第20話 二人の弟子
「私は、あの方を助けたから」
ヴェティアは、ミュゲを見つめた。
「その褒美として、もう一度生まれることができたわけでは……ないのですか?」
ほんの少し、願うような響きが混じった。
もし、そうなのだとしたら。
宮田茜として生きた最後の行いには、はっきりとした意味があったことになる。
自分は完全に間違った人間ではなかったのだと、そう思えるかもしれない。
けれど、ミュゲはすぐには答えなかった。
「分かりません」
やがて返ってきたのは、先ほどと同じ言葉だった。
「……分からない」
「はい」
「でも、あの方との縁は強く残っていたのでしょう?」
「残っていました」
「でしたら――」
「その二つを、私が勝手に結びつけることはできません」
穏やかな声だった。
けれど、そこには迷いがなかった。
「あなたが老人を助けたこと。その方との縁が、今もあなたの魂へ強く残っていること。そして、宮田茜として死んだあなたが、ヴェティア・ブュッフェとして生きていること」
ミュゲは一つずつ確かめるように言った。
「そこまでは、今ここにあるものとして受け止められます」
「……はい」
「ですが、その縁があったから生まれ変わったのだと断言することは、私にはできません」
ヴェティアの中で、生まれかけていた期待が静かにしぼんでいく。
「褒美では……ないのですね」
「少なくとも、私はそう考えません」
ミュゲは頷いた。
「あなたが一人の老人を助けたから、それまでにしてきたことが消えたわけではありません」
「……はい」
「宮田茜という人が、その一度の行いだけで善い人間になったわけでもありません」
痛い。
けれど、もう目を逸らさなかった。
「それから」
ミュゲが続ける。
「もし、あの方が本当に聖者と呼ばれるような方だったとしても」
「はい」
「その方が特別だったから、あなたの行いまで特別なものへ変わるわけではありません」
ヴェティアは瞬きをした。
「あなたは、その方が何者なのか知って助けたのですか?」
「……いいえ」
知らなかった。
ただ、車が迫っているのを見て危ないと思ったから、身体が動いた。
「あなたが助けようとしたのは、一人のお年寄りだった」
「はい」
「でしたら、それでよいのです」
聖者だから助けたのではない。
特別な魂を持っていたから、命の価値が増したわけでもない。
あのときの宮田茜は、目の前で危険にさらされていた一人の人間を助けた。
ただ、それだけだ。
「あなたがしたことには、それだけで意味があります」
ミュゲの言葉に、ヴェティアは顔を上げた。
「けれど、その意味を使って、別のことまで帳消しにしてはいけません」
「……はい」
「善いことをした自分も。人を傷つけた自分も。どちらか片方だけが、本当のあなたなのではないでしょう」
宮田茜として、家族へ怒鳴った。
物を投げた。
何もかも他人のせいにした。
最後には、一人の老人を助けて死んだ。
そしてヴェティアとして、使用人を見下し、癇癪を起こし、アンナへ魔法を向けた。
その後で、傷つけた事実から逃げないと決めた。
「全部……私なんですね」
「私は、そう思います」
ミュゲは静かに答えた。
善い方だけを残すことも、悪い方だけを切り取って自分のすべてだと思うことも、きっと違う。
「では……」
ヴェティアは自分の手を見る。
「私は、どうしてここにいるのでしょう」
「それは、私にも分かりません」
今度は、その答えに驚かなかった。
「理由が、ないのでしょうか」
「それも分かりません」
「……何も分からないのですね」
「そのようですね」
あまりにもあっさり認められて、ヴェティアは思わずミュゲを見た。
「大聖女様なのに?」
「大聖女だからといって、知らないものまで知っていることにはなりません」
少しだけ笑っている。
ヴェティアは力が抜けたように息を吐いた。
「何だか……ずるいです」
「そうでしょうか」
「ここまで話を聞いたら、最後には答えが出ると思うじゃないですか」
「申し訳ありません」
そう言いながらも、ミュゲは困っているようには見えなかった。
「ですが、分からないことを分かったふりをする方が、私は怖いのです」
「半無我とは逆だからですか?」
「ええ」
ミュゲは頷いた。
「自分の望む答えを、そこにある真実だと思い込んでしまいますから」
ヴェティアは黙った。
まさに、自分が今やろうとしていたことだった。
老人を助けた。
その縁が強く残っていた。
