第18話 私を罪障よりお助けください
扉の前まで来たというのに、ヴェティアはなかなか手を上げることができなかった。
校内に用意された来賓用の一室。
その向こうには、大聖女ミュゲ・ジプソフィルがいる。
会いたいと思っていた。
聞きたいことも、ずっとあった。
だから自分から訪ねてきた。
それなのに。
(……何から話せばいいのよ)
前世があります。
この世界を、ゲームとして知っています。
私はそのゲームの悪役令嬢でした。
しかも、最後には人を傷つけ続ける鮮血姫になります。
そんな話を、いったいどこから始めればいいのか。
そもそも信じてもらえるのか。
ヴェティアは胸元で手を握った。
逃げたくなる。
聞かなかったことにしてしまえばいい。
今まで通り、原作の知識を頼りにして、破滅しそうな未来だけを避けていけばいい。
けれど、それでは何も変わらない気がした。
ルミエは自分で選んだ。
人を救えるようになりたいと願い、ミュゲへ学びたいと伝えた。
ならば、自分も自分の問題から逃げるわけにはいかない。
ヴェティアは息を整え、扉を叩いた。
「どうぞ」
穏やかな声が返ってくる。
「失礼いたします」
扉を開ける。
部屋にはミュゲ一人だけがいた。
窓際の椅子へ腰かけ、机の上に置かれた書類を読んでいたらしい。
ヴェティアの姿を見ると、静かに紙を閉じた。
「ヴェティア・ブュッフェさんですね」
「はい」
「どうぞ、お座りください」
「ありがとうございます」
向かいの椅子へ座る。
ここまで来た。
あとは話すだけだ。
そう思うのに、口が動かない。
「……」
「……」
ミュゲも何も言わなかった。
急かさない。
理由を尋ねることもしない。
ただ、ヴェティアが話し始めるのを待っている。
その静けさが、かえって苦しかった。
「……ミュゲ様」
「はい」
「お話したいことがございます」
「伺いましょう」
逃げ道がなくなった。
いや、逃げ道を塞いだのは自分だ。
ヴェティアは膝の上で手を握る。
「私は……」
一度、声が止まる。
「前世の記憶を持っています」
言った。
ついに。
誰にも言わなかったことを。
ミュゲの表情は、大きく変わらなかった。
驚いていないのか。
信じていないのか。
それすら分からない。
「前世、ですか」
「はい」
「続けてください」
それだけだった。
ヴェティアは小さく息を吐く。
「以前の私は、宮田茜という名前でした」
ヴェティア・ブュッフェとして生きるより前。
別の世界で。
別の家族のもとで。
一人の人間として生きていた。
「裕福ではありませんでした。ですが、食べるものがなかったわけでも、住む家がなかったわけでもありません」
なのに、いつからか何もかもが気に入らなくなった。
「上手くいかないことがあると、すぐに他人のせいにしました」
親のせい。
学校のせい。
教師のせい。
周りの人間のせい。
自分が置かれた環境のせい。
「私は悪くない。周りが悪い。もっと恵まれていれば、私はちゃんとできた」
そんなことばかり考えていた。
「家族に怒鳴りました」
言葉にするたび、胸の奥から思い出したくもないものが浮かび上がる。
「物も投げました。八つ当たりもしました。自分の人生が上手くいかないことを、家族へぶつけました」
ミュゲは何も挟まない。
ヴェティアの声だけが、静かな部屋へ落ちていく。
「けれど、自分から何かを変えようとはしませんでした」
努力したことがないわけではない。
けれど、上手くいかなければすぐに理由を外へ求めた。
自分が変わることより、自分以外の何かが変わってくれることを望んだ。
「そんな私が、好きだったものの一つに……物語がありました」
ヴェティアは少し言葉を選ぶ。
「私のいた世界には、今のこの世界と非常によく似た世界を舞台にした遊戯がありました」
「遊戯」
「はい。物語の中の人物を見ながら、その人生を追っていくようなものです」
厳密に説明すれば長くなる。
ミュゲも、それ以上は問い返さなかった。
「その物語の中に、ヴェティア・ブュッフェという少女がいました」
自分自身の名前を口にする。
「私は、その少女が嫌いでした」
「なぜですか?」
