」
魔王が倒されてから、およそ三十年。
その名を知らぬ者はいないと言ってよいほど、大聖女ミュゲは広く知られている。人々を守り、負傷者を救い、魔王討伐後も各地で人を助けてきた。
「ミュゲ様をはじめ、魔王と戦った方々が多くの命を救われたこと。それによって教会への信頼が高まったこと。どちらも当然の結果です」
「でしたら、何が問題なのですか?」
ヴェティアが尋ねると、レナードはすぐには答えなかった。
「信頼と権力は、必ずしも別々に存在するものではありません」
「……」
「多くの人から信頼されれば、その言葉には重みが生まれます。本人が望んでいなくともです」
ヴェティアの頭に、ミュゲの姿が浮かんだ。
自分の答えを他人へ押しつけることを嫌う人。特別な力を持っていることさえ、必要以上に重く扱おうとしない。
「仮に」
レナードが続ける。
「ミュゲ様が国王陛下のご判断へ異を唱えられたとしましょう」
「ミュゲ様がですか?」
「仮の話です」
「……はい」
「国王陛下と大聖女。意見が分かれたとき、民はどちらの言葉を信じるでしょうか」
ヴェティアは答えなかった。簡単には答えられない。
「もちろん、内容によります」
レナード自身がそう付け加える。
「陛下が誤っている場合もあるでしょう。教会側が正しい場合もある。私は、国王の判断であれば常に正しいなどと申し上げるつもりはありません」
「では」
「問題は、誰が正しいかだけではないのです」
レナードは卓上へ視線を落とした。
「国を治めるためには、誰が決定し、その決定について誰が責任を負うのかが明確でなければなりません」
ヴェティアは黙って聞く。
「王が決定する。しかし、教会が認めなければ実行できない。あるいは、教会の支持を得ていない者は重要な役職へ就けない。もしそのような状態になれば」
「……王が国を治めているのか分からなくなる」
「その通りです」
レナードが頷く。
「教会が直接政治を行う必要すらありません。民衆や貴族たちが、教会の意向を気にして自ら動き始めれば、それだけで政治的な力になります」
ヴェティアは少し眉を寄せた。
嫌な話だとは思う。けれど、理屈そのものは分かる。
ミュゲ自身が権力を求めていなくても、彼女を信頼する人間が多ければ、その存在は政治へ影響する。
「現在のミュゲ様が慎重な方であることも存じています」
レナードは続けた。
「ご自身の立場を利用して政治へ口を出されるような方ではない。それも承知しております」
「なら、今は問題ないのでは?」
「今は、です」
静かな言葉だった。
「大聖女は、永遠に同じ方ではありません」
ヴェティアの目がわずかに細くなる。
「次の聖女。その次の聖女。そのすべてがミュゲ様と同じように、ご自身の影響力を慎重に扱われると保証できますか?」
「……できません」
「王も同じです」
レナードは即座に続けた。
「優れた王が続く保証はありません。だからこそ、個人の善良さだけに国家の仕組みを預けてはならない」
それは、ヴェティアにも分かる考え方だった。
善人だから大丈夫。立派な人だから問題ない。それだけで、大きな力を持たせてよいわけではない。
今の人物が正しく使うことと、その力が存在し続けることは、別の問題だ。
(……思っていたより、まともなことを言うのね)
少なくとも、教会が嫌いだから排除したい、聖女が気に入らない、そんな感情だけで動いているわけではない。
「侯爵は」
ヴェティアは慎重に尋ねた。
「教会そのものを弱くしたいのですか?」
「いいえ」
返事は早かった。
「必要な役割まで失わせれば、困るのは民です」
「では、何を望んでいるのです?」
「境界を守ることです」
「境界?」
「教会は教会として人々を支える。王家は王家として国を治める」
レナードは静かに言う。
「協力は必要でしょう。しかし、一方がもう一方をのみ込む状態は望ましくありません」
ヴェティアは茶へ手を伸ばし、一口飲んだ。考えるための時間が欲しかった。
原作では、レナードは敵だった。
少なくとも、ルミエを陥れる側にいた。
だから、どんな話をされても「悪人の理屈」として聞けば簡単だった。
けれど、今、実際に話を聞いてみると、すべてを切り捨てることはできない。
(問題を感じていること自体は、おかしくない)
問題は、その先だ。
ヴェティアは、まだそこを聞いていない。
「それと、ルミエさんに何の関係が?」
尋ねると、レナードの目がほんの少しだけ細くなった。
「そこです」
ようやく、本題が近づいてきた。
「ルミエ・セルメール嬢」
レナードはその名をゆっくりと口にした。
「平民の出身。極めて希少な光魔法の使い手。そして大聖女ミュゲ様が直接弟子として迎えた」
「はい」
「さらに、教会から正式に聖女見習いとして認められた」
「それが?」
「私は、彼女が平民であること自体を問題にするつもりはありません」
ヴェティアは少し意外に思った。
「そうなのですか?」
「出自だけで能力まで決まるなら、試験も教育も必要ありませんからね」
「……それはそうですね」
「ですが、彼女がこれからどのような立場になるのかは、別の問題です」
レナードが僅かに身を乗り出す。
「今は、聖女見習いにすぎません」
その言い方に、ヴェティアは少しだけ引っかかった。
けれど、言っていることは事実だ。