自分は生まれ変わった。
ならば、その善行への褒美だったに違いない。
そう繋げれば、気持ちは楽になる。
自分には価値があった。選ばれた理由があった。もう一度生きるに値する人間だった。
そう思えるから。
(また、自分に都合のいい答えを探してた)
ヴェティアは唇を結んだ。
「……分かりました」
「はい」
「なぜ生まれ変わったのかは、分からない」
「はい」
「老人との縁が関係しているのかも、分からない」
「その通りです」
「でも、私が今ここにいることは」
ヴェティアは自分の手を握った。
「事実なんですね」
「ええ」
ミュゲが微笑む。
「それだけは、少なくとも今の私たちには確かなことです」
生きている。
ヴェティア・ブュッフェとして。
宮田茜の記憶も、それ以前からヴェティアとして生きてきた記憶も、どちらも持ったまま。
「……つまり」
やがて、ヴェティアは小さく口を開いた。
「やり直しではないのですね」
ミュゲは何も言わず、続きを待つ。
「宮田茜としての人生をなかったことにして。ヴェティアとして最初からやり直しているわけではない」
「私は、その捉え方が近いと思います」
「……そうですよね」
転生したからといって、過去が消えるわけではない。
善いことも、悪いことも、全部持ったまま。
「続きなんですね」
ヴェティアは呟いた。
「過去を持ったまま」
宮田茜として生きた自分も。
ヴェティアとして生きてきた自分も。
「その続きで、今度は違うものを選べるかもしれない」
ミュゲが、ほんの少しだけ微笑んだ。
「私は、その考え方が好きですよ」
胸の中が急に軽くなったわけではない。
むしろ重さは、そのまま残っている。
けれど、その重さを無理に消さなくてもいいのかもしれない。
過去は消せない。
なら、抱えたまま次の一つを選ぶしかない。
「ただし」
ミュゲの声が少しだけ柔らかくなる。
「一つ、覚えておいてください」
「はい」
「今こうして生きているあなたの命も、粗末にしてよいものではありません」
ヴェティアの指先が僅かに動いた。
「過去を悔いることと、自分の命まで価値のないものとして扱うことは違います」
「……」
「罪へ向き合うことと、自分が苦しみ続けなければならないと思うことも、同じではありません」
ヴェティアは答えられなかった。
まだ、その違いがよく分からない。
自分は人を傷つけた。
なら、その分だけ償わなければならない。
役に立たなければならない。
同じことを繰り返さないよう、自分を律し続けなければならない。
そう考える方が、今のヴェティアにはずっと分かりやすかった。
「悔いのないように生きてください」
ミュゲは言った。
「何も間違えずに生きなさい、という意味ではありません」
「……はい」
「間違えたなら向き合う。傷つけたなら、何ができるのかを考える。迷ったなら、立ち止まる」
そして。
「それでも、生きるのです」
ヴェティアは、しばらく何も言えなかった。
「……はい」
やがて、それだけ答えた。
今は、ミュゲの言葉をすべて理解することはできなかった。
ただ、もう一度生きているのなら、逃げずに自分のしたことへ向き合っていきたい。
その思いだけは、以前よりも強く胸へ残った。
◇
ヴェティアは、しばらく考え込んだ。
アンナの顔。
父。
母。
ロンド。
ルミエ。
そして、原作で自分が歩むはずだった未来。
鮮血姫。
あの未来を避けたい。
それは今も変わらない。
けれど、理由は少しずつ変わり始めていた。
破滅したくないからだけではない。
もう、誰かを傷つけ続ける人間にはなりたくない。
自分が何をするべきか。
何をしないべきか。
誰かに正解をもらうのではなく、自分で選べるようになりたい。
「ミュゲ様」
「はい」
ヴェティアは顔を上げた。
「それなら」
少し迷って、それでも言う。
「どう生きればよいのかを、教えてください」
ミュゲは、すぐに首を横へ振った。
「それはできません」
「……またですか?」
思わず、少しだけ恨めしそうな声が出た。
ミュゲが困ったように笑う。
「申し訳ありません」
「いえ……」
「ですが、本当に分からないのです」
「大聖女様でも?」
「大聖女でも、です」
ミュゲは静かに答えた。
「私は、あなたの人生の答えを知りません」
ヴェティアは黙る。
「あなたが誰と歩むべきなのか。何を選ぶべきなのか。どこまで誰かのために力を使うべきなのか。いつ立ち止まるべきなのか」