「……自分と似ていたからだと思います」
今なら分かる。
当時は認められなかった。
「恵まれた家に生まれて。才能があって。第一王子の婚約者で」
それなのに、何でも人のせいにする。
自分は悪くないと考える。
自分より評価される少女を憎む。
「私は画面の向こうのヴェティアを見て、何度も思いました」
喉が少し痛くなる。
「『何でも人のせい。自分は絶対悪くない』と」
それは、ヴェティアへ向けた言葉だった。
けれど本当は、宮田茜にもそのまま返ってくる言葉だった。
「『私がこの世界の住民だったら、もっと上手くやるのに』とも思いました」
ミュゲの目が、静かにヴェティアを見ている。
「『公爵令嬢で、魔法の才能もあって、王子様の婚約者なのだから、人生なんて簡単でしょう』と」
今になって思えば、酷い言葉だった。
誰かの人生を、外から見える条件だけで簡単だと決めつけていた。
「そして私は死にました」
白髪の老人。
迫ってきた車。
考えるより先に伸ばした手。
『……助かったなら、いいや』
それが、宮田茜としての最後だった。
「次に気付いた時には、私はヴェティア・ブュッフェとして生きていました」
正確には、ずっとヴェティアとして生きていた。
十六歳になったあの日。
アンナへ魔法を向けた、その瞬間に宮田茜の記憶を取り戻した。
「最初は……」
ヴェティアは視線を落とす。
「これで変われると思いました」
原作を知っている。
未来を知っている。
何が起こるのか知っている。
なら、鮮血姫にならなければいい。
ルミエを虐めなければいい。
破滅する選択を避ければいい。
「けれど、違いました」
アンナの顔が浮かぶ。
怯えた目。
傷ついた身体。
「私は、記憶を取り戻す前から人を傷つけていました」
使用人を見下した。
気に入らないことがあれば癇癪を起こした。
自分が公爵令嬢であることを盾にした。
「アンナという侍女へ、私は魔法を向けました」
握った手へ力が入る。
「紅茶をこぼされたことに腹を立てて。罰を与えるつもりで」
事故だった。
そんな言葉で逃げることもできた。
複数の魔法が暴走したのは、意図したことではない。
けれど。
「暴走させるつもりはありませんでした」
ヴェティアは顔を上げる。
「ですが、魔法を向けるつもりはありました」
そこだけは、もう誤魔化さない。
「私は最初から、アンナを傷つけるつもりだったんです」
静かな部屋に、自分の声が嫌に鮮明に響いた。
「そして、実際に傷つけました」
謝った。
治療費も負担した。
休ませた。
父へも話した。
王家にも報告した。
だからといって、傷つけた事実が消えたわけではない。
「前世の記憶を取り戻してから、私は何度も思いました」
『今の私は違う』
『宮田茜の記憶があるから』
『原作のヴェティアとは違うから』
そう言えば、少しだけ楽になれたかもしれない。
「でも」
ヴェティアは首を振る。
「違わないんです」
宮田茜も。
ヴェティアも。
不幸を人のせいにした。
自分が傷ついたからと、他人を傷つける理由にした。
「どちらも、私です」
それを言うのは怖かった。
けれど、誰か別の人間の罪にしてしまえば、また同じことをする気がした。
「私が知っている物語では」
ヴェティアは続ける。
「私は、この先さらに多くの罪を重ねます」
人を陥れ。
ルミエを憎み。
王権派と手を組み。
禁じられた研究へ手を染め。
人を実験材料にする。
そして最後には、
「鮮血姫、と呼ばれます」
ミュゲの眉が、ほんのわずかに動いた。
「その未来が必ず起きるとは、今は思っていません」
すでに変わったことがある。
ルミエとは友人になった。
自分も、原作とは違う選択をしている。
「ですが」
未来が変わるからといって、過去まで変わるわけではない。
「私は……怖いんです」
ようやく出てきた。
本当に言いたかったこと。
「自分がまた、同じことをするのではないかと」
誰かを妬んで、傷つけ、その後になって自分は悪くないと理由を探して。
「私は、過去世でも」
声が震える。
「今世でも……」
手のひらへ爪が食い込む。
「碌な人間ではありませんでした」
言い切った瞬間、視界が滲んだ。
