盗賊団鉢巻小僧の面々
平岡勘右衛門
天保元年1830年7月3日〜不明
儚い登場時は34才
盗賊団鉢巻小僧の棟梁。
元々は京都町奉行(東町奉行)の与力組頭。
当初の設定では代々貧乏与力とされていた。
後に変更。
幕末の京都は政治の中心地となり、穏やかであった京都の治安が一気に悪化する。京都町奉行所は時代の流れに対応できず悪化の一途をたどる治安を防ぎきれなかった。その為幕府は浪士で結成させた新撰組や京都見廻組を京都の治安を警備する役に付かせた。
此れにより必然的に与力の必要性が薄れ、又京都の治安を維持できなかった事を与力組頭の平岡勘右衛門に全ての責任をなすりつけた東町奉行永井尚志は勘右衛門以下2人の与力、10人の同心をお役御免とした。
しかし、勘右衛門以下12人の与力、同心はそれを不服とし役宅を占拠。不服申し立てを行う。
1ヶ月に渡る交渉の末、永井は勘右衛門以下12名を伏見奉行所に招き正式な話し合いの場を設けるとにした。
しかし、伏見奉行所にやってきた勘右衛門達にそう言った話は聞いていないと門兵に門前払いを食ってしまう。
仕方なく伏見奉行所の門前で勘右衛門達は永井の到着を待ち続けたが一向に訪れる気配はなく不審に思った勘右衛門達は役宅に引き返す事にした。
役宅に到着した勘右衛門達を待っていたのは想像を絶する現実であった。
与力、同心関わらず勘右衛門以下12人の家族が一人残らず惨殺されていたのだ。しかも、家の中、外と所構わず切り捨てられた遺体には首がなく、誰が誰かわからぬくらい切り刻まれていた。
その惨劇の様子から逃げ惑う老人、妻子を容赦なく前から後ろから切り捨て、子を庇う母ごと突き刺した槍が生々しく床に突き刺さっていた。
翌日家族の首は三条の河原に七日間晒された。
部屋の中に置かれた誠の旗を見やり勘右衛門達は永井の策略にまんまと騙されたことを知る。が、その事について東町奉行所に訴える事も出来ず、勘右衛門と助三郎は西町奉行所と伏見奉行所に訴えを起こすが何れも却下される。
結局身の危険を感じた勘右衛門一行は一時は京都を離れることも自害することも考えたが、仇を取らずして何とする。と、怒りを振るい立たせ盗賊団鉢巻小僧を結成するのである。
木嶋助三郎
天保3年1832年6月21日〜不明
儚い登場時32才
勘右衛門と同じく東町奉行所の与力。
同じくお役御免となり役宅に立てこもるが永井の策略により一家を惨殺される。
盗賊団鉢巻小僧の若頭を務める。
田中与作
天保14年1843年12月4日〜不明
儚い登場時21才
同じくお役御免になった同心。
高峰権七
弘化3年1846年〜不明
儚い登場時18才
上に同じく。
共に盗賊団鉢巻小僧の団員。