「……」
「それらを私が決めてしまえば」
ミュゲは僅かに微笑んだ。
「それは、私の人生になってしまいます」
ヴェティアは目を閉じた。
そうだ。
ミュゲは答えを与えない。
因縁を観ることさえ、最初は嫌がった。
半無我という技術も、光魔法も、特別なものだから価値があるとは考えていない。
大切なのは、何ができるかではなく、何のために使うのか。
そして、自分がどう生きるのか。
なら、尋ね方が違った。
また、自分は答えをもらおうとしていた。
「……では」
ヴェティアは、言葉を選び直した。
「答えをください、ではありません」
ミュゲの目を見る。
「自分で答えを選べるようになるまで」
胸元へ手を添える。
「学ばせてください」
ミュゲは何も言わない。
ヴェティアは続けた。
「私は、自分の感情に任せて人を傷つけました」
力があるから。
自分が上だから。
相手が悪いから。
そうやって、自分の行為を正当化してきた。
「これからも、腹を立てることはあると思います」
聖人になれるとは思わない。
「誰かを嫌いになることも。妬むことも。自分が正しいと言いたくなることもあると思います」
それでも。
「そのときに、前と同じことをしないために」
ヴェティアは頭を下げた。
「どう考えればよいのか。どう立ち止まればよいのか。自分のしたことへ、どう責任を負えばよいのか」
答えをもらいたいのではない。
学びたい。
「私を弟子にしてください」
静寂が落ちる。
ヴェティアは頭を下げたまま待った。
少しして。
「顔を上げてください」
言われるまま、顔を上げる。
ミュゲは穏やかに微笑んでいた。
「分かりました」
「……え?」
「お引き受けしましょう」
一瞬、意味が理解できなかった。
「本当に……?」
「あなたが頼んだのでしょう?」
「そうですけれど……」
「断られると思っていましたか?」
「少し」
正直に答えると、ミュゲが笑った。
「でしたら、今日はよい意味で予想が外れましたね」
ヴェティアの胸に、小さな温かさが生まれた。
けれど、すぐに一つの疑問が浮かぶ。
「あの……私は、光魔法を使えませんが」
「存じています」
「聖女になるつもりもありません」
「それも結構です」
「では、本当に何を学ぶのですか?」
ミュゲは少し考えた。
「まずは、力を持つ者としての節度でしょうか」
ヴェティアは背筋を伸ばす。
「あなたは四つの属性を扱うことができる」
「はい」
「それは便利な力であると同時に、使い方を誤れば人を傷つける力でもあります」
アンナ。
あの日。
自分が向けた魔法。
「そして、人を傷つけてしまった後に、どう向き合うのか」
謝れば終わりではない。
罰を受ければ消えるわけでもない。
「自分の判断へ責任を負うこと」
「はい」
「ですが」
ミュゲの声が少しだけ強くなる。
「責任を負うことと、すべてを一人で背負うことは同じではありません」
ヴェティアは目を瞬いた。
「……違うのですか?」
「違います」
即答だった。
「自分が悪いと思うあまり、他人の考えや選択まで自分で決めてしまうことがあります」
「……」
「私のせいでこの人は不幸になる。だから私が離れなければならない。私が全部引き受ければいい」
ヴェティアの胸が、わずかにざわつく。
けれど、今の自分にはその言葉が何を意味するのか、まだ十分には分からなかった。
「それもまた、相手の人生へ自分の答えを押しつけることになり得ます」
「……難しいですね」
「ですから学ぶのです」
ミュゲは笑った。
「私も、まだ学んでおります」
ヴェティアは少し驚き、それからゆっくりと頷いた。
「はい」
この人なら、答えを与えるのではなく、自分で答えを選べるようになるまで共に考えてくれる。
そんな気がした。
◇
「えええええっ!?」
数日後。
ルミエの声が教室へ響いた。
その日は授業を終えたあと、ミュゲから指導を受ける予定になっていたらしい。
その待ち時間に、ヴェティアが何気なく弟子入りしたことを口にした結果だった。
ヴェティアは思わず耳を押さえる。
「ちょっと。声が大きいわよ」
「だって!」
ルミエが身を乗り出してくる。
「ヴェティア様も、ミュゲ様のお弟子になったんですか!?」
「そうよ」
「いつですか!?」
「少し前」
「聞いてません!」
「言ってないもの」
「どうしてですか!?」
「別に逐一報告する必要はないでしょう」
「あります!」
「ないわよ」
ルミエは納得していない顔をした。