ヴェティアは慌てて瞬きをする。
泣くつもりなどなかった。
泣いたところで、自分がしてきたことは変わらない。
泣けば赦されるわけでもない。
そう分かっている。
なのに、一度こぼれた涙は止まらなかった。
「……申し訳、ありません」
何に謝ったのか、自分でも分からない。
泣いていることか。
こんな話を聞かせていることか。
それとも、今まで生きてきたこと全部に対してなのか。
ミュゲは、
『泣かないで』
とは言わなかった。
『あなたは悪くありません』
とも言わなかった。
ただ静かに、そこにいた。
「ミュゲ様……」
「はい」
ヴェティアは唇を噛む。
ここまで言ったのなら、もう隠していても仕方がない。
「私……」
涙で声が詰まる。
「どうしたらいいのか、分からないんです」
アンナへ謝った。
父へ報告した。
王家からの処分も受け入れた。
これから同じことをしないようにしようともしている。
それでも。
「何をしても……したことが消えないんです」
当たり前だった。
それなのに、その当たり前が苦しい。
「アンナに謝っても、傷はなかったことにならない」
涙が頬を伝う。
「これから誰かを助けたとしても、私が人を傷つけたことは消えない」
声が崩れていく。
「私が変わろうとしていることも……本当は、ただ自分が破滅したくないだけなんじゃないかって……」
怖かった。
結局、自分は自分のために動いているだけではないのか。
善人のふりをして、破滅を逃れようとしているだけではないのか。
「私は……また誰かを傷つけるかもしれない」
ヴェティアは椅子から立ち上がった。
じっと座っていられなかった。
気付けば、ミュゲとの間にあった距離を詰めていた。
「ヴェティアさん」
「怖いんです……!」
もう、公爵令嬢としての体面など残っていなかった。
ヴェティアはその場へ膝をついた。
そして、縋るようにミュゲの衣の袖を掴んだ。
「私、もう嫌なんです……」
涙が止まらない。
「また人を傷つけるのも……誰かを妬んで、憎んで……そのあとになって、全部人のせいにするのも……」
指先が震える。
「そんな人間に、戻りたくないんです……!」
ミュゲは袖を振り払わなかった。
ただ、ヴェティアを見下ろしている。
「でも……自分で自分が信じられないんです」
ヴェティアは俯いたまま、ミュゲの衣を握りしめた。
「私は前の人生でも、今の人生でも……何度も自分を正当化してきました」
だから、今の反省さえ、いつか自分に都合よく作り替えてしまうのではないか。
怖くてたまらなかった。
「ミュゲ様……」
ヴェティアは顔を上げた。
涙で滲んだ視界の向こうに、大聖女がいる。
世界を救った人。
多くの人を導いてきた人。
自分よりずっと正しい場所にいるように見える人。
「お願いいたします……」
もう一方の手でも、ミュゲの衣へ縋る。
「私を……」
声が震える。
「私を罪障よりお助けください……!」
言ってしまった。
ずっと胸の奥にあった願いを。
「お願いです……」
ヴェティアは泣きながら首を振る。
「私一人では……また間違えるかもしれない……」
誰か。
助けて。
私は悪い人間だから。
自分では、どうにもならないから。
「ミュゲ様なら……」
世界を救った人なら。
自分とは違う場所にいる人なら。
「大聖女様なら……何か、ご存じなのでしょう……?」
罪を消す方法を。
赦される方法を。
正しい人間になる方法を。
「お願い……いたします……」
ほとんど、子供が助けを求めるような声だった。
長い沈黙があった。
ヴェティアは、ミュゲの衣を掴んだまま顔を上げることができなかった。
やがて、頭上から静かな声が降りてくる。
「ヴェティアさん」
「……はい」
「私は、あなたをお助けすることができません」
時間が止まったように感じた。
「……え?」
ヴェティアはゆっくりと顔を上げる。
ミュゲは穏やかなままだった。
軽蔑もしていない。
怒ってもいない。
けれど、救ってくれるとも言わなかった。
「私には、未だ人を助けるだけの力は備わっておりません」
「……」
「いわんや、他者の罪障を消滅させる力もありません」
指から、少しだけ力が抜けた。