「正式な聖女になると決まったわけではない。大聖女になれると決まったわけでもない。今後どれほどの力を得るのかも分からない」
「はい」
「しかし、可能性はある」
ヴェティアは返事をしなかった。
ある。
少なくとも、原作では。
ルミエは正式な聖女になった。そして、鮮血姫ヴェティアを倒した功績も加わり、その名は広く知られるようになる。
「希少な光魔法を持つ若い聖女候補」
レナードは続ける。
「大聖女ミュゲ様との個人的な師弟関係まである。将来、正式な聖女となれば、教会内だけではなく社会全体へ大きな影響を持つでしょう」
「それだけなら」
ヴェティアは言う。
「まだ教会側の話でしょう?」
「ええ」
「王権との均衡が問題だと言われても、ルミエさん本人が政治へ関わるとは限りません」
「おっしゃる通りです」
また、あっさり認めた。
ヴェティアは少し眉を寄せる。
レナードは、こちらの反論を潰そうとしているわけではない。むしろ、認められるところは認めながら話を進めている。
「ですから、今この時点でセルメール嬢を危険人物だと申し上げるつもりはありません」
「……では?」
「彼女個人だけを見るなら、まだ一人の学生です」
その言葉に、少しだけ警戒が緩みそうになる。
けれど、続いた言葉で再び胸がざわついた。
「しかし、王家との距離まで近くなれば、話は変わります」
ヴェティアの指が止まった。
「王家との?」
「ブュッフェ公爵令嬢」
レナードが、まっすぐこちらを見る。
「あなたは第一王子ロンド殿下の婚約者です」
「はい」
「でしたら、王妃という立場がどれほど大きな意味を持つのかは、私よりよくお分かりでしょう」
「……何がおっしゃりたいのですか?」
「聖女が王家と強く結びついた場合について考えていただきたいのです」
胸の奥で、原作の記憶が動いた。
ルミエ。ロンド。
二人が並ぶ姿。
原作では、ヴェティアが倒されたあと、正式な聖女となったルミエとロンドは結ばれる。
身分の差。それを越えるだけの立場を、ルミエは手に入れていた。
聖女。
教会の象徴となり得る存在。
それが、未来の国王と結ばれる。
「仮に」
レナードは、ヴェティアの沈黙をどう受け取ったのか、静かに続けた。
「セルメール嬢が将来正式な聖女となったとします」
「はい」
「さらに、王家と婚姻によって結ばれたなら?」
ヴェティアは答えない。
「教会から強い支持を受ける聖女が王妃となる。あるいは、それに近い立場へ入る」
「……」
「そうなれば、王権と教会の境界は、今より遥かに曖昧になります」
否定したかった。
ルミエはそんな人ではない。権力を握ろうなどと考えていない。今だって、教師に呼ばれるたび、どうしたらいいのかとヴェティアを見るような少女だ。
けれど、それを言っても、レナードの疑問への答えにはならない。
本人が望むかどうかだけの話ではないからだ。
周囲が彼女の立場をどう利用するか。教会がどう見るか。貴族がどう動くか。民がどう受け取るか。
王家との婚姻は、本人たち二人だけの問題ではない。
(……厄介ね)
ヴェティアは初めて、原作で当たり前のように見ていた「聖女ルミエと第一王子ロンドが結ばれる」という結末を、政治の側から見た。
恋愛物語としてなら、平民の少女と王子が結ばれる。それで終わる。
けれど、実際の国では、それだけでは済まない。
聖女という立場。教会との関係。次代の王家。そこへ、いくつもの利害が絡む。
「……侯爵の懸念は、分かりました」
ヴェティアは認めた。
レナードが僅かに眉を上げる。
「意外です」
「何がです?」
「もっと強く反発されるかと思っておりました」
「ルミエさんは私の友人です」
「存じています」
「だからといって」
ヴェティアは言葉を選ぶ。
「あなたが今おっしゃったことまで、全部間違いだと言うつもりはありません」
レナードは黙って聞いている。
「教会の影響力が強くなりすぎれば、政治との境界が曖昧になる可能性がある。聖女が王家へ入れば、さらに複雑になる。それは理解できます」
「ええ」
「ただ」
ヴェティアは続ける。
「それは、ルミエさんが悪いという話ではありません」
「もちろんです」
レナードは穏やかに頷いた。
「私も、そのようなことは申し上げておりません」
ヴェティアは彼を見る。
今のところ、おかしなことは言っていない。むしろ、思っていた以上に筋が通っている。
原作の敵だから。王権派だから。それだけで全てを否定するのなら、たぶん、それは以前の自分とあまり変わらない。
気に入らない相手を先に悪い者と決め、都合のよい理由を後から並べる。
そういうやり方を、自分はやめたいと思ったはずだ。
(問題を感じることと、そのために何をするのかは別)
ミュゲに答えを尋ねても、きっと何を選ぶべきかまでは教えてくれないだろう。
なら、ここからは自分で聞くしかない。
「それで」
ヴェティアはレナードを見据えた。
「侯爵は、その問題に対して何をなさるおつもりなのですか?」
問いかけると、レナードはしばらく黙っていた。
それまでと同じ、穏やかな表情。礼節ある態度。
けれど、次に口を開いたとき、声にほんの少しだけ違うものが混じった。
「だからこそ」
レナードは言った。
「今のうちに、手を打つ必要があります」




