粗相
本来、私は商品が出てくるタイミングで、この会場内の様子を見なければならなかった。もしかしたら、このタイミングで他のメディアの反応とは程遠い、どこか怪しげな空気を醸し出している人間がいて、その空気を感じ取る必要があったのだ。
しかし今は、それどころではなかった。
私は今日初めて会った話したこともない縁もゆかりもない会社の新入社員に対して、親心に似た何かを抱いていたのだ。だが、それも無理はない。あそこまで初々しく、そして思いっきり失敗したところもそれに対して思いっきり叱責されている場面にまで遭遇してしまっているのだ。
そんなところを見れば、ここにいる男性諸君も同じ思いを抱いたに違いない。
そんなことを考えているうちに、だんだんとパナケイアの登場宣言から、死に間に近い時間が流れようとしていた。
このままではまた彼女はとんでもない叱責を食らってしまうかもしれない。それこそもしかしたら解雇通告なんて可能性もある。
だが、この気持ちを抱いているのは私だけではなさそうだった。壇上にいた来栖や、すぐ隣にいる高瀬や岩倉も、彼女を心配そうに視線を送っているのが見えた。
その時、高瀬が岩倉に視線を向けた。それに対して岩倉も軽く頷く。どうやら、何か合図をお互いに送っていたのかもしれない。そして、とうとう高瀬がその場から動こうとしたその時、ようやく谷川が自分のなすべきことを思い出したようで、舞台袖へと駆け足で去っていった。
私はその姿を見て、そっと胸を撫で下ろした。どうやら、やはり私と同じ感情を抱いていた人間が他にもいたようだ。あちこちで緊張の糸が途切れ、忘れ去られていた呼吸を再開して、先ほどよりも深い呼吸をしている音が、各所で聞こえてきたのだ。
「こちらが新商品のパナケイアです」
来栖が気を利かせてか、少し食い気味に言葉を発した。
すると、谷川はパナケイアの入ったグラスを乗せた台座をゆっくりと押して出てきた。その慎重さから、二度と失敗しないという気迫を感じられる。
だがよく見ると、私は台座の上に乗っているパナケイアに違和感を覚えた。台座に置かれているグラスは、中身がよく見えるようにか透明のものが用意されていて、そこにパナケイアが注がれていた。
私はそのグラスの色に違和感を覚えていた。私が探偵から受けとった捜査資料に写るパナケイアの色は白色で、スポーツドリンクを想起させた。
ところが、あの台座に置かれたグラスを染めている色は茶色で、烏龍茶を想起させた。私のさっきまでの安堵が再び、心配で覆い被せられてしまった。
私は青柳の顔色を伺った。やはり、彼女の顔は笑顔がお留守になっている。
「谷川さん」
マイクを外していたが、確かに青柳は不作の新人の名前を呼んだ。だが、その後の手を回す動きを見て、それはグラスを染めているその色のことではなく、台座を真ん中まで持っていくまでの速度に対する叱責だと分かった。
確かに、私は今いろんなことに気を取られていたが、谷川の慎重さのおかげで、せっかく気を利かせた来栖の行動を無駄にするくらいに、死に間が出来上がっている。
谷川もようやくそれに気がついたのか、少し速度が上がった。だが私はそれに伴って上のグラスに注がれたパナケイアが波打つのを見て、心臓が飛び出しそうになった。
「ちょっと待ってください」
急に来栖の声が会場内に響き渡った。
「どうかなさいましたか?来栖さん?」
青柳の目は先ほどまでの粗相のせいで、悪魔に取り憑かれているかのように、恐ろしいことになっている。
「いや、パナケイアが・・・」
「パナケイアは問題ありません。続けてください」
事態を察したように、岩倉が食い気味にそう言ったが、会場の空気は修復を試みなければならないほど、異様な空気が漂っていた。
メディアの人間なら、こういったことも面白おかしく書いて、この会社のイメージに影響を与えるのも目に見えた。
すると、先ほどまで悪魔そのものの表情で立っていた青柳が急に聖母のような笑顔を浮かべると、こちらを一瞥しながら、パナケイアが注がれたグラスを手に持った。
「来栖さん、続けてくださる」
まるで来栖に今の状況を考えるよう無言の圧力を感じる目つきだった。やはり目は多くを語るようだ。
来栖は慌てた表情と、どこか腑に落ちない曇りがかった表情を錯綜させた。
「では、これよりプロジェクトリーダーの青柳がパナケイアを試飲いたします」
青柳はパナケイアを高々とあげると、それを思う存分に写真に納めさせた。会場の暗さと大量のフラッシュせいでもはやパナケイアの影も形も目視することはできない。
サービスタイムが終わると、青柳はグラスを口元に近づけ、茶色いパナケイアをゆっくりと飲み干した。恐らく勢いよく飲み干してしまうと、逆に美味しくないというイメージがつくからだろう。
その光景を来栖、岩倉、高瀬は拍手をしながら、見守っている。彼らのその様子はどこか各々で思惑があるように見えたのは私だけなのだろうか?
青柳は空のグラスを少し見せると、すぐに台に置き谷川に再び目で何かを訴えていた。
もしかしたら、彼女がパナケイアを飲んでいる最中に、わずかに動いた眉間の皺に何か関係があるのか?
考えれば考えるほど、彼らの一挙手一投足が気になってしまう。ここは一旦何も考えず、フラットな気持ちでいる必要があるのかもしれない。
「続きまして、パナケイアの詳細について、開発チームよりご説明をさせていただきます」
来栖の紹介とともに、今度は岩倉が中央に移動し、早々と一礼をした。
「皆様、本日はご多忙の中、パナケイアデビューイベントにご参加いただきありがとうございます」
非常に早口な物言いに、緊張と不慣れなことはわかった。
「改めまして、パナケイア開発チームリーダーの岩倉と申します。早速ではございますが、パナケイアの主成分でございますクルゲン酸についてご説明させていただきます」
この時、こちら側の席で数人が前屈みになったことに気がついた。こんなあまり大衆受けしなさそうな話題に興味を示すのは、やはり何か裏があるのだろうか?それとも、メディアでもこういった科学分野の専門家なのか?それともただお尻が痛くなって体勢を変えただけなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、岩倉の早口な物言いで説明が続けられていた。その時、ふと青柳の方が気になった。
どこか顔色が悪く、足元がおぼつかないように見える。
「このクルゲン酸は、我が社で独自開発された成分でございまして、十種類以上の薬草から成分を分析し、最も効率的に体の疲労回復作用を発揮するかなど・・・」
やはり、青柳の様子がおかしい気がした。
「青柳さん、大丈夫ですか?」
真っ先に異変に気がついたのは谷川だった。彼女の声に、岩倉、来栖も青柳の方を見た。その時にはすでに青柳の意識は朦朧としているのが、傍目からでも明らかになった。
そして彼女はそのままその場に倒れてしまった。
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第1話→https://ncode.syosetu.com/n1110mi/1