けれど、次の瞬間にはぱっと笑った。
「でも、嬉しいです」
「そう?」
「はい!」
そして少し考えてから、
「では、私たち同門ですね」
「……え?」
ヴェティアが固まる。
「同じミュゲ様のお弟子なんですから」
「いや、待って」
「何ですか?」
「あなたは聖女見習いでしょう」
「はい」
「私は違うわよ」
「知っています」
「光魔法も使えないし」
「それも知っています」
「なら、同門って……」
「同じ先生から学んでいるなら、同門では?」
「そういうものなの?」
ヴェティアは少し困った。
何となく、ルミエと同じところへ並ぶのは違う気がしたのだ。
彼女は、人を救う者として光魔法を学んでいる。
正式な聖女見習いとして、その生き方も学ぼうとしている。
一方、自分はもう同じように人を傷つけないために、自分の力や行いとどう向き合うのかを学ぼうとしている。
「二人は、同じではありませんよ」
聞き覚えのある声に、二人同時に振り返った。
指導のため教室を訪れたミュゲが、入口に立っている。
「ミュゲ様」
「大聖女様!」
「ルミエさん。その呼び方は、そろそろ変えませんか?」
「えっ」
「師匠でも先生でも、お好きな方で」
「で、では……先生?」
「はい」
ルミエが少し照れた。
ミュゲは二人のそばまで来る。
「同じ師から学ぶからといって、同じ道を歩く必要はありません」
ヴェティアは、その言葉を聞く。
「ルミエさんは、人を救う者として。そして聖女見習いとして、どう生きるのかを学ぼうとしている」
ルミエが少し緊張したように姿勢を正した。
「そしてヴェティアさんは」
一瞬、ミュゲと目が合う。
宮田茜のこと。
半無我で因縁を観たこと。
それらは二人だけの秘密だ。
「自分の力と、自分の行いへ、どう責任を負うのかを学ぼうとしている」
「……はい」
「目的が違えば、学ぶことも違います」
ミュゲは微笑んだ。
「それでも、同じ師のもとで学んでいるのであれば」
ルミエを見る。
「同門と呼んでもよいのでは?」
「ですよね!」
「……ミュゲ様まで」
ヴェティアは小さくため息をついた。
けれど、悪い気はしなかった。
「よろしくお願いしますね、ヴェティア様」
ルミエが嬉しそうに言う。
「何をよろしくするのか分からないけれど」
「同門としてです」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら、ヴェティアはふと思う。
原作では、自分とルミエは最後まで敵だった。
ルミエは聖女となり、鮮血姫ヴェティアを倒す。
そこで物語は終わる。
けれど今、二人は同じ人を師と呼んでいる。
同じ道ではない。
同じ目的でもない。
それでも、同じ師のもとからそれぞれの道を歩き始めている。
(私は……)
破滅を避けるためだけに、未来を変えようとしていた。
けれど、それだけでは足りない。
未来が変わっても、自分が何も変わらなければ、また別の形で誰かを傷つけるかもしれない。
(自分で作った罪障は、自分で刈り取る)
アンナを傷つけたことも、今まで人を見下してきたことも、消えない。
なら、覚えたまま逃げずに、これからの一つ一つを選び直していくしかない。
ミュゲは、
『悔いのないように生きてください』
と言った。
その本当の意味を、今のヴェティアはまだ分かっていない。
ただ、過去を背負うことと、自分まで捨てることは同じではない。
いつか、その違いを理解できる日が来るのだろうか。
今はまだ、分からない。
それでも。
自分の作ったものから逃げずに生きる。
その思いだけは、以前よりも強く胸の奥へ根を張り始めていた。
◇
ルミエ・セルメールが聖女見習いとなったという話は、いつまでも学校の中だけに留まってはいなかった。
平民出身。
希少な光魔法の使い手。
大聖女ミュゲ・ジプソフィルの弟子。
そして、教会が正式に認めた聖女見習い。
その肩書が増えたことで、ルミエを見る目もまた増えていった。
学校を訪れる教会関係者。
彼女の名を確認する貴族。
家族から話を聞いたのだろう、生徒たちの間でも、
「王宮でも話題になっているらしい」
そんな言葉が聞こえるようになった。
ヴェティアは、その意味をまだ深く考えてはいなかった。
ただ、原作を知っている自分には一つだけ分かる。
ルミエ・セルメールという少女は、もうただの特待生ではない。
そして、彼女の立場が変われば、それを歓迎しない者もまた必ず現れる。