「そんな……」
ヴェティアの唇が震える。
「ですが……」
縋るように、もう一度ミュゲを見る。
「ミュゲ様は、大聖女で……」
世界を救った。
魔王を倒した。
数え切れないほどの人を治療してきた。
誰もが尊敬する。
そんな人なのに。
「なら……私は……」
誰に助けてもらえばいいのか。
その問いを口にする前に、ミュゲは静かに首を横へ振った。
「人は私を大聖女と呼びますが、私もまた、自力を以てしては、過去久遠より自らが造作した罪を断ち切ることのできない、時の旅人なのです」
ヴェティアは、泣くことさえ忘れた。
ミュゲ自身の過去について、何か具体的なことが語られたわけではない。
けれど、目の前にいる人が急に遠い聖人ではなくなったように感じた。
大聖女だから。
世界を救った英雄だから。
罪や因果の外側へ出たわけではない。
過去を失ったわけでも、時間から切り離されたわけでもない。
「私は長く生きてきました」
ミュゲは、自分の袖へ縋るヴェティアを見下ろしたまま続ける。
「その中で、できたこともあります。できなかったこともあります。誰かを助けることができた時もあれば、助けることができなかった時もあります」
声は穏やかだった。
「私が誰かを助けたからといって、それ以前の私が行ったことまで消えてなくなるわけではありません」
「……」
「英雄と呼ばれたから、過去が変わるわけでもありません」
ヴェティアの胸が痛む。
それは、自分が欲しかった答えではなかった。
もっと優しいものを期待していた。
『あなたはもう十分反省しています』
『過去のあなたと今のあなたは違います』
『これから善いことをすれば、すべて赦されます』
そんな言葉を、どこかで待っていた。
ミュゲに言ってほしかった。
もう大丈夫だと。
あなたは救われてもいいのだと。
けれど、ミュゲは一つも言わなかった。
「では……」
ヴェティアの唇が震える。
「私は……どうすれば……」
ミュゲは、まっすぐヴェティアを見る。
「自分で作った罪障は」
静かな声だった。
叱るでもなく。
突き放すでもなく。
「自分で刈り取らねばなりません」
ヴェティアは何も言えなかった。
握っていたミュゲの袖が、手の中から少しずつ滑っていく。
罪を消してくれる人はいない。
大聖女ですら、自分の代わりに背負ってはくれない。
(……私が)
アンナを傷つけた。
(私が)
人を見下してきた。
(私が)
怒りを誰かへぶつけた。
なら、その結果からも逃げてはいけない。
頭では分かっていたはずだった。
けれど今、初めて逃げ道が完全になくなったように感じた。
「……私が」
震える声で呟く。
「私が……刈り取る……」
それは、怖い言葉だった。
重い言葉だった。
助けてほしい。
今でもそう思う。
誰かに、
『もういい』
と言ってほしい。
それでも、ミュゲはその重さを取り上げてはくれなかった。
ヴェティアは膝をついたまま俯く。
涙が床へ落ちる。
一粒。
また一粒。
ミュゲは立ち去らなかった。
答えを変えることも、慰めのために嘘を言うこともなかった。
ただ、泣いているヴェティアのそばにいた。
しばらくして、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ヴェティアは袖から手を離した。
「……申し訳ございません」
「何がですか?」
「お召し物を……」
ミュゲは袖を見る。
ヴェティアが握りしめたせいで、少し皺になっていた。
「洗えば済むことです」
「……はい」
そんな返事しかできなかった。
やがて、ヴェティアの中へもう一つの疑問が浮かんだ。
罪は消えない。
誰かが救ってくれるわけでもない。
善いことを一つしたからといって、過去がなくなるわけでもない。
なら、どうして宮田茜として死んだ自分は、もう一度人として生きているのだろう。
ヴェティアは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「……ミュゲ様」
「はい」
「それなら」
声はまだ震えていた。
「なぜ私は、もう一度……人として生きているのですか」




